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  • 2026年5月25日

釈迦伝、草稿

第一章

「輪廻転生はないか」

 シッダールタは川面を眺めながらつぶやいた

 夜で暗いが晴れて月あかりと満天の星で水面が暗く見える。

 29歳で出家してから6年余り、苦行中から何となく考えてはいた。

 アートマンは存在するのかと。

この世に真の自我であるアートマンと世界や宇宙の法則であるブラフマンがあるというのは修行者なら常識だ。

 しかしシッダールタはいつのころからか他の事を考えるようになった。

 思えば思春期の時に生じた考えだったが苦行の途中でだんだん強く感じるようになった。

 子供時代は家庭教師のバラモンのヴェーダやウパニシャッドの講義が好きで真理について考えるのが楽しくて仕方がなかった。

 その時はアートマンの存在を強く感じていた。

しかし段々複雑なことを考えるようになって頭を使いすぎたせいか頭痛がするようになり物事が現実感をもって感じられなかったり、いろんなことに心地よさや喜びが感じられなくなったりして、荒涼とした苦しさや自分が自分でない感じがしてアートマンというものがよく分からなくなり混乱するようになった。

 出家して苦行を続ける中で人間について考えるようになった。

家庭教師からは人間は真の自我のアートマンが存在して輪廻転生を永遠に繰り返すと教わった。

また人間は体や思考や想像や意欲や認識などのいろいろな要素から成り立つと教わった。

 なんとなくぼんやりとした違和感はあった。

 しかし苦行の中でだんだん違和感が大きくなっていった。

 アートマンの存在と人間がいろいろなものから成り立つのは両立しないのではないか、と。

 何かをつかめる予感がした。

 苦行をしていると落ち着いて考えられない。

 苦行をやめることにして考えることに専念することにした。

 そもそも苦行についても前から疑問があった。

 出家したときアーラーラ・カーラーマ仙人とウッダカ・ラーマプッタ仙人のところで瞑想の仕方を教わった。

 瞑想している間は苦しみから離れられたが瞑想をやめると苦しみについて考えてしまう。

 これでは意味がないと思って離れたが、考えれば苦行も同じことではないかと。

 苦行している間は苦しくて苦行をやめると苦しみはなくなる。

 苦行し続けて苦しみをいっぱいにすればいつか永久に苦しくない状態に到達できるのだろうか?

 …どうにも納得できなかった。

 苦行して永遠に苦しまなくなった人が実際にいるのかはっきりしない。

 シッダールタはより苦行している人は周りにたくさんいたが誰も苦しみから永遠に解放されそうな気配はない。

 それどころか怪我したり後遺症が残ったり障害をおったり死んでしまったりする。

 死んだらどっかでまた生まれ変わって苦しむかもしれない。

 死ななくても苦行していれば生きているのが余計苦しくなるだけだ。

 …意味がない。

 それより今何かをつかめそうな予感があるので落ち着いてじっくり考えてみることにした。

非難する仲間も多かったが仕方がない。

第二章

 苦行で体は弱っていたが沐浴と周辺住民の托鉢で体を整えている。

 もうすぐ冬至で肌寒く夜が長い。

 (生きている人間がいろいろな要素で成り立っているとするとアートマンはどこにあるのだろう?)

 体がアートマンでないことはもちろんだろう。

 アートマンはもっと精神的なものの感じがする。

 とすると受想行識のどれかかそれらの組み合わせ?

 あるいは受想行識以外の別の精神的な要素?

 あるいは色受想行識全部を家としてその中に住んでいる別の何か?

 いろいろな考えが巡っていく。

 (そもそも人間とはどうなっているのだろう?苦しみとは何だろう?)

 また別の考えに流れる。

 思考は巡る。

 (人間はなぜ苦しむのだろう?それは生きているからか。生きているとは何だろう?生きていると言っても客観的に生きていることと主観的に生きていると感じることは分けないといけないな。主観的な方が問題なのだから生きていると感じるのはなぜなのだろう?)

