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  • 2026年5月25日

釈迦伝

第一章
「輪廻転生はない、か」
 シッダールタは、川面を眺めながらつぶやいた。
 夜だった。月は出ていたが細く、そのぶん星が満ちていた。空の光が、ゆっくり流れる黒い水の上に、こまかく砕けて散っている。岸辺の葦が、ときおり、川を渡る風に低く鳴った。乾季の終わりの、冷えた夜気だった。
 ネーランジャラーの川は、痩せていた。雨季には岸を呑むほどに膨れるこの川も、今は中州に白い砂を晒し、流れは細く、痩せた者のように静かだった。シッダールタ自身が、その痩せた川によく似ていた。六年の苦行で、肋は数えられるほどに浮き、腹は背に貼りつき、手首は子供の足首ほどしかない。
 二十九歳で出家してから、六年あまり。苦行のさなかから、何となく考えてはいた。
 アートマンは、本当に存在するのか。
 そして、もし存在しないのなら、いったい何が輪廻するというのか、と。
 この世には、真の自我であるアートマンと、世界や宇宙の根本法則であるブラフマンがある。それが一つに合一することを目指す。それは、修行者なら誰もが疑わない常識だった。子供の頃に教わって以来、疑ったことのない大前提だった。
 しかしシッダールタは、いつの頃からか、別のことを考えるようになっていた。
 思えば、それは思春期に芽生えた考えだった。子供の時分には消えていたが、出家し、苦行を続けるなかで、だんだんと強く、無視できないものになっていった。
 子供時代、彼は家庭教師のバラモンから受けるヴェーダやウパニシャッドの講義が好きだった。真理について考えるのが、楽しくて仕方がなかった。世界はどうできているのか、自分とは何か、死とは何か。問いはいくらでも湧き、考えれば考えるほど、世界が深く、奥行きをもって見えてくる気がした。その頃の彼は、アートマンの存在を、ありありと、強く感じていた。自分の中心に、揺るがぬ一点がある。そう信じて疑わなかった。
 しかし、だんだんと複雑なことを考えるようになり、頭を使いすぎたせいか、慢性的に頭痛がするようになった。それだけではない。物事が、現実感をもって感じられなくなった。目の前の景色が、薄い膜の向こうにあるようだった。いろいろなことに、心地よさも喜びも感じられなくなった。荒涼とした、乾いた苦しさ。そして、自分が自分でないような感覚。アートマンというものが、よく分からなくなり、彼はひどく混乱した。
 あれは、何だったのか。今でも、ときどき分からなくなる。
 出家して苦行を続けるなかで、彼は人間そのものについて、考えるようになった。
 家庭教師からは、こう教わった。人間には真の自我であるアートマンが存在し、それが死後も滅びず、永遠に輪廻転生を繰り返す。同時に、人間は、肉体や、思考や、想像や、意欲や、認識といった、さまざまな要素から成り立っている、と。
 その二つを、子供の頃は、何の疑いもなく、並べて受け取っていた。
 だが、なんとなく、ぼんやりとした違和感があった。
 苦行のなかで、その違和感は、だんだん大きくなっていった。
 アートマンという、不変で単一の実体が存在することと、人間がさまざまな要素の寄せ集めから成り立っていること。この二つは、そもそも両立しないのではないか。寄せ集めの、どこに、単一の自我が宿るというのか。
 何かを、つかめる予感がした。
 しかし、苦行をしていると、落ち着いて考えられない。空腹と痛みが、思考を断ち切ってしまう。
 苦行をやめよう。やめて、考えることに専念しよう。彼はそう決めた。
 そもそも、苦行という手段そのものに、前から疑問があった。
 出家したとき、彼はまずアーラーラ・カーラーマ仙人のもとで、次いでウッダカ・ラーマプッタ仙人のもとで、瞑想の仕方を教わった。二人とも、当代の名のある師だった。瞑想に没入しているあいだは、たしかに苦しみから離れられた。心は澄み、苦は遠のいた。だが、瞑想を解けば、また苦しみについて考えてしまう。これでは意味がない。一時しのぎにすぎない。そう思って、彼は二人のもとを離れた。
 しかし、よく考えれば、苦行も同じことではないか。
 苦行をしているあいだは、ただ苦しい。やめれば、その苦しみはなくなる。では、苦行を続けて、苦しみを極限まで満たしていけば、いつか「永久に苦しくない状態」に、ひっくり返って到達できるのだろうか。
 ……どうにも、納得できなかった。
 苦行の果てに、永遠に苦しまなくなった人が、実際にいるのか。それも、はっきりしない。
 彼の周りには、彼よりもさらに激しい苦行に耐えている者が、たくさんいた。骨と皮になり、髪も髭も伸び放題で、目だけがぎらぎらと光っている者たち。だが、誰一人として、苦しみから永遠に解放されそうな気配はなかった。それどころか、怪我をし、後遺症が残り、体を壊して動けなくなり、そして死んでいく。彼は、それを何人も見てきた。
 死んだら、どこかでまた生まれ変わって、苦しむかもしれない。死ななくても、苦行を続けていれば、生きているのが余計に苦しくなるだけだ。
 ……意味がない。
 それより今、何かをつかめそうな予感がある。落ち着いて、じっくり考えてみよう。
 苦行を捨てた彼を、非難して去っていく仲間も多かった。五人の、ともに苦行に励んできた者たちは、彼が川で身を清め、村の娘の差し出す乳粥を口にするのを見て、堕落した、と顔を背けた。あれほど厳しく自分を律していた男が、ついに欲に負けた、と。
 仕方がない、とシッダールタは思った。彼らには、まだ見えていないのだ。いつか、分かる時が来るかもしれない。あるいは、来ないかもしれない。だが今は、彼らを説き伏せている場合ではなかった。
第二章
 苦行で、体は弱り切っていた。だが、川での沐浴と、近隣の村人の托鉢のおかげで、少しずつ整いつつあった。
 彼に毎日、食べ物を運んでくれるのは、近くの村の娘だった。素焼きの椀に、米を乳で煮たものを入れて、何も言わず、そっと置いていく。痩せ細った修行者を、憐れんでのことだろう。その娘の手が、まだ少女のようにふっくらとしているのを見るたびに、シッダールタは、人がまだ飢えていない時期の、あの手のことを思った。
 もうすぐ冬至だ。肌寒く、夜が長い。日が落ちるのが早く、暗いなかで考える時間が、長くなった。
 (生きている人間が、いろいろな要素から成り立っているとすると、アートマンは、いったいどこにあるのだろう)
 体が、アートマンでないことは、もちろんだろう。体は変わり、老い、傷つき、やがて腐る。これがアートマンであるはずがない。
 アートマンは、もっと精神的なものの感じがする。
 とすると、受・想・行・識——感覚、表象、意志、認識——のどれか、あるいはそれらの組み合わせだろうか。
 あるいは、それら以外の、別の精神的な要素なのか。
 あるいは、色・受・想・行・識のすべてを「家」として、その家の中に住んでいる、まったく別の何かなのか。
 いろいろな考えが、巡っていく。
 (そもそも、人間とはどうなっているのだろう。苦しみとは、何だろう)
 また、別の考えに流れる。思考は巡る。一つの問いが、別の問いを呼び、それがまた別の問いを呼ぶ。
 (人間は、なぜ苦しむのだろう。それは、生きているからか。では、生きているとは、何だろう。生きていると言っても——客観的に生きていることと、主観的に生きていると感じることは、分けて考えないといけないな。問題なのは、主観的な方だ。客観的に息をして動いていることが問題なのではない。生きていると「感じる」、その感じが問題なのだ。では、人はなぜ、生きていると感じるのだろう)
 多分、この二つを分けることが、大切なのだ。生きていることと、生きていると感じることは、同じではない。シッダールタは、そう考えた。
 生きていても、生きている感じがしないことは、多い。
 そして、それは、大変につらいことがある。
