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  • 2026年6月30日

堂島ばけもの算用

第八話 堂島のばけもの、天下を喰う

堂島ばけもの算用

第八話 堂島のばけもの、天下を喰う

 夜明け前の堂島は、まだ夜であった。

 空は白みはじめている。

 だが、浜に集まった男どもの顔は、どれも夜より暗い。

「空木の蔵は、ほんまに空やった!」

「切手を米に換えられへん!」

「北浜でも銀を出さん店がある!」

「鴻池まで危ないらしい!」

「売れ!」

「買うな!」

「逃げろ!」

 何から逃げるのかは、誰にもよくわかっていない。

 わからぬから、よけいに怖い。

 人は、虎の姿が見えれば槍を持つ。

 火事なら水を持つ。

 だが、何が来るかわからぬときには、とりあえず隣の者と同じ方角へ走る。

 そして隣の者も、こちらを見て走っている。

 こうして、誰も追っておらぬのに、町じゅうが逃げ始める。

 これを相場という。

 ――と言うと、いささか言い過ぎかもしれぬ。

 しかし、その朝の堂島を見れば、そう言いたくもなる。

                 *

 米会所の前では、空木藩の米切手を抱えた者たちが、仲買の胸ぐらを掴んでいた。

「昨日まで財産や言うたやないか!」

「わしが言うたんやない! 世間が言うたんや!」

「世間をここへ連れてこい!」

「連れてきたら、浜に入りきらんわ!」

 別の男は、米切手を口に入れて噛んでいた。

「何してんねん」

「米の切手なら、いくらか米の味がせんか思うて」

「するかい」

「紙の味しかしよらん」

「当たり前や」

 紙の味しかしないとわかった男は、今度はその切手で尻を拭こうとした。

「やめい!」

 仲買が止める。

「紙屑やろ!」

「紙屑でも、まだ証文や!」

「尻拭いたら証文やないんか!」

「少なくとも、蔵役人は受け取らん!」

 世の中が潰れかけていても、大坂の人間は、口だけは止まらぬ。

 口が止まれば、本当に潰れたことになるからである。

                 *

 その騒ぎの中へ、寅吉が飛び込んできた。

 髪は乱れ、着物は泥だらけ。

 片手には麻田剛立から借りた長い筒。

 もう片方には、雲井屋から持ち出した葛城主膳の買付帳面を抱えている。

「空木の米が来るぞう!」

 長筒を口に当て、ありったけの声で叫んだ。

「梅田の泥から、米が来るぞう!」

 浜の男たちが振り返った。

「泥から米?」

「梅田に米なんか生えるか!」

「千五百石や!」

「さっきは三千石いうてたぞ!」

「噂の途中で増えたんや!」

「減らしとけ!」

「どうやってや!」

 誰も信じてはいない。

 だが、誰も完全には無視できない。

 なにしろ、前日から信じてきた噂の大半が、これよりもっと馬鹿げていた。

「米舟が来る! 満ち潮に乗って、福島から堂島へ来る!」

「どこや!」

「まだ見えへん!」

「見えへんのに来る言うな!」

「来てから言うたら遅いやろ!」

 それだけは筋が通っているように聞こえた。

 筋が通っているかどうかは、別として。

                 *

「寅!」

 鯰屋の方角から、お駒が走ってきた。

 背中には算盤。

 懐には、難波村の小屋から持ち帰った焦げた帳面と、梅田の米舟から出た書状。

 その後ろから、利兵衛が縄で縛られたまま、鯰屋の手代二人に担がれてくる。

「お父っつぁん、なんで縛られとるんや」

 寅吉が聞いた。

「空木の切手、売りに行こうとしよったからや」

 お駒が言った。

「わしの財産やぞ!」

 利兵衛が叫ぶ。

「もう店の財産や!」