 多分この主観的と客観的を分けるのが大切なのだ、とシッダールタは思った、というか考えた。

 生きていても生きている感じがしないことは多い。

 そしてそれは大変つらいことがある。

 それはシッダールタが少年から青年に至るまでの間、あるいはその後もいまだに引きずっている問題だった。

 生きていても生きているという感じを感じていてそれが快さをもたらさないと人生はかなりつらい。

 生きている感覚でも悪い生きている感覚とよい生きている感覚があってよい生きている感覚が得られるのは何かが満たされた時だと思った。

 それは多分欲求や欲望が満たされた時だと思う。

 ただ欲求や欲望みたいなのがうまくわかない、あるいは精神的にかみ合わないつらさもシッダールタが苦しんできたことだった。

 欲望というのはあって当たり前のものではない、というのがシッダールタや数少ない人しか知らないことだろう、という確信がシッダールタにはあった。

 シッダールタのような体験をした修行者はまだ結構いるかもしれない。

 その中にはシッダールタと同じように生を感じること、欲望が単純なものでないのに気付いている人はその中でもさらに少なくなるはずだ。

 ということは今シッダールタが掴みつつあることと同じことを自覚的にそこに真理があるという確信をもって探求している修行者は少ないに違いない。

 多分自分は自分にとってだけではなく全ての人間にとって価値のことを成し遂げようとしているのだ、という予感が堰を切るように押し寄せつつように感じた。

第三章

 考えが奔逸して群がり起きるような感覚があった。

 苦行により体は弱っているが気にならない。

 そういうことはシッダールタの人生ではしばしばあることだった。

 調子のいいのはいいのだがその後調子が悪くなることがあるので注意だ。

 特に思春期の頃のはひどくて信じられないほど頭が冴えたのだがその後に思考や感情が上手くかみ合わなくなってそういうのが今でも続いている。

 だから考えすぎは注意だ。

 35歳まで生きられた。

 苦行で体を痛めつけて弱らせたことを考えればこれは運がよかった。

 王子なので恵まれて育ったお陰かもしれない。

 でももう一沙門に過ぎないからそんなに長くは生きられないだろう。

 この世界では人間はすく死ぬ。

 病気にもなるし怪我もする。

 35歳で老いも強く少年時代のような健康感はない。

 ただ今は体調も良く頭も晴明だった。

 後でどうなろうと今は考えないといけない時だと思った。

 夜半は深まり水面に吹き渡る風が肌に届いて先ほどより冷たくなった気がしたがどうでもよかった。

 シッダールタは元々物に執着のない子供だった。

 シッダールタは両親が溺愛されて育った。

 王だったためか財力もあった。

 両親も家臣もシッダールタが何か欲しそうな感じに見えると何も言わずとも先回りして十二分以上のものが用意されているような環境だった。

 しかしそれよりも10台に精神を病んでから心がかみ合わずちぐはぐになってしまった。

 快楽であるはずの事に快楽を感じない。

 快楽を求めようという気にもならない。

 快楽をもたらすものがあれば快楽を感じるのは当たり前だと思っていた。

 しかし快楽をもたらすものと快楽が分裂してしまった。

 周りは心を病んでいるのではないかと言った。

 その通りで病んでいたのかもしれない。

 しかしまた自分の中ではこうも思った。

 快楽をもたらすものが快楽を生じされるというのは分裂しているのが本来の在り方でそれらを統合しているのが当たり前だと思っているのは実は人間の錯覚であり妄執なのではないかと。

 欲望も作られたり形が変わるのだ。

 欲望はあって当たり前というものではない。

 また欲望を満たされても満足を感じるのもまた当たり前ではない。

 それらは心の働きだがそうでない心の働きもあるのだ。

 出家して修行者の仲間になってからはシッダールタは変わっていると言われていた。

 王族だから俺たちとは違うのだという沙門もいた。

 確かに私は変わっているのかもしれない。

 しかし今ははっきりとわかる。

 多分誰も私のように感じて考えていた者はいなかったのだ。

 今欲望が作られるものであるという事の意味が初めて分かる気がする。

 みんな欲望はあって当たり前と思っている。

 生まれてから欲望と欲望を満たすものの関係が当たり前で自然で疑いようもなかったからだ。

 私も昔はそうだった。

 今は違う。

 当然他の人々や昔の自分の心の中も理解できるが違う見方を得ている。

 そしてそれは重要な事のように思える。

第四章

 夜は深まっていく。

 しかしシッダールタは自分の考えに没頭していて周囲のことは入らない。

 (欲望が形成されるものだとしたら何によってか?何か刺激を受けることによってだ。外部との接触と言ってもいいだろう。ただ自分と外部やいろいろな事物と接触しても欲望が生じるとは限らない。大前提として自分と自分以外の何かからの刺激や接触を感じ取れないとだめだ。そのためには感覚がいる。耳が聞こえなければ音がなっても何も影響はない。自分は変わらない。欲望も生じない。目が見えなくてもそうだ。他の感覚もそうだ。感覚があるから欲望が生じる。感覚が刺激となって欲望が生じるのだ。では感覚は何から生じるのか?)

 シッダールタの思考は止まらない。

 いつの間にか不自然な姿勢になって筋肉に力が入って体が固まっているが動かす気にはならない。

 (後で体がこるな)

 ちらっとよぎったがまあいつものことだ。

 (結局欲求も生の実感もこころが作るものだ。とすると五感が根源的で元になるものかというとそうではないだろう。これは出家して最初についたアーラーラ・カーラーマ仙人とウッダカ・ラーマプッタ仙人、2人の師匠から教わった。無所有処と非想非非想処。何ものも存在せずあらゆる執着を離ている精神状態と表象があるわけでもなくないわけでもない状態。それは自己分析のようで簡単だった。他の修行者たちから聞くとこれが分かっている修行者は師匠たちだけでなく他の仙人や聖者レベルならたくさんいそうだ。まあそうだろう。定や止観や瞑想や瑜伽行すればいずれ分かることではある)

 心の探求―、結局シッダールタには修業はそういうものだ。

 いろんな修行者がいる。

 宇宙とは何かとか世界とは何かとか存在とは何かとか実在とは何かを追求する修行者もいるし偉い仙人や教団もある。

 それはそれでいいのだがシッダールタの求めるものとは違うものだ。

 シッダールタの求めるものは人間が永久に苦しまないようになれるかどうかだ。

 短期間苦しまなければいいというものではない。

 永久に苦しまない状態があるかどうかだ。

 そしてあればその状態になりたい。

 私がその状態になれるのか。

 その状態になる方法があるのか。

 それが問題だ。

 死んで終わりなら楽なのだが今生の苦が終わるかもしれないが生物は死んでも生まれ変わる。

 次生、来生、あるいは次が終わってもまた次の生があり、永久に生まれ変わり続けるのだからそのどこかでは苦しむ可能性は残るだろう。

 だから死んでも意味はないのだ。

 死んでも苦しみが終わるわけではない。

 生きていれば結局苦しみがある。

 病気になれば苦しいし怪我すれば苦しい。

 おなか減っても苦しいし、愛する者との別れも苦しいし、ほしいものが手に入らないのも苦しいしまさに四苦八苦だ。

 苦しくないときはあるし、瞑想で苦しくないようにはできることもある。

 でも短時間だしずっと迷走していることはできない。

それに瞑想していても苦しいときもあるし瞑想がうまくいかないこともある。

 苦行すれば苦しい。

 というかなんで苦行していたんだろう。

 なぜ修行者は苦行するのか?