 それは、シッダールタが少年から青年に至るまでのあいだ、あるいはその後も、いまだに引きずっている問題だった。生きているはずなのに、生きている手応えがない。世界から切り離されて、ガラスの向こうにいるような。あの感覚を、彼は誰よりもよく知っていた。
 生きていて、生きているという感じがあって、しかしそれが快さをもたらさないと、人生はかなりつらい。
 生きている感覚にも、悪い生きている感覚と、よい生きている感覚がある。よい感覚が得られるのは、何かが満たされた時だ、と彼は思った。
 それは多分、欲求や欲望が満たされた時だ。
 ただ——その欲求や欲望みたいなものが、うまく湧かない。あるいは、湧いても、精神的にかみ合わない。そのつらさもまた、シッダールタが長く苦しんできたことだった。腹は減るのに、何を食べたいとも思わない。眠いのに、眠ることに喜びがない。そういう時期が、彼にはあった。
 欲望というのは、あって当たり前のものではない。
 それは、シッダールタや、ごく少数の人しか知らないことだろう、という確信が、彼にはあった。
 シッダールタのような体験をした修行者は、世の中にまだ結構いるかもしれない。心を病み、世界が変質して見える経験。それ自体は、珍しくはないのかもしれない。だが、そのなかで、シッダールタと同じように、「生を感じること」や「欲望が単純なものではないこと」に気づいている人は、さらに少なくなるはずだ。
 ということは、今シッダールタがつかみつつあることと同じことを、自覚的に、そこに真理があるという確信をもって探求している修行者は、ほとんどいないに違いない。
 多分、自分は、自分にとってだけではなく、すべての人間にとって価値のあることを、成し遂げようとしているのだ。
 その予感が、堰を切ったように、押し寄せてくるのを感じた。
第三章
 考えが奔逸し、群がり起きるような感覚があった。次から次へと、像が浮かび、つながり、また別の像を呼ぶ。頭の中が、明るく、速い。
 苦行で体は弱り切っているが、気にならない。
 こういうことは、シッダールタの人生では、しばしばあることだった。
 調子がいいのは、いい。だが、その後で、ガクンと調子を崩すことがあるので、注意がいる。特に思春期の頃のは、ひどかった。信じられないほど頭が冴えわたり、何日も眠らずに考え続けられた。だがその後で、思考や感情が、うまくかみ合わなくなった。そして、その余波が、今でも続いている。だから、考えすぎには注意だ。冴えているときほど、危ない。
 三十五歳まで、生きられた。
 苦行で体を痛めつけ、弱らせたことを考えれば、これは運がよかったと言うほかない。王子として、恵まれた体格と体力に育ったおかげかもしれない。生まれつき、骨太で、背も高かった。
 だが、今はもう、一介の沙門にすぎない。そんなに長くは生きられないだろう。
 この世界では、人間は、あっけなく死ぬ。
 それを、彼は知っていた。書物の上の知識としてではない。王子として、父の統治を手伝うなかで、嫌というほど見てきたのだ。飢饉の年に、村がいくつも痩せ細り、道端に行き倒れが転がった。隊商が山賊に襲われ、生き残った者が血まみれで城門に駆け込んできた。疫病が出れば、祭祀だけでは足りず、井戸を閉じるか、村を隔てるか、薬草をどこから運ぶかを決めねばならなかった。一つの集落が、ひと月で消えることもあった。子を産んで、そのまま母親が死ぬのは、珍しくもなんともなかった。彼自身の母も、彼を産んで七日で死んだという。
 病気にもなるし、怪我もする。三十五ともなれば、当時の感覚では、もう若者ではない。まして六年の苦行で、身体は早く老いた。歯ぐきは痩せ、目は乾き、朝起きると関節が痛む。少年時代のような健康感は、とうにない。
 ただ、今は体調も良く、頭も清明だった。
 後でどうなろうと、今は、考えなければならない時だ。今を逃せば、もう二度と、この澄んだ頭は戻ってこないかもしれない。
 夜半は深まり、水面を渡る風が肌に届いて、先ほどより冷たくなった気がしたが、どうでもよかった。
 シッダールタは、もともと物に執着のない子供だった。
 両親には、溺愛されて育った。父は王であり、それなりの財力もあった。シッダールタが何か欲しそうな顔をすれば、口に出さずとも、家臣たちが先回りして、十二分以上のものを用意した。新しい衣も、珍しい菓子も、遠い国の細工物も。望めば、何でも手に入った。だからかえって、欲しいものが、なかった。
 しかし、それよりも大きかったのは、十代で精神を病んでから、心がかみ合わず、ちぐはぐになってしまったことだ。
 快楽であるはずのことに、快楽を感じない。
 快楽を求めようという気にも、ならない。
 かつては、快楽をもたらすものがあれば、快楽を感じるのは当たり前だと思っていた。美しいものを見れば心が動き、うまいものを食べれば満たされる。それが当然だと。
 しかし、彼の中で、快楽をもたらすものと、快楽そのものが、分裂してしまった。美しいものを、美しいと頭では分かる。だが、心が動かない。うまいものを、うまいと舌では分かる。だが、満たされない。
 周りは、心を病んでいるのではないか、と言った。
 その通りで、病んでいたのかもしれない。
 しかし、自分の中では、こうも思ったのだ。
 快楽をもたらすものが、快楽を生じさせる——そのつながりの方が、もしかすると、後からくっつけられたものなのではないか。本来、両者は別々で、分裂しているのが当たり前で、それらが一つにつながって感じられているのが、実は人間の錯覚であり、妄執なのではないか。
 欲望もまた、作られたり、形を変えたりするのだ。
 欲望は、あって当たり前というものではない。
 また、欲望が満たされても、満足を感じるのが当たり前でもない。
 それらは、心の働きの、一つのありようにすぎない。そして、そうではない心の働きも、ありうるのだ。彼自身が、その「そうではない」働きの中に、長く住んでいた。
 出家して修行者の仲間になってからも、シッダールタは「変わっている」と言われていた。「王族だから、俺たちとは違うのだ」と、やっかむ沙門もいた。
 確かに、私は変わっているのかもしれない。
 しかし今は、はっきりと分かる。
 多分、誰も、私のように感じ、考えていた者は、いなかったのだ。
 今、「欲望が作られるものである」ということの意味が、初めて、はっきりと分かる気がする。
 みんな、欲望はあって当たり前だと思っている。生まれてからずっと、欲望と、それを満たすものとの関係が、自然で、当たり前で、疑いようもなかったからだ。
 私も、昔はそうだった。
 今は、違う。
 当然、他の人々の心の中も、昔の自分の心の中も、理解できる。だが今は、それとは違う見方を、得ている。両方が、見える。
 そして、それは、重要なことのように思えた。
第四章
 夜は、深まっていく。中州の白い砂が、星明かりにぼんやりと浮かんでいる。だが、シッダールタは自分の考えに没頭していて、周囲のことは、もう入ってこない。
 (欲望が形成されるものだとしたら、何によってか。何か、刺激を受けることによってだ。外部との接触、と言ってもいいだろう。ただ、自分と外部の事物が接触しても、必ずしも欲望が生じるとは限らない。大前提として、自分以外の何かからの刺激や接触を、感じ取れなければ、だめだ。そのためには、感覚がいる。耳が聞こえなければ、音が鳴っても、何の影響もない。自分は変わらないし、欲望も生じない。目が見えなくても、そうだ。他の感覚も、そうだ。感覚があるから、欲望が生じる。感覚が刺激となって、欲望が生じるのだ。では——その感覚は、何から生じるのか)
 シッダールタの思考は、止まらない。
 いつの間にか、不自然な姿勢になって、筋肉に力が入り、体が固まっている。だが、動かす気にはならない。
 (後で、体が凝るな)
 ちらっと、よぎった。だが、まあ、いつものことだ。