「店はわしのもんや!」

「潰したら、わたしの借金になる!」

「親を縄で縛る娘があるか!」

「切手を底値で売る親より、ましや!」

 利兵衛はなおも暴れたが、縛られた魚のように、担がれたまま運ばれていった。

 鯰屋では、父親が主人であり、娘が経営者であった。

                 *

 升屋からは、山片蟠桃が現れた。

 供の手代たちは、大きな帳面、天秤、銀箱、それに白い札を運んでいる。

 札には、

空木藩米切手
仮引換所

 と書かれていた。

「仮引換所?」

 仲買たちがざわめく。

「米がないのに、何と引き換えるんや」

「米じゃ」

 蟠桃は答えた。

「あるんか」

「ある」

「どこに!」

「来る」

「まだ来てへんやないか!」

「来る前から売るのが、帳合米であろう」

 誰かが笑った。

 笑ってから、

「笑うとる場合やない!」

 と、自分で怒った。

 蟠桃は、米会所の前へ座った。

 帳面を開く。

 算盤を置く。

 天秤を据える。

「空木藩の米切手を持つ者は、ここへ並びなされ。券面、発行日、蔵印を改める。正しい切手については、米舟が着きしだい、順に現米を渡す」

「全部あるんか!」

「現に確認した限りでは、まず千五百石」

「切手は、もっと出とるぞ!」

「だから全部とは申しておらぬ」

 蟠桃は平然と言った。

「足りぬものを、足りると言えば、葛城主膳と同じになる」

「ほな、足りん分はどうする!」

「それを調べるための帳面じゃ」

 男たちは不満そうに唸った。

 だが、「全部ある」と嘘をつく者より、「足りない」と言う者の前へ並び始めた。

 不思議なものである。

 信用というものは、立派な言葉より、ときに、都合の悪いことを先に言う者へ集まる。

                 *

「小右衛門はん!」

 鶴松が息を切らして駆けてきた。

「福島の舟、三艘、出ました! お六の婆さんが、船頭を怒鳴りつけて、荷役を十七人、墓掘りを四人、夜鷹を二人、犬を一匹乗せてます!」

「夜鷹と犬は、何をする」

「勝手に乗ったそうです!」

「降ろせ」

「もう川の上です!」

「なら仕方ない」

 蟠桃は帳面へ何かを書き込んだ。

「何を足したんです」

「余計な荷」

「犬まで勘定に入れるんですか」

「乗ってしまったものは、入れねば合わぬ」

 富永仲基の幽霊が聞けば、

「鬼まで勘定に入れ始めたか」

 と笑ったかもしれない。

 だが、この朝の蟠桃には、幽霊と話している暇はなかった。

                 *

 北浜から、鐘の音が響いた。

 両替商の戸が次々と閉まり始めている。

「銀が止まるぞ!」

「切手を銀に換えろ!」

「銀を金に換えろ!」

「金を何に換える!」

「わからんけど、何かに換えろ!」

 恐慌というものは、何かを手放して、別の何かを持てば安心できるという、たいそう切実な病である。

 紙を銀へ。

 銀を金へ。

 金を米へ。

 米を塩へ。

 塩を味噌へ。

 味噌まで不安になれば、最後は握り飯にして食ってしまう。

 腹に入れれば、少なくとも誰にも取り上げられぬ。

 もっとも、腹を切られれば別である。

                 *

「道を開けよ!」

 侍の声がした。

 浜の人波が割れた。

 葛城主膳が、供侍と、空木藩の留守居役を伴って現れた。

 雲井屋にいたときとは違い、今度は裃を着け、正式な御用らしい顔をしている。

 役人というものは、着物が変わると、昨日の自分まで他人になる。

「御勘定方御用である!」

 葛城が声を張った。

「堂島米会所は、相場乱脈につき、本日より立合差止めとする! 空木藩米切手の売買、引換え、譲渡を禁ずる!」