 何となく苦行の果てに苦しみを離れた境地があるみたいな感じで初めて見たが、よく考えるとふわっとしているな。

 苦しみ尽くせば苦しまない状態になれるのか?

 全く根拠がないな。

 よく考えるとなんで苦行していたのだろう?

 結局それしかなさそうだったからだ。

 どこにいっても誰に教えを乞うても永久に苦しまない方法を教えてくれる人もいなければ、その境地に達している人もいないようだった。

 だからなんとなくみんながやってる、みんなが言ってる方に流されてしまったのだろう。

 よく考えれば何も考えていなかったな。

 行き詰っていたのだろう。

 今も行き詰っているのだがもうちょっとで何か思いつきそうな手ごたえがあった。

第五章

 シッダールタの精神は冴え渡る。

 考えが次々とわいてくる。

 もやっとして形にならないものもあるがもう少しで届きそうな感じがした。

 (まあ昔のことを考えても仕方があるまい。過ぎたこと終わったことより今掴みつつある何かだ。感覚の前には全感覚と言えるようなものがある。見ても聞いても触っても何も感じないことも気づかないこともある。今の私がそんな感じだろうな…。それは感覚以前のもっと抽象的な、観念的なものだ。例えば名や言葉や絵や音楽、あるいはそういうのを聞いているときに感じる何か感覚を超越しているような…、いや超越という言葉はおかしいか、仮に前感覚みたいに感覚の前にあるものというのとでも言っておこう。それは感覚のように個別具体的ではないかもしれないが象徴的な形で示されることもある。思考や表象中に現れるもの、表象や抽象とでもいっておけばいいか。しかし表象や抽象というと広すぎる気もするのでそういう形でしか表現しにくいものだな。六感というが感覚はそんなに厳密に分けられない場合も多い。悲しい音楽を聴けばブルーな感じがするし、明るい音楽を聴けば明るい、赤や黄色やピンクのような温かい色を思い浮かべるだろう。仮に「名色」とでも読んでおくか…。誰かがそんなこと言っていたような気もするがいまはいいだろう。なかなかぴったりした呼び方だ)

(生や欲望や感覚の前にある名色自体も当たり前のものではない。生や欲望や感覚が作られたものであるなら名色もつくられたものだ。名色は感じている時ではなくこうして思考したり想像しているときに感じることができるな。名色は頭の中にいつもあるのかもしれないが我々はそれを認識している場合もあれば認識していない場合もある。認識している名色と認識していない名色が混在している場合もある。注意を変えれば認識される名色も変わる。とすると認識か。問題は認識だ。我々が何の名色を認識するかは何によってきめられているのだろう?注意の焦点をどこに当てるかと関係があるが我々の注意を捜査しているのはなんだろう?)

 (結局意識するものと意識されないものがある、という言い方はちがうな、意識したり意識しなかったりするような心の仕組みがあるのだ。意志?主体?自主性?自覚?笑われは自分の心を自由に操れるように思っているがそうではない。我々は何かによって何かに注意させられているのだ。同じように何かを注意しないようにさせられているということもできる。何となく自分で自由に自分の注意を向けているように思っているが何かよく分からないものに注意を向けさせられているとも言える。もちろん自分の自由意志で注意を向けている場合もあるかもしれない。しかしそうでないことがあるということがあること自体が重要だ。むしろそっちの方が本当で我々が自分で自由に好きなものに注意を向けていると感じること自体が錯覚、というかそう思い込んでいるだけのことかもしれない)

 「行、か」

 何となく頭に浮かんだ言葉を口にしてみる。

第六章

 ―行―。

 どっかで聞いたことがあるかもしれないが思い出せない。

 そもそも子供の時、いや思春期頃、教育係の先生にヴェーダやウパニシャドを教わってからずっと考え続けてきたのだ。

 出家してかもいろいろな先生に教えを乞うて回った。

 我以外皆師、というのがシッダールタのモットーだった。

 別に答えを見つけるのが目的名だけではなく考えること、学ぶことが好きだった。

 考えていればそれなりに楽しかった。

 まあ楽しくないこともあったが少なくとも自分の好きなことを考えているときには楽しかったといってよかっただろう。

 何せヴェーダやウパニシャドは難しい。

 世の中に修行者はたくさんいて大昔みたいに伝統的な教えだけでなく今の時代はバラモン以外のいろいろなヴァルナの者が自由に真理を探究する時代だ。

 それで偉くなる者もいる。

 それを目当てに修行者になる者もいる。

 ヴァルナは変わらなくてもそれなりの修行者になればバラモン以上に尊敬を集められる。

 弟子や教団を持つこともできる。

 シッダールタもそういう勧誘を受けたことがある。

 というかよく誘われた。

 出家して最初の師匠のところで早速後継ぎにならないかと誘われたほどだ。

 そもそもそこではシッダールタの求めていたものは得られそうになかったのでそんなことは論外だった。

 いい先生だったが国も家族も捨てて仙人、教団の後継ぎになっても仕方がないというのもある。

 と考えるとちょっとおかしくなった。

 国王の地位を捨てて仙人になる、か。

 釈迦国も大した国ではなかったがそれでもそこそこ大きくても中小の教団の指導者に転職するのは何か滑稽だ。

 そんなことになっていたら父上も母上もみんなびっくりしただろうな、と心の中で諧謔めいたことを想像すると面白かった。

 それはそれとして…。

 結局我々は何一つとして確かなものはない。

 「生も欲望も感覚も認識も行も心が作っているものだ」とつぶやいた。

 何か一本の線で通じる感じがあった。

 芯が通ったような、一気通貫な感覚。

 多分我々はいろいろな要素からなる行によって何かを認識するようにさせられる。

 認識「する」、ではなくて認識「させられる」だ。

 そして認識する対象は名色、六感と具体化される。

 感覚する、ではなく感覚「できる」「できるようになる」と感覚「させられる」というのが大切だ。

 感覚が実体として存在するかどうかはこの場合はどうでもいい。

 我々が何かを感覚自体があることと感覚しているときにはそれを支える心の仕組みが発動しているからであって、我々は自分で自分の心を自由に働かせているのではなく、自分の心(心でいいのかな?一旦そう呼んでおこう)に働かされるにすぎない。