 (結局、欲求も、生の実感も、心が作るものだ。とすると、五感が根源的で、すべての元になるものか、というと、そうではないだろう。これは、出家して最初についた二人の師、アーラーラ・カーラーマ仙人とウッダカ・ラーマプッタ仙人から教わったことに、つながる。無所有処と、非想非非想処。何ものも存在せず、あらゆる執着を離れた精神状態。そして、表象があるわけでもなく、ないわけでもない状態。あの境地に入れば、五感など、たやすく超えられる。それは、いわば極限まで澄ませた自己分析のようなもので、私には、簡単だった。あまりに簡単に到達したので、師は私に、後継ぎにならないかと言ったほどだ。だが、他の修行者たちから聞くところでは、これが分かっている修行者は、あの二人の師だけでなく、名のある仙人や聖者のレベルなら、たくさんいそうだ。まあ、そうだろう。禅定や、止観や、瑜伽の行を積めば、いずれは分かることではある。だが、そこは、私の行き先ではない)
 心の探求——結局、シッダールタにとって、修行とは、そういうものだった。
 世の中には、いろんな修行者がいる。宇宙とは何か、世界とは何か、存在とは何か、実在とは何か。そういう大きな問いを追求する修行者もいるし、それで尊敬を集める偉い仙人や、大きな教団もある。
 それはそれでいいのだが、シッダールタの求めるものとは、違う。
 シッダールタが求めているのは、ただ一つ。人間が、永久に苦しまないようになれるかどうか、だ。
 短期間、苦しまなければいい、というものではない。
 永久に苦しまない状態が、あるのかどうか。
 そして、あるのなら、その状態になりたい。私が、その状態になれるのか。その状態になる方法が、あるのか。
 それが、問題だ。
 死んで終わりなら、楽なのだが。今生の苦は、終わるかもしれない。だが、常識では、生物は死んでも生まれ変わる。次の生、来世、あるいは、その次が終わっても、また次の生があり、永久に生まれ変わり続ける。そのどこかで、苦しむ可能性は、必ず残るだろう。
 だから、死んでも、意味はないのだ。
 死んでも、苦しみが終わるわけではない。
 生きていれば、結局、苦しみがある。病気になれば苦しいし、怪我をすれば苦しい。腹が減っても苦しいし、愛する者との別れも苦しいし、欲しいものが手に入らないのも苦しい。まさに、四苦八苦だ。
 苦しくないときも、ある。瞑想で、一時的に苦しみを遠ざけることも、できる。
 でも、それは短時間だし、ずっと瞑想していることはできない。それに、瞑想していても苦しいときはあるし、瞑想がうまくいかないこともある。
 苦行をすれば、当然、苦しい。
 ……というか、なぜ私は、苦行をしていたんだろう。
 なぜ、修行者は、苦行をするのか。
 何となく、苦行の果てに、苦しみを離れた境地がある、みたいな雰囲気で、始めてみた。だが、よく考えると、ふわっとしているな。
 苦しみ尽くせば、苦しまない状態になれるのか。
 まったく、根拠がない。
 よく考えると、なぜ苦行をしていたのだろう。
 結局、それしか、道がなさそうだったからだ。
 どこへ行っても、誰に教えを乞うても、永久に苦しまない方法を教えてくれる人は、いなかった。その境地に達している人も、いないようだった。だから、何となく、みんながやっている、みんなが言っている方に、流されてしまったのだろう。
 よく考えれば、何も考えていなかったな。
 行き詰まっていたのだ。
 今も行き詰まっているのだが——もうちょっとで、何か、思いつきそうな手応えがあった。
第五章
 シッダールタの精神は、冴えわたる。
 考えが、次々と湧いてくる。もやっとして、まだ形にならないものもあるが、もう少しで、届きそうな感じがした。指の先が、何か硬いものに、触れかけている。
 (まあ、昔のことを考えても、仕方があるまい。過ぎたこと、終わったことより、今つかみつつある「何か」だ。——感覚の前には、全感覚とでも言えるようなものが、ある。見ても、聞いても、触っても、何も感じないことが、ある。気づかないことが、ある。今の私が、まさにそうだ。風が冷たいはずなのに、感じていない。だが、まったく無いのではない。感覚になる手前で、何かが、ある。それは、感覚以前の、もっと抽象的で、観念的なものだ。たとえば、名や、言葉や、絵や、音楽。あるいは、それらを受け取っているときに感じる、何か、感覚を超えたような……いや、超えた、という言葉はおかしいか。仮に、前感覚、とでも——感覚の前にあるもの、とでも、言っておこう。それは、感覚のように個別具体的ではないかもしれないが、象徴的な形で、示されることもある。思考や、表象のなかに、現れるもの。表象、抽象、とでも言っておけばいいか。しかし、表象や抽象というと、広すぎる気もする。そういう形でしか、表現しにくいものだな。——六感、というが、感覚は、そんなに厳密には分けられない場合も、多い。悲しい音楽を聴けば、青く、ブルーな感じがする。明るい音楽を聴けば、明るい、赤や黄やピンクのような、温かい色を思い浮かべる。音が、色になる。色が、気分になる。それらが、分かれる前の、混ざったところ。仮に、名色、とでも呼んでおくか。……誰かが、そんなことを言っていたような気もするが、今はいい。なかなか、ぴったりした呼び方だ)
 (生や、欲望や、感覚の前にある、その名色そのものも、当たり前のものではない。生や欲望や感覚が、作られたものであるなら、名色も、作られたものだ。名色は、何かを感じている時ではなく、こうして思考したり、想像したりしている時にこそ、感じることができるな。名色は、頭の中に、いつもあるのかもしれない。だが、我々は、それを認識している場合もあれば、認識していない場合もある。認識している名色と、認識していない名色が、混在している場合もある。注意を変えれば、認識される名色も、変わる。——とすると、認識か。問題は、認識だ。我々が、どの名色を認識するかは、何によって決められているのだろう。注意の焦点を、どこに当てるか。それと関係がある。だが、では、その我々の注意を、操作しているのは、何だろう)
 (結局、意識するものと、意識されないものがある——という言い方は、違うな。「意識したり、意識しなかったりするような、心の仕組み」が、あるのだ。それを動かしているのは、意志か。主体か。自主性か。自覚か。——我々は、自分の心を、自由に操れるように思っている。だが、そうではない。我々は、何かによって、何かに、注意させられているのだ。同じように、何かを、注意しないように、させられている、とも言える。何となく、自分で自由に、自分の注意を向けているように思っているが、本当は、何かよく分からないものに、注意を向けさせられている、とも言える。もちろん、自分の自由意志で、注意を向けている場合も、あるかもしれない。しかし、そうでないことがある、ということ自体が、重要だ。むしろ、そちらの方が本当で、我々が「自分で自由に、好きなものに注意を向けている」と感じること自体が、錯覚——というか、そう思い込んでいるだけのこと、なのかもしれない)
 「行(ぎょう)、か」
 何となく頭に浮かんだ言葉を、口にしてみる。
 声は、痩せた喉から、かすれて出た。川の音が、それを呑んだ。
第六章
 ——行。
 どこかで聞いたことのある言葉かもしれないが、思い出せない。
 そもそも子供の時、いや、思春期の頃、教育係の先生にヴェーダやウパニシャッドを教わってから、ずっと考え続けてきたのだ。出家してからも、いろいろな先生に教えを乞うて回った。「我以外、皆、師」。それが、シッダールタのモットーだった。誰からでも、何からでも、学べるものは学ぶ。
 別に、答えを見つけるのだけが目的ではなく、考えること、学ぶことそのものが、好きだった。考えていれば、それなりに楽しかった。まあ、楽しくないこともあったが、少なくとも、自分の好きなことを考えているときには、楽しかったと言ってよかっただろう。
 何せ、ヴェーダやウパニシャッドは、難しい。一筋縄ではいかない。だからこそ、面白い。
 世の中に、修行者はたくさんいる。大昔のように、伝統的なバラモンの教えだけが幅をきかせる時代ではない。今は、バラモン以外の、いろいろなヴァルナの者が、自由に真理を探究する時代だ。商人の出も、職人の出も、立派な思想家になる。それで偉くなる者もいる。それを目当てに、修行者になる者もいる。生まれは変わらなくても、それなりの修行者になれば、バラモン以上に尊敬を集められる。弟子や教団を、持つこともできる。