 供侍が触書を掲げた。

 浜が静まり返る。

 先ほどまで怒鳴っていた男たちも、御用の二文字には弱い。

 日本人は、紙に印が押してあると、まず頭を下げてから、内容を読む。

「待ちなされ」

 蟠桃は座ったまま言った。

「その御触れ、いつ出たものです」

「今朝だ」

「どこで」

「御用に関わる。商人へ答える必要はない」

「葛城様が、大坂へ正式にお着きになるのは、明日のはずですが」

 浜がざわめいた。

 葛城の目が険しくなる。

「緊急につき、先行して入った」

「その届出は、大坂町奉行所へ?」

「後ほど行う」

「つまり、まだしておられぬ」

「天下の御用だ!」

「天下の御用は、天下の定めに従わぬのですかな」

 蟠桃の声は静かであった。

 静かだが、堂島じゅうに聞こえた。

 怒鳴り声の多い場所では、かえって静かな声の方が通る。

                 *

「この者を捕らえよ」

 葛城が命じた。

 供侍が蟠桃へ近づく。

 その前に、お駒が立った。

「先に、これを見てください」

 焦げた帳面を掲げる。

「空木藩の米を蔵から運び出した記録。火傷権六へ噂を撒かせた銭。道頓堀の芝居小屋への前金。印判師・弥七への支払い。全部、書いてあります」

「偽の帳面だ」

「こちらは?」

 梅田で見つけた書状。

「空木の相場を崩し、次に鴻の名を使って北浜の信用を動かす。米会所を差し止め、諸藩の切手を安う集める――あんたの手の者が書いたものです」

「偽書だ」

「便利ですなあ」

 お駒が言った。

「あんたに都合の悪いものは、みんな偽物になる」

「小娘が御政道を論ずるな!」

「御政道を利用して米切手を買うた人が、何言うてはるんです」

 寅吉が、雲井屋から持ち出した買付帳面を高く掲げた。

「北浜の綿屋市兵衛名義。空木藩切手、二千八百石。値が下がるたびに、同じ刻限に買うてある!」

「それも偽造だ!」

「わし、字ぃ書くの下手やから、こんなん偽造できへんで!」

 これは、妙に説得力があった。

                 *

「帳面をこちらへ」

 声がした。

 大坂町奉行所の与力と、町年寄たちが、人を分けて入ってきた。

 その後ろには、中井竹山。

 中井履軒。

 木村蒹葭堂。

 伏屋素狄。

 橋本宗吉。

 岡田米山人。

 上田秋成。

 麻田剛立までが、ぞろぞろ続いている。

 学者、医者、絵師、天文家が、なぜ御用の場へこれほど集まったか。

 それは、誰も帰ろうとしなかったからである。

 面白いことが起きている場所から、大坂の知識人を追い返すには、火事を起こすくらいしか方法がない。

 火事は前日にもう起きた。

「御奉行所へ、夜中から報せが集まりましてな」

 与力が言った。

「梅田で米舟が出た。蒹葭堂宅で死体が消えた。懐徳堂へ死人が置かれた。道頓堀で、空木藩が勝手に潰れた。どれから調べたものか、困っております」

「芝居で潰れた分は、勘定から引いてよい」

 履軒が言った。

「弟よ、黙っておれ」

 竹山がたしなめる。

「帳面と書状は、こちらで預かる」

 与力が葛城を見た。

「葛城様にも、町奉行所まで御同行願います」

「わしは幕府御勘定方の用人だぞ」

「存じております。ゆえに、丁重にお願いしております」

「断れば」

「丁重でなくなります」

 大坂の役人も、役人である。

 言葉は柔らかくても、退く気はない。

                 *

「こんな帳面で、わしを罪に問えると思うか」

 葛城が言った。

「印判師は死んだ。火傷権六は逃げた。舟問屋の清八など、己の罪を逃れるためなら何でも言う」

「権六なら、そこにおります」

 岡田米山人が指した。