 思考の本流は止まらない。

 流れる流路を得たのだ。

 感覚システムに何か刺激を与えればそれに反応することがある。

 そして欲望が生まれる。

 欲望は何か感覚だか名色だか認識だかあるいはそういったものの全部だか知らないが(今は細かい所はどうでもいい)それを満たすことを求める。

 我々は欲望を満たそうと考え、実際に満たされ満足することもあれば満たせず満足しない場合もあるかもしれないが、その中間もあるかもしれずいろいろあるだろう。

 しかし注目すべきは欲望が満たされ充実感や充足感を得られた場合だ。

 欲望が満たされても、そしてさらに充足しても喜びも快楽も得られない場合もある。

 それはシッダールタが長年苦しんできた思春期以来の心の後遺症ともいうべきものでもあった。

 シッダールタは欲望が満たされても快楽を感じられないときがある。

 シッダールタにとっては欲望を満たされることと快楽を得られることは分裂したことだった。

 さらには適切な欲望が生じないときもある。

 そのためシッダールタの行動や言動には奇異なところがある、そしてそれは自分でもそう思うし自覚している。

周りの人に変に思われているのだろうなと。

 「心の病」「王子が心を病んだ」ということで問題になったこともあった。

なんでも医者によるとそういうことは思春期にはあることのようだ。

心がこじれてなかなか元に戻らない。

一生元に戻らないときもあるし気が狂ってしまうときもあるのだそうだ。

シッダールタは王位継承者では実母はシッダールタの出生時に死んでいたが王である父にも乳母にも親戚や家来にもバラモンの先生にもそれなりに愛されて恵まれて育ったと自分でも思う。

小さな国だったしみんな家族親戚のようなところがあった。

自分でもまた周辺からも「釈迦族」と呼ばれていた。

コーサラ国やマガダ国のような大国だったらまた違っただろうと思う。

特に父はコーサラ国との関係に心を痛めていた。

父はシッダールタを後継者として教育を受けさせ厳しい所もあったが基本的に甘い父親だったと思う。

結局出家させてくれたが後継ぎを生んだおかげか、シッダールタでは王は無理だと思ったせいかよく分からない。

出家できたのでシッダールタにはどうでもいいことだった。

それでもやはり気になることはあるが。

第七章

 欲望が満たされると普通の人は満足して喜ぶし快楽を感じるし生きている実感を得るのだ。

 シッダールタには当然ではないところもあったがシッダールタでもうれしいときはあるし生の実感を得ることもある。

 シッダールタは心の病と言われて心の病とはこういうものなのかと思ったものだが、自分が普通の人間と違うとは思わなかった。

 それは誰の心もそういうものだしだれでも自分のような状態になりうるのだ。

 シッダールタはそれに気づいただけで他の人は気づいていないだけだ。

 でもそのせいで思考がスムーズにいかないこともあり奇異なだけではなく人にどんくさく思われたことも多かっただろうとは思う。

 しかしその体験が今生きていると思った。

 思春期以来苦しんできたこと、変わってしまったこと、人と違ったこと、そして得たことは今このためにあったのだと思った。

 生の実感は喜びで生の実感が脅かされるときには苦しみを感じる。

 それはいいとして皆には実感はない。

 私にも実感がなかった、というよりは何か愚鈍で鈍重で暗愚の中にいてそこにあったのは知っていたのに意識ができてなかっただけのような感じが近いと言えるかもしれない。

 「行はつくられるのだ」

 シッダールタの思考は行に向けられる。

 行とは人間の心の、内面のよくわからないもの全体のようなものだ。

 人間には確固たる自分というか自分の中心としてのアートマン、自我とか自己とかあると言われているがそんなものはないのではないか。

 いろんなものの、いろんな精神要素、心の要素の総体と関係性こそが行だろう。

 そのいろんなものが何かは分からない。

 分からないが見方によっては分かる部分もある。

 かりに人間を色受想行識、物質的な体の部分、感じる感覚の部分、想像したり思考したりする部分、意欲の形成の部分、認識の部分、その他から成り立つとしよう。

 そのどれかだけが自分というわけではない。

 それらの全てとそれらの働きとそれらの関係の総体がじぶんをなす。

 「自分が存在する感じがするから自分は存在する」

 そんな風に単純にはシッダールタは考えられなかった。

 シッダールタ以外の人にはそれは単純ではなく自明なことかもしれない。

 そんなことを単純ではなく複雑に考えるシッダールタの方がおかしいというかもしれない。

 しかしシッダールタには確信があった。

 革新が生じたと言ってもいいかもしれないがこの際どうでもいいしどっちでもいい。

 シッダールタはどっちの考え方も理解できる。

 一通りの考え方ができないより二通りの考え方ができた方がいいに決まっているしなんなら三通り四通り、もっと多くの考え方ができればできるほどいいに決まっている。

 実用、実務に際して選択する際に絞ればいいだけだ。

 思考、判断、決断、実行によって我々は生活しているが思考の範囲や考え方や知識は多い方がいいに決まっている。

 思考が一つしかないなら判断する必要はなく決断して実行するだけだ。

 考える際にはできるだけいろいろ考えた方がいい。

 全部を考えつくすことはできないだろうが可能な限りたくさんがいい。

 それらは全て可能性がある。

 可能性自体はどんな時でもどんなところでもあるのだ。

第八章

 思考のドライブは止まらない。

 もうシッダールタには確信があった。

 多分自分は答えに到達しつつあるし間違ってもいないしそれを形にして表現すること、細部を論理的に検証していくだけだと。

 「アートマンは存在しない」

 口に出していってみた。

 アートマンが存在する可能性とアートマンが存在しない可能性は同じだけある。

 他の可能性もあるがややこしいので置いておこう。

 とするとブラフマンが存在しない可能性もあるのかな?