 時代が、動いている。シッダールタは、それを肌で知っていた。父の都にも、年々、商人たちが増えていた。貨幣が、人の手から手へ、速く回るようになった。新しい富が生まれ、新しい身分の者が力を持ち、古い秩序が、少しずつ緩んでいた。ガンジス流域には、いくつもの都市が栄え、マガダやコーサラといった大国が、周りの小国を呑み込んで、膨れ上がっていた。世は、変わり目だった。
 シッダールタも、そういう勧誘を受けたことがある。というか、よく誘われた。出家して最初の師のところで、早速、後継ぎにならないか、と誘われたほどだ。だが、そこでは、シッダールタの求めているものは、得られそうになかった。だから、そんな話は、論外だった。
 いい先生だった。だが、国も家族も捨てて出家したのに、どこかの仙人や教団の後継ぎに、おさまっても仕方がない。
 そう考えると、ちょっと、おかしくなった。
 国王の地位を捨てて、仙人になる、か。
 釈迦国も、たいした国ではなかった。コーサラの属国も同然の、小さな国だ。だが、それでも一国は一国だ。その跡取りが、中小の教団の指導者に鞍替えするというのは、何だか、滑稽だ。そんなことになっていたら、父上も、義母上も、家臣たちも、みんな腰を抜かしただろうな、と、心の中で諧謔めいたことを想像すると、少し、面白かった。
 久しぶりに、口の端が、わずかに動いた。笑った、というほどでもない。だが、こわばっていた頬が、ほんの少し、緩んだ。
 それは、それとして——。
 結局、我々には、何一つとして、確かなものはない。
 「生も、欲望も、感覚も、認識も、行も——心が作っているものだ」
 そう、つぶやいた瞬間、何か、一本の線が通じる感じがあった。
 芯が通ったような。一気通貫の、感覚。
 ばらばらだった考えが、一つの流れに、束ねられていく。
 多分、我々は、いろいろな要素からなる「行」によって、何かを認識するように、させられる。
 認識「する」のではない。認識「させられる」のだ。
 そして、認識する対象は、名色、六感として、具体化される。
 感覚「する」のではない。感覚「できる」「できるようになる」、そして感覚「させられる」というのが、大切だ。
 感覚が、実体として存在するかどうかは、この際、どうでもいい。我々が何かを感覚しているとき、それは、それを支える心の仕組みが、発動しているからであって、我々は、自分で自分の心を、自由に働かせているのではない。むしろ、自分の心——心、でいいのかな。一旦、そう呼んでおこう——その心に、働かされているにすぎない。
 思考の本流は、止まらない。流れる流路を、得たのだ。痩せた川とは逆に、彼の中の流れは、今、満ちて、勢いを増していた。
 感覚というシステムに、何か刺激を与えれば、それに反応することがある。そして、欲望が生まれる。
 欲望は、何か——それが感覚なのか、名色なのか、認識なのか、あるいはそれら全部なのか、今は細かいことはどうでもいい——とにかく、何かを満たすことを、求める。
 我々は、欲望を満たそうと考え、行動する。実際に満たされて満足することもあれば、満たせずに満足しない場合もある。その中間も、あるだろう。いろいろだ。
 しかし、注目すべきは、欲望が満たされ、充実感や充足感を得られた場合だ。
 欲望が満たされても、さらに充足しても、喜びも快楽も得られない場合が、ある。
 それは、シッダールタが長年苦しんできた、思春期以来の、心の後遺症ともいうべきものだった。
 シッダールタには、欲望が満たされても、快楽を感じられないときがある。彼にとって、欲望が満たされることと、快楽を得られることは、分裂したことだった。
 さらには、適切な欲望が、そもそも生じないときもある。
 そのため、シッダールタの行動や言動には、奇異なところがある。そしてそれは、自分でも、そう思うし、自覚している。周りの人に、変に思われているのだろうな、と。
 「心の病」「王子が、心を病んだ」ということで、問題になったこともあった。
 なんでも、医者によると、そういうことは、思春期にはあることのようだ。心がこじれて、なかなか元に戻らない。一生、元に戻らないときもあるし、気が狂ってしまうときもあるのだそうだ。
 シッダールタは、王位継承者だった。実母は、シッダールタの出生時に死んでいた。だが、王である父にも、乳母にも、親戚や家来にも、バラモンの先生にも、それなりに愛されて、恵まれて育ったと、自分でも思う。小さな国だったし、みんな、家族か親戚のようなところがあった。自分でも、また周りからも、「釈迦族」と呼ばれていた。
 コーサラ国や、マガダ国のような大国だったら、また違っただろうと思う。
 特に父は、コーサラ国との関係に、いつも心を痛めていた。釈迦国は、コーサラの庇護のもとにある、弱い立場だった。父は、コーサラの王に礼を尽くし、機嫌を損ねぬよう、細心の注意を払っていた。あるとき、コーサラの王が、釈迦族から妃を出せと求めてきたことがあった。誇り高い釈迦族の長老たちは、内々で、卑しい身分の娘を、王女と偽って差し出した。シッダールタは、その評定の場に、末席で連なっていた。あれは、まずいことになるのではないか。あのとき、彼は若いながらに、そう感じた。偽りは、いつか露見する。露見したとき、コーサラは、どう出るか。——その不安を、彼は今も、どこか覚えている。だが、それも、もう、自分の手を離れたことだ。
 父は、シッダールタを後継者として、厳しく教育した。帝王学、統治学、武術、祭祀の作法。同時に、政務の現場にも、若いうちから連れ出した。徴税の帳簿を読まされ、罪人の裁きに立ち会わされ、隣国の使者との交渉の席に、控えさせられた。基本的には、甘い父親だったと思う。だが、こと国のこととなると、別人のように厳しかった。
 結局、父は、出家を許してくれた。なぜ許したのかは、よく分からない。後継ぎ——息子のラーフラ——が生まれて、家系が絶える心配がなくなったからか。あるいは、シッダールタでは、どのみち王は務まらないと、見切ったせいか。
 ラーフラ。「障害」という意味の名を、わが子につけてしまった。子が生まれたと聞いたとき、思わず、そう口走ったのだ。これで、出家を妨げる絆が、一つ増えた、と。ひどい父親だ。あの名は、一生、あの子について回る。
 まあ、出家できたのだから、シッダールタには、もう、どうでもいいことだった。
 それでも、やはり、気になることは、ある。
第七章
 欲望が満たされると、普通の人は、満足して喜ぶし、快楽を感じるし、生きている実感を得る。
 シッダールタには、それが当然ではないところもあったが、それでも、嬉しいときはあるし、生の実感を得ることもある。
 シッダールタは、「心の病」と言われ、心の病とは、こういうものなのか、と思ったものだが、自分が、根本のところで、普通の人間と違うとは、思わなかった。
 それは、誰の心も、そういう構造をしているのだ。だれでも、自分のような状態に、なりうる。シッダールタは、ただ、それに気づいただけで、他の人は、気づいていないだけだ。
 でも、そのせいで、思考がスムーズにいかないこともあり、奇異なだけでなく、人に、どんくさく思われたことも、多かっただろうとは思う。
 しかし、その体験が、今、生きていると思った。
 思春期以来、苦しんできたこと。変わってしまったこと。人と違ってしまったこと。そして、そこから得たこと。それらは、すべて、今、この瞬間のためにあったのだ、と思った。
 生の実感は、喜びだ。そして、生の実感が脅かされるときには、苦しみを感じる。
 それはいいとして——皆には、その仕組みへの「実感」が、ない。
 私にも、実感がなかった。というよりは、何か、愚鈍で、鈍重で、暗愚のなかにいて、それがそこにあるのは知っていたのに、意識ができていなかっただけ、という感じが、近いかもしれない。
 「行は、つくられるのだ」
 シッダールタの思考は、行に向けられる。
 行とは、人間の心の、内面の、よく分からないもの全体のような、ものだ。