 人垣の後ろで、頬に火傷のある男が、こっそり逃げようとしていた。

「なんでおるんや!」

 寅吉が叫んだ。

「芝居小屋から逃げたあと、また堂島で噂を撒いてたんやろ」

 お駒が言った。

「銭もろた仕事は、最後までやる男やな」

「立派な職人気質ですな」

 蒹葭堂が感心した。

「感心せんでください」

 権六が走り出した。

 だが、足元へ犬が飛びついた。

 第六話から、誰の犬かわからぬまま、ずっとついてきた犬である。

「痛い! 放せ!」

「その犬、役に立ったな」

 鶴松が言った。

「犬も勘定に入れといて、正解やったな」

 寅吉が言った。

 蟠桃は帳面に、

犬 一匹
用立つ

 と書き足した。

                 *

 そのとき。

「舟が来たぞ!」

 川下から声が上がった。

 堂島川の朝霧の中に、灯が一つ見えた。

 次に、もう一つ。

 そして三つ。

 低い平底舟が、米俵を山のように積み、ゆっくりと姿を現す。

 先頭に立つのは、渡しのお六婆さん。

 棹を振り回し、

「どけ、どけ! 米が通るで!」

 と怒鳴っている。

「川の真ん中で、誰がどくんや!」

 岸から誰かが叫ぶ。

「舟がどくんや!」

「そっちがどけ!」

 後ろでは、福島の舟子、梅田の日雇い、墓掘り、夜鷹、荷役たちが、櫓を押している。

 誰も立派な身なりはしていない。

 誰も天下国家を論じない。

 だが、米を運んできたのは、この者たちである。

 米舟が岸へ着いた。

 荷役たちが、俵を担ぎ上げる。

 一俵。

 二俵。

 十俵。

 百俵。

 空木藩の蔵印が押された米が、浜へ次々と積まれていく。

「米や……」

 誰かが言った。

 当たり前の言葉である。

 だが、米の証文ばかり見てきた堂島の男たちにとって、その朝、本物の米は、何かたいそう珍しい物のように見えた。

「ほんまに、あったんや」

「天下から米が消えたわけやなかった」

「梅田の泥が、米を吐いたぞ」

 噂は、また走り始める。

 今度は、半分ほど本当であった。

                 *

 蟠桃が立ち上がった。

「引換えを始める!」

 手代たちが米切手を改める。

 お駒が発行日を読む。

 鶴松が蔵印を照らす。

 橋本宗吉が、偽印を見分ける。

 蒹葭堂は、珍しい偽印を一つ懐へ入れようとして、お駒に叩かれた。

「証拠です!」

「後で返します」

「返す人の顔やない!」

 米山人は、米舟と群衆を描いている。

 秋成は、その絵を覗き、

「寅吉の顔が実物より賢そうじゃ」

 と文句を言った。

「絵くらい、賢くしてください」

 寅吉が頼んだ。

 素狄は、走って転んだ男の足を診ている。

 麻田剛立は空を見上げ、

「潮は、もうすぐ止まる」

 と言った。

 誰も聞いていない。

 だが、潮は言われたとおり止まり始めた。

                 *

「待て!」

 葛城が叫んだ。

「勝手な米の引換えは、御法度である!」

「何の法に触れます」

 蟠桃が尋ねた。

「蔵屋敷を通さぬ米切手の償還など、認められぬ!」

「ならば、蔵屋敷へ米を戻しましょう」

「それもならぬ!」

「なぜです」

「調べが済んでおらぬ!」

「空の蔵を調べている間に、人は飢えます」

「秩序が先だ!」

「飯が先です」

 寅吉が言った。

 葛城は振り向いた。

「黙れ、丁稚!」

「腹減ったことない役人には、わからんのです」

 寅吉は、米俵の前へ立った。

「わし、毎日、米の話しとるけど、腹いっぱい米食うたこと、あんまりない。旦那衆は切手を財産や言う。役人は値を決める言う。けど、食うたら米や。食われへんかったら、紙や」