 まあこれも今は関係ないのでおいておこう。

 結局アートマンが存在するということには根拠がないのだ。

 思春期前期のシッダールタにはアートマンがあることは歴然として確かなことだった。

 自我はありありと実在感、実在感をもって存在していた。

 自我が肥大しすぎて心の病になってしまったと言ってもいいかもしれない。

 考えすぎて内省しすぎてこんがらがってこじれてしまったのだ。

 そしてそれ以降は以前に戻れなくなった。

 しかし実在感や実体感を感じることと実際に実在するか、集諦として存在するかは別のことだ。

 実在感を持っていても存在しない場合もあれば、実体感があっても実体がない場合もある。

 逆に実在感や実体感がなくても実在していたり実体がある場合もあるだろう。

 結局分からないのだ。

 何とでもいえると言ってもいい。

 しかしそれが分からない人も多い。

 シッダールタ自体も確信を持ったというか表現できたのはたった今だ最初だろう。

 分からないのはいいが分かっていないことを知らないしその自覚もない。

 結局これに尽きるな、とシッダールタは思った。

 これを何と呼べばいいか、無明と呼ぼう。

 結局実体があるかどうかも分からない自我や自己、言い換えればアートマンや自分を実体として存在すると決めつけて疑いを持たなかった、ということが構造的にあって皆それに縛られていた、と言っていいだろう。