 人間には、確固たる自分、自分の中心としてのアートマン——自我とか、自己とか——があると言われている。だが、そんなものは、ないのではないか。
 いろんなものの、いろんな精神要素、心の要素の、その総体と関係性こそが、行だろう。
 その、いろんなものが何かは、分からない。分からないが、見方によっては、分かる部分もある。
 仮に、人間を、色・受・想・行・識——物質的な体の部分、感じる感覚の部分、想像したり思考したりする部分、意欲の形成の部分、認識の部分、その他——から成り立つとしよう。
 そのどれか一つだけが、「自分」というわけではない。
 それらのすべてと、それらの働きと、それらの関係の、その総体が、自分をなす。
 「自分が存在する感じがするから、自分は存在する」
 そんなふうに、単純には、シッダールタは考えられなかった。
 シッダールタ以外の人には、それは、単純で、自明なことかもしれない。そんなことを、単純ではなく、複雑に考えるシッダールタの方が、おかしいと言うかもしれない。
 しかし、シッダールタには、確信があった。
 確信が生じた、と言ってもいいかもしれないが、この際、どっちでもいい。
 シッダールタは、どちらの考え方も、理解できる。「自分は当たり前に存在する」という見方も、「自分などというものはない」という見方も、両方、分かる。
 一通りの考え方しかできないより、二通りの考え方ができた方が、いいに決まっている。なんなら、三通り、四通り、もっと多くの考え方ができれば、できるほど、いいに決まっている。
 実用、実務に際して、選択するときに、絞ればいいだけだ。
 これは、政務を手伝っていた頃に、骨身にしみて学んだことだった。一つの策しか持たぬ者は、その策が破れたとき、何もできない。優れた家臣ほど、いくつもの策を並べ、状況を見て、選んだ。父も、そうだった。一見、決められない、優柔不断に見えて、その実、いくつもの可能性を、同時に握っていた。
 思考、判断、決断、実行。それによって、我々は生活している。だが、思考の範囲や、考え方や、知識は、多い方がいいに決まっている。
 思考が一つしかないなら、判断する必要はなく、ただ決断して、実行するだけだ。それは、もはや思考ではない。
 考えるときには、できるだけ、いろいろ考えた方がいい。
 全部を考え尽くすことは、できないだろうが、可能な限り、たくさんがいい。
 それらは、すべて、可能性がある。
 可能性そのものは、どんなときでも、どんなところでも、あるのだ。
第八章
 思考のドライブは、止まらない。
 もう、シッダールタには、確信があった。
 多分、自分は、答えに到達しつつある。間違っても、いない。あとは、それを形にして表現すること、細部を論理的に検証していくことだけだ。
 「アートマンは、存在しない」
 口に出して、言ってみた。
 言葉にすると、それは、思っていたよりも、ずっと静かに響いた。世界がひっくり返るような言葉のはずなのに、川は、変わらず流れていた。
 アートマンが存在する可能性と、アートマンが存在しない可能性は、同じだけ、ある。他の可能性もあるが、ややこしいので、置いておこう。とすると、ブラフマンが存在しない可能性も、あるのかな。まあ、これも今は関係ないので、置いておこう。
 結局、アートマンが存在するということには、何の根拠も、ないのだ。
 思春期前期のシッダールタには、アートマンがあることは、歴然として、確かなことだった。自我は、ありありと、強烈な実在感をもって、存在していた。
 今になって思えば、あれは、自我が肥大しすぎて、心の病になってしまった、と言ってもいいかもしれない。考えすぎ、内省しすぎて、こんがらがって、こじれてしまったのだ。そして、それ以降は、以前の、無邪気な状態には、戻れなくなった。
 しかし——実在感や実体感を感じることと、実際に実在するか、実体として存在するかは、別のことだ。
 実在感を持っていても、存在しない場合もある。実体感があっても、実体がない場合もある。
 逆に、実在感や実体感がなくても、実在していたり、実体があったりする場合も、あるだろう。
 結局、分からないのだ。
 何とでも言える、と言ってもいい。
 しかし、それが分からない人も、多い。
 シッダールタ自身も、確信を持って、こう表現できたのは、たった今が、最初だろう。
 分からないのは、いい。問題は、分かっていないことを、知らない。その自覚も、ない。結局、これに尽きるな、とシッダールタは思った。
 これを、何と呼べばいいか。
 無明——明るくないこと、暗愚——と呼ぼう。
 結局、実体があるかどうかも分からない自我や自己、言い換えれば、アートマンや自分を、「実体として存在する」と決めつけて、疑いを持たなかった。そういうことが、構造的にあって、皆、それに縛られていた、と言っていいだろう。
 アートマンがなければ、少なくとも、問題の形が変わる。
 アートマンがなければ、輪廻転生は、いままで言われてきた形では、成り立たない。
 輪廻転生する主体、生まれ変わっていく当のエージェントが、ないからだ。
 そして、私の中では、アートマンがなくてもすべては成り立つことが、もはや、自明だ。
 もちろん、アートマンが存在する可能性も、あるのだが、それは一旦、置いておこう。
 一番の問題は、みんなが、先入観に縛られていた、ということにある。
 存在するかどうか分からないものを、存在するとして、それに疑いを持たなかった。
 「存在する感じがある」ということは、「存在する」ことを、意味しない。
 「存在する可能性がある」ということも、「存在する」ことを、意味しない。
 結局、我々には、何も分からないのだ。
 分からないことを、分からないでいた。分かったつもりで、いた。
 これは、この世界全体について、言えることなのかもしれない。ヴェーダや、ウパニシャッドも、そうだ。そもそも、人間の性質のようなものなのかもしれない。そして、そういう人間が社会を作ると、社会も、そういうことになるのかもしれない。
 無明——我々は、目の見えない人を、何かを分かりえない人、と考えがちだ。
 しかし、目が見えようが、見えまいが、関係ない。
 目が見えても、分からないのだ。
 人間には、けっして分からないものが、あるのだろう。
 しかし——「分からないこと」を、「分かる」ことは、できる。
 この違いが、重要なのだ、と考えられる。
 これを自覚すれば、もはや、輪廻転生にこだわる心が、なくなる。とけていく。
 死んでも生まれ変わる、と思わなくなる。死んでも生まれ変わらないかもしれない、と思えれば、問題そのものが、消え去る。
 問題が解決するのではない。問題は、問題とすれば問題だが、問題としなければ、問題ではない。そういう感じか。
 何か、ややこしいが——問題なのは、問題を作り出してしまう、人間の心、なのだろう。
 そして、人間には、問題に限らず、何かを作り出して、それを正しいと思ってしまう、心の仕組みが、あるのだ。
第九章
 シッダールタは、その考えを、何日も反芻した。
 菩提樹の木の下で、ずっと過ごした。葉のあいだから落ちる光が、地面に、こまかい斑をつくり、それが日に従ってゆっくり動いていくのを、ただ眺めていた。食べ物は、近所の少女が、毎日、持ってきてくれた。
 悟ってみれば、何ということは、なかった。
 人間でなくなったわけでも、特別な人間になったわけでも、なかった。
 ただ、気づいた。考えついたのだ。
 何のための、苦行だったのかな、とも思ったが、もう、終わったことだ。
 よく、生き残れたものだ。あれで、だいぶ寿命が縮んだだろう。三十五という年齢を考えると、この弱った体では、そう長くは生きられまい。長くて、あと数年、というところではないか。
 シッダールタは、王子だったから、周りの人は、比較的、長生きだった。だが、出家して、世俗の人々や修行者と接してみると、世の中では、みな、健康状態も悪く、治安も悪く、すぐに病気になったり、殺されたりして、人は、簡単に死んでいった。