「天下の仕組みは、それほど単純ではない!」

「せやから、ややこしいことは、お駒はんと小右衛門はんに任せます」

「人任せか!」

「わし、九九言えへんから」

 浜に笑いが起こった。

 張りつめていたものが、少し緩んだ。

 恐れというものは、笑いに弱い。

 笑っている間だけ、人は隣の者と同じ方角へ逃げるのを忘れる。

                 *

「空木藩切手、一枚!」

 お駒が叫ぶ。

「正印。発行日、寛政九年五月。米十石!」

 切手を持った老人が前へ出た。

 米十石分が、正式に渡される。

 老人は米俵へ手を触れた。

「ほんまや……」

 涙を流した。

 なぜ泣いたのかは、本人にもわからぬ。

 米を受け取れたからか。

 財産が紙屑でなかったからか。

 自分だけは助かったと思ったからか。

 人の涙もまた、帳面には載らない。

 だが、その涙を見た者たちが、ざわめいた。

「換えられるぞ」

「米はある」

「売るな!」

「切手を戻せ!」

「買え!」

 相場が、逆向きに動き始めた。

 先ほどまで紙屑として投げられていた空木藩の切手へ、今度は買い手が群がる。

 人間とは、まことに忙しい。

 恐れたと思えば欲しがり、欲しがったと思えば恐れる。

 一日のうちに、同じ紙を、宝と呼び、紙屑と呼び、また宝と呼ぶ。

                 *

「空木藩の切手、六分引きまで、わしが全部買う」

 群衆の後ろから声がした。

 本間宗久が、空き樽の上に座っていた。

 いつ来たのか、誰も見ていない。

 第一話と同じ、よれよれの木綿。

 同じ、年齢のわからぬ顔。

 そして、握り飯を食っている。

「本間宗久や!」

「ほんまもんか!」

「偽物やろ!」

「偽物でも買うてくれるならええ!」

 まことに堂島らしい判断である。

「六分引きや!」

 宗久が言った。

「米が足りぬと思う者は、わしへ売れ! 米があると思う者は、持っとれ! どちらが正しいかは、夕方になればわかる!」

「なんで六分や!」

「七分では安すぎる。五分では高すぎる」

「根拠は!」

「わしが、そう思うた」

「それだけか!」

「相場とは、最後はそれだけじゃ!」

 堂島の男たちが、どっと沸いた。

 宗久の前へ切手が集まる。

 だが、先ほどまでの投げ売りとは違う。

 売る者は考える。

 持つ者も考える。

 隣が売るから売るのではない。

 自分で決め始めた。

 血を読む宗久が、群衆の恐れへ値段をつけた。

 骨を読む蟠桃が、本物の米と帳面を並べた。

 血と骨がそろい、相場という化け物が、ようやく立ち上がった。

                 *

「宗久どの」

 蟠桃が言った。

「また、ずいぶん買われましたな」

「安かったのでな」

「この騒ぎで、ひと財産ですか」

「ふた財産ほどじゃ」

「人の不幸で儲ける」

「相場師じゃからな」

「恥じぬか」

「蟠桃はんは、損をした者だけが、徳のある者じゃと思うか」

 蟠桃は答えなかった。

 宗久は握り飯の残りを口へ入れた。

「儲ける者がいるから、売りたい者が売れる。買う者がおらねば、恐れた者は、切手を抱いたまま首をくくる。わしは安う買うた。じゃが、買うた」

「自分を善人にするおつもりで?」

「悪人のままで、役に立ったと言うとる」

 蟠桃は、少し笑った。

「それが、いちばん始末が悪い」

「番頭はんほどではない。そちらは、人を助けておきながら、利息まで取る」

「商いですからな」

 二人は、どちらからともなく、堂島の浜を見た。

 切手を改める者。

 米を担ぐ者。

 銀を運ぶ者。

 泣く者。

 笑う者。

 儲ける者。

 損をする者。

 濡れた帳面を乾かす者。

 騒ぎに乗じて握り飯を売る者。

 その握り飯を盗む犬。

 誰も清くない。

 誰も一人では回せない。

 それが市であった。

                 *

 葛城主膳は、与力に囲まれていた。

「わしが何をしたという」

 なおも言い張る。

「米会所の乱脈を正そうとしただけだ。空木藩の財政は破綻していた。商人どもは、ありもせぬ米を売り、民の食を博奕にした。わしがせずとも、いつか同じことが起きた」

「それは、そうかもしれません」

 お駒が言った。

 葛城は、意外そうに彼女を見た。

「空木藩が、ほんまに切手を出しすぎとった可能性はある。蔵役人が腐ってたんも、たぶんほんまや。堂島に博奕打ちが多いんも、ほんま。お父っつぁんみたいな阿呆が、安いからいうだけで危ない切手を買うんも、ほんま」

「お駒!」

 利兵衛が縄の中から抗議した。

「けど」

 お駒は続けた。

「悪いところがあるからいうて、自分で壊してええことにはならへん。火事が起きそうやから、先に火ぃつけるようなもんや」

「腐った仕組みは、一度壊さねば直らぬ」

「壊れた下敷きになる人を、あんたは勘定に入れてへん」

「改革には痛みが伴う」

「痛むのは、いつも他人ですな」

 蟠桃が言った。

「葛城様の帳面には、御公儀の大義は載っておる。米価も載っておる。諸藩の財政も載っておる。じゃが、米を担ぐ者、舟を漕ぐ者、切手一枚を老後の頼みにした者、安い米を待つ貧しい者、その顔が、一つも載っておらぬ」