 アートマンがなければ全て解決する。

 アートマンがなければ輪廻転生もない。

 輪廻転生する主体、エージェントがないからだ。

 そして私の中ではアートマンがないことはもはや自明だ。

 もちろんアートマンが存在する可能性もあるのだがそれは一旦おいておこう。

 一番の問題はみんな先入観に縛られていたということにある。

 存在するかどうかわからないものを存在するとしてそれに疑いを持たなかった。

 存在する感じがあるということは存在することを意味しない。

 存在する可能性があるということも存在することを意味しない。

 結局我々には何も分からないのだ。

 分からないことを分からないでいた。

 分かったつもりでいた。

 これはこの世界全体について言えることなのかもしれない。

 ヴェーダやウパニシャドもそうだが。

 そもそも人間の性質のようなものなのかもしれない。

 そういう人間が社会を作ると社会もそういうことになるのかもしれない。

 無明―我々は目が見えない人を何かを分かりえない人と考える。

 しかし目が見えようが見えまいが関係ない。

 目が見えても分からないのだ。

 人間にはけしてわからないものがあるのだろう。

 しかし分からないことを分かることはできる。

 この違いが重要なのだと考えられる。

 これを自覚すればもはや輪廻転生にこだわる心がなくなる、とけていく。

 死んでも生まれ変わると思わなくなる、死んでも生まれ変わらないと思えれば問題自体が消え去る。

 問題が解決するのではなく問題は問題とすれば問題だが問題としなければ問題ではないという感じか。

 何かややこしいが問題なのは問題を作り出してしまう人間の心なのだろう。

 そして人間は問題に限らず何かを作り出してそれを正しいと思ってしまう心の仕組みがあるのだ。

第九章

 シッダールタは考えを何日も反芻した。

 菩提樹の木の下でずっと過ごした。

 食べ物は近所の少女が持ってきてくれた。

 悟ってみれば何ということはなかった。

 人間でなくなったわけでも特別な人間になったわけでもなかった。

 ただ気付いた、考え付いたのだ。

 何のための苦行だったのかなとも思ったがもう終わったことだ。

 よく生き残れたものだ。

 あれでだいぶ寿命が短くなっただろう。

 35歳という年齢を考えるとこの弱った体ではそう長くは生きられまい。

 長くてあと数年というところではないか。

 釈迦は王子だったから周りの人は比較的長い気だった。

 しかし出家して世俗や修行者と接してみると世の中ではみな健康状態は悪く治安も悪くすぐ病気になったり殺されたりして人は簡単に死んでいった。

 シッダールタは体格がよく体力があったが釈迦のように恵まれた体格を持つものはまれだった。

 一部のバラモンやクシャトリヤや代々の富裕な商人は恵まれた生活をしていたがそれでも釈迦国にいた時よりは不健康で不潔な感じがした。

 釈迦国は田舎だったが比較的清潔でのんびりして栄えた都市のように豊かではなかったが環境が良かったのだなと思うときがある。

 山沿いで丘陵地帯が多く遠くにヒマラヤを望み山の神々に守られていたのかもしれない。

 今は聖なる河、母なる河、霊の住まう河ガンジスの河岸に望み川面をみている。

 その場で寝てその場で起きる。

 起きては座禅を組み悟ったことを考える。

 人生でなすことはなした。

 このまま死んでもいいかもしれない。

生まれ変わることはないだろう。

 今生の苦しみから解放されれば二度と苦しむことはない。

 輪廻転生が存在する可能性も0ではないがもはやそのことを考える気持ちもない。

 納得の中で生まれて初めてかもしれないような静かな喜びの中にいた。

 多分自分の考えに到達したものは他にはいまいと思った。

 唯一無二の人間に慣れたことはうれしかった。

 世の中広いしどこか徳の世界か昔に自分と同じ悟りに達したものはいるかもしれないが少なくともこのあたりにはいまいと考えた。

 悟って考えて検証してそういうのを数日行うといろいろなそれ以外の考えもわいてくる。

 ただ浮かんでくるいろいろな考えと悟りの内容に行きつ戻りつ法悦とも言える気持ちの中にいた。

 このまま死んでしまっても構うまい。

 ただこの悟ったことは失われてしまう。

 この悟りの内容ははっきり言って難しい。

 シッダールタもはっきり言語化できない部分がある。

 どこかの修行者やウパニシャド哲学の専門家に聞けばもっとうまく言語化できるかもしれない。

 言語化できても内容もぶっ飛んでいるな、と思ったりもする。

 多分教えの内容はかなりすっきり表現できる可能性がある。

 しかしすっきりした表現にしてもかなりないようがどんなバラモンだろうと沙門だろうと一般人だろうと理解できない可能性が高いと思えた。

 修行者同士は身分を越えた仲間だ。

 新たに発見した考えを教え合い共有する者もあればそれを秘匿する者もある。

 隠者のように生活する者もあれば教えを広めるための教団ができる場合もある。

 自分の悟りを広めることを考えてみた。

 (…ちょっと難しいな)

 というのがまあ忌憚のないところと思えた。

 これからどうしよう、と考えた。

 別にもう生きていなくてもいいか積極的に死ぬ意味もない。

 故意にわざわざ自死するのは変だ。

 悟った時は興奮してもう死んでもいい、死のうと思ったこともあったが。

 やっぱりこのまま死んでしまうのがきれいに人生を終得られていいのかなとも考えた。

 別に王子時代のある時期のようにだらだら生きていても仕方がない。

 シッダールタは心を病んだので周囲が治療のためシッダールタを慰めるため喜ばせるために致せりつくせりな生活をしていたこともある。

 特に楽しくもなくだらだらして無駄な日々であったな。

 生きるということはただ生命があって息をして動いていれば生きているというわけでもないだろう。

 シッダールタが悟ったように生きている感じを味わうことが生きていることだ。

 そして生きている意味はもう達成してしまった。

 やっぱりこのまま過ごして死ぬ日を待つべきだろうか。

 もはや永遠に苦しむ可能性があるという懸念は消えたとはいえ生きることはやはりつらいことだ。

 12月の空気はとても寒い。

 苦行で体が弱っているし、食べ物も十分ではなくあらためて気づいてみれば寒くひもじい状況だ。

 苦行で死ぬものはたくさん見てきた。

 餓死も衰弱死もよく分からない死も何でもある。

 死は特別なことではない。

 やはりこのまま死んでしまうのがいいか?

第十章

 しかし、だ。

 シッダールタは出家して世俗から離れ自分のために生きられるようになったが育ちがよかったせいか利己的な性格でもなかった。

 まあはた目には王位継承の責任をほっぽらかして家どころか王族なのに国を捨てて出家して無責任に見えなくもないが病んでいた面もあり仕方なかったとも言える。

 それでもちゃんと結婚して後継ぎは残してきたのだ。

 ひどい名前を付けたものではあったが。

 内向的で神経質なところがあった青年だったがようやく長年の問題は解決してみると基本品性も高いし毛並みもよい。

35歳という初老の年齢にも達し、長年の問題が解決して気持ちも軽くなり世俗も体験して社会もしり自己同一性が固まったとも言え、自分のことに精一杯だったのが解消されもともと王位継承のための帝王学や統治学や人倫や道徳や宗教について十分な教養があり責任感や義務感も潜在的に強い資質を持っていた。

さて悟った内容を人に伝えないでいいのだろうか?

自分一人で生きてきたわけでもなくいろいろな人にお世話になってきたし出家後に出会った多くの仲間もいる。

今も近所の少女が毎日食事を布施してくれる。

自分が悟ったからって死んでしまうのは利己的ではないか?

長く生きて世俗で生活しているとロクデナシもたくさん見てきたが立派な尊敬できる人達も多かった。

なにか世の中に報いないといけないのでは?

人間は一人で生きているわけではない。

全ては関係なのだ、と悟ったばかりでもある。

輪廻転生はなくても世の中の全てのものはつながっている。

時間的にもだ。

世の中をよくすることができるならそのために何かした方がいいのでは?

自分の悟りの内容は世の中をよくすることと直接は関係ないが、それでも新しい考え方だから何かの役に立つだろう。

それに自分のような悩みを抱えている人は他にもいるだろう。

また心の病を抱えてしまった人にも何か薬に立つかもしれない。

国元と釈迦族には悪いことをしたと思っている。

直接的にではなくても間接的にではあっても何かお返しができるのではなかろうか。

まあ都合のいい考えだが人間の普通の考えとは都合の良いものであるのは悟った内容のとおりでもある。

そしてそういう普通の人の普通の考え方も必要だろう。

自分の悟りは難解すぎるし特殊過ぎる。

また自分の悟りの考え方だけするというのは不可能だしすべきではない。

人間、子供の自然な心の発達からは不自然で小さな子供に教えるべき内容でもない。

子供の間は普通に育ってもらってある程度人間ができて身が固まってから学ぶ方がいいだろう。

思春期くらいのまだ心が定まってないときに教えると心によくない負担をかけることも考えられる。

などと考えていると自然に自分の悟りを人々に伝えるように思考していることに気付く。

多分人間には利他心とか良心みたいなものがあるのだろうな、とシッダールタは冷静に分析してみたりした。

そして自分は自分の教えを世の中に広めることが世の中のためになると考えている。

第十一章

 しかし迷いもある。

 シッダールタは自嘲した。

 悟っても迷う。

 さっき死のうと思って今は生きることを考えている。

 しかも悟りを教えとして世の中に広めるという大きなことを考えている。

 教えを広めるというのは大変なことだ。

 シッダールタは王として国を運営する教育を受けている。

 そして出家するまでの29歳まで父の下で政治を手伝っている。

 組織運営のしんどさは分かっていた。

 しかも0から立ち上げるのだ。

 多分とてつもなく面倒くさい。

 修行中いろいろな教団に教えを請いに行った。

 いろんな教団を見たが多分教団の運営は楽ではない。

 教団を作っていない仙人もいた。

 あれの方が楽だろう。

 楽だが教えは広まりにくいはずだ。

 苦行で分かれたが修行仲間が協力してくれるかな?