 四十日、ガンジス流域を歩けば、いやでも分かる。道は、楽な道など一つもない。乾季には灼け、雨季には泥に沈む。水は濁り、腹を下す。蚊と蠅と、得体の知れぬ熱病。盗賊。野犬。痩せた子供たちの、大きな目。健やかに生きるには、まったく、向いていない土地だ。
 シッダールタは、体格がよく、もともと体力があったが、彼のように恵まれた体格を持つ者は、稀だった。一部のバラモンや、クシャトリヤや、代々の富裕な商人は、恵まれた生活をしていた。だが、それでも、釈迦国にいた時よりは、不健康で、不潔な感じがした。
 釈迦国は、田舎だった。栄えた都市のように豊かでは、なかった。だが、比較的、清潔で、のんびりしていて、環境が良かったのだな、と思うときがある。山沿いで、丘陵地帯が多く、遠くにヒマラヤの白い峰を望む。山の神々に、守られていたのかもしれない。あの、澄んだ水と、乾いた風を、今、ふと思い出す。
 今、彼がいるのは、聖なる河、母なる河、霊の住まう河に注ぐ、その支流の岸辺だ。やがてはガンジスに合し、東へ、大きな国々のあいだを縫って流れていく水。その川面を、見ている。
 その場で寝て、その場で起きる。起きては、座禅を組み、悟ったことを、考える。
 人生で、なすべきことは、なした。
 このまま、死んでもいいかもしれない。
 生まれ変わることは、ないだろう。今生の苦しみから解放されれば、二度と、苦しむことはない。輪廻転生が存在する可能性も、ゼロではないが、もはや、そのことを考える気持ちも、ない。
 納得のなかで、彼は、生まれて初めてかもしれない、静かな喜びのなかにいた。あの、世界から切り離されたような、ガラスの向こうの感覚は、消えていた。世界が、ただ、そこにあった。
 多分、自分の考えに到達した者は、他にはいまい、と思った。
 唯一無二の人間になれたことは、嬉しかった。
 世の中は広いし、どこか遠くの地か、あるいは、はるか昔に、自分と同じ悟りに達した者は、いるかもしれない。だが、少なくとも、このあたりには、いまい、と考えた。
 悟って、考えて、検証して。そういうことを、数日、行っていると、いろいろな、それ以外の考えも、湧いてくる。ただ、浮かんでくるさまざまな考えと、悟りの内容に、行きつ戻りつしながら、法悦とも言える気持ちのなかに、いた。
 このまま、死んでしまっても、構うまい。
 ただ——この悟ったことは、失われてしまう。
 この悟りの内容は、はっきり言って、難しい。
 シッダールタ自身も、まだ、はっきり言語化できない部分が、ある。どこかの修行者や、ウパニシャッド哲学の専門家に聞けば、もっとうまく言語化できるかもしれない。だが、言語化できても、内容が、ぶっ飛んでいるな、と思ったりもする。
 多分、教えの骨子は、かなりすっきり、表現できる可能性がある。しかし、すっきりした表現にしても、その中身は、どんなバラモンだろうと、沙門だろうと、一般人だろうと、理解できない可能性が、高いと思えた。
 修行者同士は、身分を越えた仲間だ。新たに発見した考えを、教え合い、共有する者もあれば、それを秘匿する者もある。隠者のように一人で生活する者もあれば、教えを広めるための教団が、できる場合もある。
 自分の悟りを、広めることを、考えてみた。
 (……ちょっと、難しいな)
 というのが、まあ、忌憚のないところ、と思えた。
 これから、どうしよう、と考えた。
 別に、もう生きていなくてもいいが、積極的に死ぬ意味も、ない。故意に、わざわざ自死するのは、変だ。悟ったときは、興奮して、もう死んでもいい、死のう、と思ったこともあったが。やっぱり、このまま自然に死んでしまうのが、きれいに人生を終えられて、いいのかな、とも考えた。
 別に、王子時代のある時期のように、だらだら生きていても、仕方がない。
 シッダールタは、心を病んだので、周囲が、治療のため、彼を慰めるため、喜ばせるために、至れり尽くせりの生活をさせていたことがある。美しい侍女、珍しい音楽、季節ごとの宮殿。だが、特に楽しくもなく、だらだらして、無駄な日々であった。何を与えられても、心が、動かなかった。
 生きるということは、ただ生命があって、息をして、動いていれば、生きている、というわけでもないだろう。
 シッダールタが悟ったように、生きている感じを味わうことが、生きていることだ。
 そして、生きている意味は、もう、達成してしまった。
 やっぱり、このまま過ごして、死ぬ日を待つべきだろうか。
 もはや、永遠に苦しむ可能性があるという懸念は、消えた。とはいえ、生きることは、やはり、つらいことだ。
 十二月の空気は、とても寒い。苦行で体が弱っているし、食べ物も十分ではなく、あらためて気づいてみれば、寒く、ひもじい状況だ。
 苦行で死ぬ者は、たくさん見てきた。餓死も、衰弱死も、よく分からない死も、何でもある。死は、特別なことではない。
 やはり、このまま、死んでしまうのが、いいか。
第十章
 しかし、だ。
 シッダールタは、出家して世俗から離れ、自分のために生きられるようになったが、育ちがよかったせいか、利己的な性格でも、なかった。
 まあ、はた目には、王位継承の責任を放り出して、家どころか、王族なのに国を捨てて出家して、無責任に見えなくも、ない。だが、病んでいた面もあり、仕方がなかったとも言える。それでも、ちゃんと結婚して、後継ぎは残してきたのだ。ひどい名前を、つけてしまったが。
 内向的で、神経質なところがあった青年だった。だが、ようやく長年の問題が解決してみると、自分で言うのもおかしいが、基本の品性は悪くなく、育ちもよいのだろう、とは思う。三十五という、初老の年齢にも達した。長年の問題が解決して、気持ちも軽くなった。世俗も体験し、社会も知った。自己同一性が、固まったとも言える。自分のことに精一杯だったのが、ようやく解消された。
 そして——もともと、王位継承のための教育を、受けてきた。帝王学、統治学、人倫、道徳、宗教。一通り、十分な教養が、あった。それだけではない。父の下で、二十九まで、実際の政務を手伝ってきた。徴税のこと。水利のこと。裁きのこと。隣国との駆け引きのこと。兵の配置のこと。祭祀の段取りのこと。飢えた民をどう食わせるか、病人をどこに隔てるか、孤児や寡婦を誰に預けるか、というような、生々しいことも。だから、潜在的に、責任感や義務感も、強い資質を持っていた。机上の学問だけでなく、人を動かし、組織を回し、誰かを救うために別の誰かに我慢してもらうということが、どれほど面倒で、どれほど大切で、どれほど汚れる仕事か。それを、体で知っていた。
 さて——悟った内容を、人に伝えないで、いいのだろうか。
 自分一人で生きてきたわけでもなく、いろいろな人に、世話になってきた。出家後に出会った、多くの仲間もいる。今も、近所の少女が、毎日、食事を布施してくれる。自分が悟ったからといって、何も返さずに死んでしまうのは、利己的では、ないか。
 長く生きて、世俗で生活していると、ろくでなしも、たくさん見てきた。だが、立派な、尊敬できる人たちも、多かった。なにか、世の中に報いなければ、いけないのでは、ないか。
 人間は、一人で生きているわけでは、ない。
 すべては、関係なのだ、と、悟ったばかりでもある。
 輪廻転生はなくても、世の中のすべてのものは、つながっている。空間的にも、そして、時間的にも。
 世の中をよくすることができるなら、そのために、何かした方がいいのでは、ないか。
 自分の悟りの内容は、世の中を直接よくすることとは、関係ないかもしれない。だが、それでも、新しい考え方だから、何かの役に立つだろう。それに、自分のような悩みを抱えている人は、他にもいるだろう。心の病を抱えてしまった人にも、何か、役に立つかもしれない。
 国元と、釈迦族には、悪いことをしたと思っている。後継ぎの責務も、半端に投げ出した。直接的にではなくても、間接的にでも、何か、お返しが、できるのではなかろうか。
 まあ、都合のいい考えだ。だが、人間の普通の考えとは、都合のよいものである、というのは、悟った内容の通りでもある。そして、そういう、普通の人の、普通の考え方も、必要だろう。それを、頭から否定するのは、違う。
 自分の悟りは、難解すぎるし、特殊すぎる。
 また、自分の悟りの考え方だけをする、というのは、不可能だし、すべきでもない。それでは、人は生きていけない。
 人間の、子供の自然な心の発達からすれば、これは不自然な考え方だ。小さな子供に、教えるべき内容では、ない。子供のあいだは、普通に育ってもらって、ある程度、人間ができて、身が固まってから、学ぶ方がいいだろう。思春期くらいの、まだ心が定まっていないときに教えると、心によくない負担をかけることも、考えられる。
 ——自分が、そうだったように。
 などと考えていると、自然に、自分の悟りを、人々に伝えるように、思考していることに、気づく。
 多分、人間には、利他心とか、良心みたいなものが、あるのだろうな、とシッダールタは、自分自身をも、冷静に分析してみたりした。利他心すらも、おそらくは、作られたものだ。だが、作られたものであっても、それは、確かに、ここにある。
 そして、自分は、自分の教えを世の中に広めることが、世の中のためになると、考えている。
第十一章
 しかし、迷いも、ある。
 シッダールタは、自嘲した。
 悟っても、迷う。さっきは、死のうと思って、今は、生きることを考えている。しかも、悟りを教えとして、世の中に広める、という大きなことを、考えている。
 教えを広めるというのは、大変なことだ。
 シッダールタは、王として、国を運営する教育を、受けている。そして、出家するまでの二十九まで、父の下で、政治を手伝っていた。組織を運営することの、しんどさは、分かっていた。書類の山。人と人との、面倒ないさかい。誰を、どこに、どう配するか。金の出入り。それを、ゼロから立ち上げるのだ。
 多分、とてつもなく、面倒くさい。
 修行中、いろいろな教団に、教えを請いに行った。いろんな教団を見たが、多分、教団の運営は、楽ではない。指導者は、教えを説くだけでなく、弟子たちの食い扶持や、寝る場所や、内輪のもめごとまで、面倒を見ねばならない。教団を作っていない、一人きりの仙人もいた。あれの方が、楽だろう。楽だが、教えは、広まりにくいはずだ。その者が死ねば、教えも、消える。
 苦行で別れた、あの五人の仲間が、協力してくれるかな。——いや、というか、そもそも、理解してもらえるのか。彼らは、私が苦行を捨てたことを、堕落と見て、去っていった。あの者たちに、まず、分かってもらわねばなるまい。だが、それすら、容易ではない。
 ……かなり、しんどい。
 私のような悟り方は、特殊だろう。私は、王子だったから、めちゃめちゃ教育を受けた。自分で言うのも口幅ったいが、私は、ヴェーダやウパニシャッドでは、優秀な生徒だったのではないか、と自負している。それに、思春期以来の特殊な体験で、人と物の見方が、若干、違うようになった。だから、他の人が「同じもの」と考えていることを、「違うもの」として考えられる。他の人が、自然に統合してしまっていることを、分離し、解体できる。
 しかし、これは、普通は、不自然なことだ。むしろ、できる方が、病的だ。リスクも、ある。私のように、「心の病」になってしまう。本当に病気かどうかは分からないが、私のように、思考の障害が生じてしまう危険性も、ある。
 だから、安易には、教えられない。
 何かを得れば、何かを失う場合がある。うまくすれば、何も失わずに、何かを得られる場合も、あるかもしれないが……。
 私も、悟らなかったら、みじめな人生だったかもしれない。今や、私は、悟ったから、自分では満足だが、人は、私を、みじめな人間だと思っているかもしれない。このまま死んでしまったら、なおのこと、そうだろうな……。
 まあ、別に、それでいいのだが。
 私の悟りの内容を、少なくとも、もっと分かりやすく、整理しないといけない。
 それに、私の悟り方でなくても、同じことを悟ることは、多分、可能だ。と言っても、結局、結論に至るのは、簡単ではないと思われる。多分、どんな道を通ろうと、簡単ではない。時間も、かかる。
 私だって、もっと整理しないといけないな。きちんと悟ったことを、しっかりまとめないと、自分でも、せっかくつかんだ、この感じを、忘れてしまうかもしれない。
 それにしても——私の悟ったことを表すのに、そもそも、うまい言葉が、ない。
 多分、どこにも、ないのではないか。
 既存のヴェーダやウパニシャッドの言葉。あるいは、いろんな教団や、修行沙門たちが、新しい概念や言葉を、日々、磨いている。そういったものの中に、私の悟りを伝えるのに、役に立つものは、あるかもしれない。しかし、そのまま借用したら、誤解の元にもなる。彼らの言葉には、彼らの前提が、貼りついている。
 そもそも、自分で言葉を作ってしまうのが、いいのだが、それだと、教えを作るのにも、教えるのにも、とんでもない時間と労力が、かかる。
 私は、大丈夫だ。むしろ、得意だ。だが、教えを受ける方は、かなり……いや、とてつもなく、難しい。
 というか、事実上、無理では……。
 何人かを悟らせるのに成功しても、後が続かず、結局、途絶えてしまう可能性が、高い。とすると、教えを広めるというのは、事実上、無理となる……か。
 釈迦は、ため息をついた。
 川面に、最初の、白い光が、にじみ始めていた。夜が、明けようとしていた。
第十二章
 私の考え方は、逆転の発想とも言えるだろう。
 実体や、存在の実在は、ない。それは、人間の心が作るものだ。知らないあいだに、作ってしまっているものだ。
 これを——「心が作るのではなく、もともと心の外に、実在しているもの」と、考えてしまっているのを、どうやって、「作られたもの」だと、捉え直させるのか。
 これは、もちろん、存在論だが、認識論でもある。
 しかし、この逆転の発想は、精神の諸要素を、ばらばらに解体してみせるよりは、危険では、ない。あれは、下手をすると、聞いた者の心を、壊しかねない。私が、そうなりかけたように。それに比べれば、こちらは、まだ、危険は少ない。
 危険は少ないが、やはり、難しい。
 何にせよ、難しいことが、多いな。
 教えとして、うまく表現することに成功しても、なお、難しいだろう。
 分かりやすく表現することが、たとえできても、理解にも、納得にも、高い山を、越えないといけない。
 ヒマラヤの山々を、越えることができるのか。
 ガンジスの流れを、泳いで渡れるのか。
 とすると、私は、珍しい、というか、希少なケースだな。運がよかった。多分、運もよくないと、悟れない。
 頭がいいだけでは、だめだ。頭の回転が速い人も、記憶力がいい人も、たくさんいる。私など、及びもつかない人々を、私は、たくさん知っている。父の宮廷にも、修行者のなかにも、舌を巻くような切れ者が、いた。
 しかし、そういう人が、悟れるのか、といえば、どんなに教えをうまくシステム化できても、難しい場合があるだろう。
 むしろ、頭の回転がよかったり、記憶力がよかったりすることが、悟るのに、邪魔になる場合があるのでは、ないか。
 頭のいい人は、すでにある考え方を、早くたどれるだけの人も、多い。記憶力がいい人も、すでにあるスキームに当てはめたり、すでにある知識とつなぐ、連想のような覚え方をしている人も、多い。
 そうでない人たちも、いるが……。
 私の教えは、場合によっては、そういうものを、壊してしまわないといけない。壊さなくてもいいかもしれないが、先入観となって、悟るのに、邪魔になるかもしれない。
 「気づき」で、うまく悟れる場合も、あるかもしれない。だが、ゼロから、考え方を作り上げるようなものが、必要になるかもしれない。そういう能力は、思考が速いとか、記憶力があるとかとは、違うものかもしれない……。
 思えば、修行僧たちは、プライドが高い傾向があるな……。私も、そうかもしれないが……。これは、有利なところもあるかもしれないが、プライドが、邪魔になる場合も、あるかもしれないな……。自分の考え方を、捨てたり、壊したり、それを持ちつつも、新しい考えの枠組みを、一から構築するのは、年を取ってからでは、しんどいに違いあるまい……。