 というかそもそも理解してもらえるのか。

 …かなりしんどい。

 私のような悟り方は特殊だろう。

 私は王子だったからめちゃめちゃ教育を受けた。

 自分でいうのも口幅ったいが私はヴェーダやウパニシャドでは優秀な生徒だったのではないかと自負している。

 それに思春期以来の特殊体験でヒトとモノの見方が若干違うようになった。

 だから他の人が同じものと考えていることが違うものと考えられる。

 他の人が自然に統合してしまっていることを分離、解体できる。

 しかしこれは普通は不自然であるしむしろできる方が病的だ。

 リスクもある。

 私のように“心の病気”になってしまう。

 本当に病気かどうかわからないが私のように思考の障害が生じてしまう危険性もある。

 安易には教えられない。

 何かを得れば何かを失う場合がある。

 うまくすれば何も失わずに何かを得られる場合もあるかもしれないが…

 私も悟らなかったらみじめな人生だったかもしれない。

 今や私は悟ったから自分では満足だが人は私をみじめな人間と思っているかもしれない。

 このまま死んでしまったらなおのことそうだろうな…。

 まあ別にそれでいいのだが。

 私の悟りの内容を少なくとももっと分かりやすく整理しないといけない。

 それに私の悟り方でなくても同じことを悟ることは多分可能だ。

 と言っても結局結論に至るのは簡単ではないと思われる。

 多分どんな道を通ろうと簡単ではない。

 時間もかかる。

 私だってもっと整理しないといけないな。

 きちんと悟ったことをしっかりまとめないと自分でもせっかくつかんだこの感じを忘れてしまうかもしれない。

 それにしても私の悟ったことを表すのにそもそもうまい言葉がない。

 多分どこにもないのではないか?

 既存のヴェーダやウパニシャドの言葉、あるいはいろんな教団や修行沙門たちが新しい概念や言葉を日々磨いている。

 そういったものの中に私の悟りを使えるのに役に立つものはあるかもしれない。

 しかしそのまま借用したら誤解の元にもなる。

 そもそも自分で作ってしまうのがいいのだがそれだと教えを作るのにも教えるのにもとんでもない時間と労力がかかる。

 私は大丈夫だしむしろ得意だ。

 しかし教えを受ける方はかなり…、いや、とてつもなく難しい。

 というか事実上むりでは…?

 何人かを悟らせるのに成功しても後に続かず結局途絶えてしまう可能性が高い。

 とすると教えを広めるというのは事実上無理となる…か?

 釈迦はため息をついた。

第十二章

 私の考え方は逆転の発想とも言えるだろう。

 実体や存在の実在はない。

 それは人間の心が作るものだ。

 知らない間に作ってしまっているものだ。

 これを心が作るのではなくもともと心が備えている実在したものと考えてしまっているのをどう作られたものと捉えなおせるのか?

 これはもちろん存在論だが認識論でもある。

 しかしこの逆転の発想は精神要素を解体するよりは危険ではない。

 危険ではないがやはり難しい。

 何にせよ難しいことが多いな。

 教えとしてうまく表現することに成功してもなお難しいだろう。

 分かりやすく表現するのがたとえできても理解にも納得にも高い山を越えないといけない。

 ヒマラヤの山々を越えることができるのか?

 ガンジスの流れを泳いで渡れるのか?

 とすると私は珍しいというか希少ケースだな。

 運がよかった。

 多分運もよくないと悟れない。

 頭がいいだけではだめだ。

 頭の回転が速い人も記憶力がいい人もたくさんいる。

 私など及びもつかない人々を私はたくさん知っている。

 しかしそういう人が悟れるのかといえばどんなに教えをうまくシステム化できても難しい場合があるだろう。

 むしろ頭の回転がよかったり記憶力がいいことが悟るのに邪魔になる場合があるのでは?

 頭のいい人はすでにある考え方を早くたどれるだけの人も多い。

 記憶力がいい人もすでにあるスキームに当てはめたりすでにある知識とつなぐ連想みたいな覚え方をしている人も多い。

 そうでない人たちもいるが…。

 私の教えは場合によってはそういうものを壊してしまわないといけない。

 壊さなくてもいいかもしれないが先入観となって悟るのに邪魔になるかもしれない。

 「気付き」でうまく悟れる場合もあるかもしれないが0から考え方を作り上げるようなのが必要になるかもしれない。

 そういう能力は思考が速いとか記憶力があるとかとは違うものかもしれない…

 思えば修行僧たちはプライドが高い傾向があるな…

 私もそうかもしれないが…

 これは有利なところもあるかもしれないがプライドが邪魔になる場合もあるかもしれないな…

 自分の考え方を捨てたり壊したりそれを持ちつつも新しい考えの枠組みを一から構築するのは年を取ってからではしんどいに違いあるまい…

 しかし教えを広めようとすると既存の修行者層や大物たちの協力が必要だな…

 これも難しい。

 教えを学ぼうとしないどころか邪魔しようとさえする可能性がある。

 そもそも学びたいと思えるほど魅力的な感じに思ってもらわないといけないのだがそれがかのうなのか?

 訳の分からないやつが訳の分からないことを言っているで終わってしまいそうな…

 それに金がいるな。

 あるいはパトロンやスポンサー。

 組織的に教えを広めようとすると先立つものが必要だ。

 いかん、考えすぎだ、思考に負荷かけすぎだ、厚くなってしまってはいかん…

第十三章

 ひと眠りすると頭がすっきりした。

 別に急ぐことはない。

 もう目的は達したのだ。

 後の生きている期間は余生のようなものだ。

 気楽にしていこう。

 しかし意外と体調が良いな。

 苦行を離れて体が回復してきたのかもしれない。

 長年の重しも心からとれた。

 それも調子がいい原因かもしれない。

 養生すればあと数年は生きていけるかもしれないな。

 健康に気を付けて。

 でも寒いな。

 これからもっと寒くなっていく。

 まだ悟ったことを味わいたかった。

 何回も繰り返し反復して考えるといろいろなアイデアがわいてくる。

 しかし悟りと関係なことを考えることも増えてきたな。

 考えるだに、思い出すだに喜ばしい気持ちがわいてくるのは心地よいが禅譲ばかりでは体がこるしなまるな。

 座ってばかりだと健康に悪いのでは?

 ちょっとは体を動かした方がいいな。

 と考えて少し歩いてみた。

 立ち眩みやふらつきがあるので注意だ。

 自分が健康のことを考えているのがおかしくて笑みがこぼれた。

 ちょっと余裕が出てきたのかもしれない。

 もう命なんてどうでもいいのにな。

 真理への思考の絶好調はピークアウトしてきた感じがある。

 どれくらいだったか、7日くらいの集中的禅譲で自分の中では考えはだいぶまとまっていると感じた。

 まだまだ考えることはあるのだが。

 例えばアートマンがないと言ってもなくてもよいというだけだ。

 アートマンなしでもこの世は成り立つ。

 しかしあってもいいのだ。

 同じく輪廻転生もあってもいいのだ。

 実体としてのアートマンはなくても関係としてアートマンのようなものが形成される。

 それだけでいいのだが、それと実体としてのアートマンが存在することは両立しえる。

 まあ無駄な両立ではあるが。

 中道を取るとでもいおうか。

 まあここら辺はあとでもいいな。

 いまやるとややこしくなりすぎる。

 まずは分かりやすいのが正義だ。

 そのうち体系化する時に別立てで理論化しとこう。

 こう考えると私の中にもこの教えを人に教えたいという気持ちがあるだろうな、おそらく。

 そう考えると人間は短絡的というかいろいろ単純化しすぎたり、意味がないと思ったものを無意識にそぎ落として前提をなくしてしまう思考の癖があるのだろうなと思ったりした。

 実体としてのアートマンがあって実体としての輪廻転生があれば結局輪廻転生して生まれ変わりのどこかで苦しむ可能性はあるのだがそういうのはどうでもよくなっていた。

 つきものが落ちたとはこういう感じなのかもしれないな。

 一体長年何に苦しんできたのかも分からなくなったりする。

 生きることは苦だ。

 この地では人は苦しむ。

 これが常識だ。

 まあそれには同意するが薬くないときもある。

 楽しいときも楽な時もある。

 とすると生即苦と考えるもの一つの考え方に過ぎないかもしれないがまあ小さな枝葉末節の問題だ。

 どうでもいいことを考えることが増えてきた。

 暇とかやることがないとか目標がないということも苦の一つなのかもしれない。

 まあ何を苦とするかによって苦も変わるのだが。

 そういう相対的な考え方が自然に浮かぶようになってきた。

 シッダールタは論理的な性格だった。

 もちろん学問や修行としての論理は収めていたがもともと合理的で論理的なところがあった。

 体系化も大好きだ。

 いろいろなアイデアを出すのも楽しいタイプだ。

 多分もうちょっと時間がかけたいと思った。

 禅譲はもう不要だろう。

 悟りは成ったのだ。

 今は自由、気楽な気分というようなかんじだろうか。

 もういつ死んでもいいのだがすぐには死ぬことはなさそうだ。

 とすると死ぬまでは時間がかかりそうだ。

 その間どうやって過ごしていけばいいだろう。

 まあなるようになるな。

 野宿もなんだから過ごせるところがあるといいな。

 あるいは修行者の仲間たちの様子を見てみようか。

 アートマンが作られるものだとするとブラフマン、宇宙の真理も同じようなものかもしれないな。

 あらゆるものは関係性で成り立つ、と一般化できるような気もするな。

 というかそういう考え方もできるな。

 実際はどうだか知らないが実際なんて我々には多分分からないのだ。

 今なら自信を持ってそういえる。

 とすると全ての修行者や学者に役に立つな。

 ヴェーダもウパニシャドも刷新できるのでは?

 とすると学問を発展させて修行者や学者のみならず世の中の全ての人にとって役に立つ可能性があるな。

 しかもそれを残す言葉出来れば後世の人にも役に立つ。

 ということはだいぶ世界にとっていいことなのでは?

 広めるのはだいぶ難しいがもし広められたらその利益は計り知れまい

 とすると私が死んで教えが途切れるのはもったいないな。

 いつか誰かが同じことに至るのかもしれないがそうだとしてもその間の時代の人々がかわいそうだろう。

 少なくとも私のような苦しみや問題を持っている人は今もこの先もいるだろうからその人たちには役に立つかもしれない。

 それどころか人間の心だけではなく宇宙の成り立ちの説明も説明できるとなれば界隈に考え方を紹介できれば世の中の成り立ちを知りたい人や仕事や産業にも役に立つかもしれないな。

 とすると一つ教えとして広めてみようか。

 そうするとまず体力と健康を回復させねばなるまいな。

 シッダールタは菩提樹を後にした。