 しかし、教えを広めようとすると、既存の修行者層や、大物たちの協力が、必要だな……。これも、難しい。
 彼らは、教えを学ぼうとしないどころか、邪魔しようと、さえするかもしれない。新参者が、自分たちの築いてきたものを、覆そうとするのだから。そもそも、学びたいと思えるほど、魅力的に思ってもらわないと、いけないのだが、それが、可能なのか。
 訳の分からないやつが、訳の分からないことを言っている——で、終わってしまいそうな……。
 それに、金が、いるな。
 あるいは、パトロン。後ろ盾。
 組織的に教えを広めようとすると、先立つものが、必要だ。弟子を食わせ、雨季に雨をしのぐ場所を確保し、遠くまで教えを運ぶ。それには、富める者の、王侯や、大商人の、寄進がいる。今、商人たちは、力をつけている。生まれではなく、各人の行いを問う私の教えは、もしかすると、彼らの心に、届くかもしれない。だが、そこまで考えるのは——。
 いかん、考えすぎだ。思考に、負荷をかけすぎだ。熱くなってしまっては、いかん……。
 以前の私なら、ここで、また、こじれていた。冷えていく頭を、彼は、自分で感じた。今日は、止めどきを、知っている。
第十三章
 ひと眠りすると、頭が、すっきりした。
 別に、急ぐことは、ない。もう、目的は、達したのだ。後の生きている期間は、余生のようなものだ。気楽に、していこう。
 しかし、意外と、体調がいいな。苦行を離れて、体が回復してきたのかもしれない。長年の重しも、心から、取れた。それも、調子がいい原因かもしれない。養生すれば、あと数年は、生きていけるかもしれないな。健康に、気をつけて。
 でも、寒いな。これから、もっと寒くなっていく。
 まだ、悟ったことを、味わいたかった。何回も、繰り返し反復して考えると、いろいろなアイデアが、湧いてくる。しかし、悟りと関係ないことを考えることも、増えてきたな。
 考えるだに、思い出すだに、喜ばしい気持ちが湧いてくるのは、心地よい。だが、座禅ばかりでは、体が凝るし、なまるな。座ってばかりだと、健康に悪いのでは、ないか。ちょっとは、体を動かした方がいいな。
 と考えて、少し、歩いてみた。立ちくらみや、ふらつきがあるので、注意だ。痩せた足が、砂を踏むたびに、頼りなく沈む。
 自分が、健康のことを考えているのが、おかしくて、笑みがこぼれた。ちょっと、余裕が出てきたのかもしれない。もう、命なんて、どうでもいいはずなのにな。
 真理への思考の、絶好調は、ピークアウトしてきた感じが、ある。どれくらいだったか——七日ほどの、集中的な禅定で、自分の中では、考えは、だいぶまとまっていると感じた。
 まだまだ、考えることは、あるのだが。
 たとえば——アートマンがない、と言っても、なくてもよい、というだけだ。アートマンなしでも、この世は、成り立つ。しかし、あっても、いいのだ。同じく、輪廻転生も、あっても、いいのだ。
 実体としてのアートマンは、なくても、関係として、アートマンのようなものは、形成される。それだけで、いいのだが、それと、実体としてのアートマンが存在することは、両立しうる。まあ、無駄な両立では、あるが。
 無いと断じることにも、根拠はない。在ると断じることに根拠がないのと、同じように。
 中道、とでも言おうか。
 まあ、ここらへんは、後でもいいな。今やると、ややこしくなりすぎる。まずは、分かりやすいのが、正義だ。そのうち、体系化するときに、別立てで、理論化しておこう。
 こう考えると、私の中にも、この教えを人に教えたい、という気持ちが、やはり、あるのだろうな。おそらく。
 そう考えると、人間は、短絡的というか、いろいろ単純化しすぎたり、意味がないと思ったものを、無意識にそぎ落として、前提をなくしてしまう、思考の癖が、あるのだろうな、と思ったりした。
 実体としてのアートマンがあって、実体としての輪廻転生があれば、結局、輪廻転生して、生まれ変わりのどこかで、苦しむ可能性は、あるのだが——そういうのは、もう、どうでもよくなっていた。
 憑き物が落ちた、とは、こういう感じなのかもしれないな。いったい、長年、何に苦しんできたのかも、分からなくなったりする。
 生きることは、苦だ。この地では、人は苦しむ。これが、常識だ。
 まあ、それには同意するが、苦しくないときも、ある。楽しいときも、楽なときも、ある。とすると、「生即苦」と考えるのも、一つの考え方にすぎないかもしれない。だが、まあ、小さな、枝葉末節の問題だ。
 どうでもいいことを考えることが、増えてきた。
 暇とか、やることがないとか、目標がないということも、苦の一つなのかもしれない。まあ、何を苦とするかによって、苦も変わるのだが。そういう、相対的な考え方が、自然に浮かぶようになってきた。
 シッダールタは、論理的な性格だった。もちろん、学問や修行としての論理は、修めていたが、もともと、合理的で、論理的なところがあった。体系化も、大好きだ。いろいろなアイデアを出すのも、楽しいタイプだ。
 多分、もうちょっと、時間をかけたい、と思った。
 禅定は、もう、不要だろう。悟りは、成ったのだ。
 今は、自由、気楽な気分、というような感じだろうか。もう、いつ死んでもいいのだが、すぐには、死ぬことは、なさそうだ。とすると、死ぬまでは、時間がかかりそうだ。そのあいだ、どうやって過ごしていけばいいだろう。
 まあ、なるように、なるな。
 野宿も何だから、過ごせるところが、あるといいな。あるいは、修行者の仲間たちの、様子を見てみようか。あの、去っていった五人は、今、どこにいるだろう。たしか、西の方、鹿の遊ぶ林の方へ、向かったと聞いた。
 アートマンが作られるものだとすると、ブラフマン、宇宙の真理も、同じようなものかもしれないな。あらゆるものは、関係性で成り立つ、と、一般化できるような気もするな。というか、そういう考え方も、できるな。実際は、どうだか知らないが——「実際」なんて、我々には、多分、分からないのだ。今なら、自信を持って、そう言える。
 とすると、すべての修行者や、学者に、役に立つな。ヴェーダも、ウパニシャッドも、刷新できるのでは、ないか。とすると、学問を発展させて、修行者や学者のみならず、世の中のすべての人にとって、役に立つ可能性が、あるな。しかも、それを残す言葉が、できれば、後世の人にも、役に立つ。
 ということは、だいぶ、世界にとって、いいことなのでは、ないか。
 広めるのは、だいぶ難しいが、もし広められたら、その利益は、計り知れまい。
 とすると、私が死んで、教えが途切れるのは、もったいないな。
 いつか、誰かが、同じことに至るのかもしれない。だが、そうだとしても、それまでの時代の人々が、かわいそうだろう。少なくとも、私のような苦しみや問題を持っている人は、今も、この先も、いるだろうから、その人たちには、役に立つかもしれない。
 それどころか——人間の心だけでなく、宇宙の成り立ちまで、説明できるとなれば。うまく、世に紹介できれば、世の中の成り立ちを知りたい人や、仕事や、産業にも、役に立つかもしれないな。
 とすると、一つ、教えとして、広めてみようか。
 そうすると、まず、体力と、健康を、回復させねば、なるまいな。
 そして、言葉を整えねばならない。誰にでも、すぐ分かる言葉ではないだろう。だが、誰か一人でも分かる言葉なら、そこから道は開ける。まずは、あの五人だ。彼らは私を見捨てた。だからこそ、最初に彼らに会いに行くのがよい。彼らが分からなければ、誰にも分からないかもしれない。彼らが分かれば、道は、少しだけできる。
 東の空が、白んでいた。痩せた川の向こう、まだ霜の残る野の果てに、ゆっくりと、光が満ちてくる。鳥が、鳴き始めた。どこかで、村の竈の煙が、まっすぐに、立ちのぼっている。
 シッダールタは、立ち上がった。
 膝が、笑った。立ちくらみが、視界を白く塗った。だが、倒れはしなかった。
 そして、ゆっくりと、菩提樹を、後にした。
 西へ、向かう道だった。