「政治は、顔ではなく天下を見るものだ」

「顔のない天下など、どこにあります」

 葛城は、答えなかった。

                 *

 火縄が、じりじりと燃えていた。

 米会所の立合を始めるかどうか、まだ決まっていない。

 葛城の差止めは、正式な手続きを欠いている。

 町奉行所は、ひとまず差止めを保留した。

「立合を始める!」

 会所の者が叫んだ。

 浜が、また沸いた。

「買うた!」

「売った!」

「空木、六分!」

「六分二厘!」

「六分五厘!」

「鴻池は無事や!」

「誰が危ない言うた!」

「お前や!」

「わしは聞いた話をしただけや!」

「誰から!」

「忘れた!」

 昨日までの恐れが、今日の欲へ変わる。

 値が上がる。

 下がる。

 また上がる。

 水方たちが桶を用意している。

 火縄が消えれば、今日も男どもの頭へ水を浴びせねばならぬ。

 天下の金融市場は、最後はやはり水ぶっかけで終わる。

 そこだけは、どれほど事件が起きても変わらない。

                 *

 寅吉は、浜の端へ座った。

 朝から何も食べていない。

 腹が鳴った。

 ぐう。

「坊。腹、減っとるな」

 隣から声がした。

 宗久である。

「また握り飯か」

「今度は高いぞ」

「なんぼや」

「空木の切手、一枚」

「持ってへんわ」

「なら、つけにしとく」

「相場師が、つけで握り飯売るんか」

「利息は取る」

「小右衛門はんみたいやな」

「それは悪口じゃ」

 宗久は握り飯を一つ、寅吉へ渡した。

 寅吉は、今度はよく噛んで食べた。

「爺さん」

「なんじゃ」

「結局、あんた、何しに大坂へ来たんや」

「面白いからじゃ」

「それだけ?」

「それ以上の理由が要るか」

 寅吉は少し考えた。

 要らぬような気がした。

 面白いから米を売る。

 面白いから学問をする。

 面白いから死体を調べる。

 面白いから星を見る。

 面白いから芝居を作る。

 面白いから、役人に逆らう。

 この町の者たちは、銭のために動いているように見えて、ときどき、銭より厄介なものに突き動かされる。

 好奇心。

 意地。

 見栄。

 義理。

 退屈しのぎ。

 それらは帳面に載らぬ。

 だが、それがなければ、大坂という街は、一日も動かぬのかもしれない。

                 *

「寅!」

 お駒が呼んだ。

「いつまで握り飯食べてんねん! 鯰屋の切手、改めるで!」

「いま行く!」

 寅吉は立ち上がった。

 振り返ると、宗久はもういない。

 空き樽の上には、握り飯を包んでいた紙だけが残っている。

 紙には、細い字で、

酒田照る照る
堂島曇る
曇りのあとは
米が降る

 と書かれていた。

「最後まで、しょうもないこと書きよる」

 寅吉は紙を懐へ入れた。

                 *

 空木藩の一件が、その後どうなったか。

 藩は、すぐには潰れなかった。

 潰れなかったが、何事もなかったわけではない。

 過剰に出された米切手は整理され、藩の留守居役と蔵役人の何人かが罰せられた。

 鷺屋清八は、米を隠した罪を問われたが、事情を洗いざらい話したため、首だけはつながった。

 火傷権六は、牢へ入れられた。

 牢の中でも声が大きく、

「本日大評判、火傷権六牢破り!」

 と、自分で触れ回って役人に殴られたという。

 印判師・弥七を殺した者も、やがて葛城の手の者から出た。

 葛城主膳が、どのような処分を受けたか。

 これは、はっきり書かぬ方がよい。

 役人の不始末というものは、処分された記録より、処分されなかった記録の方が、きれいに残る。

 葛城は江戸へ戻された、ともいう。

 別の役目へ移された、ともいう。

 病気になったことにされた、ともいう。

 まったく同じ名の別人が、数年後、別の藩で似たようなことをした、という話もある。

 人は死ねば幽霊になる。

 役人は失脚すると、別人になる。

                 *

 鯰屋は、どうにか潰れずに済んだ。

 利兵衛が買い込んだ空木藩の切手は、米の引換えと相場の回復で、少しばかり値を戻した。

「ほら見い! わしの目に狂いはなかった!」

 利兵衛は胸を張った。

「売ろうとして縛られとった人が、何言うてんねん」

 お駒に一言で黙らされた。

 以後、鯰屋では、利兵衛が何かを買う前に、お駒の許しを得ることになった。

 主人の上に娘が立つ。

 士農工商より、さらに説明の難しい身分制度である。

 鶴松は升屋へ戻り、

「御用を立派に果たしました」

 と報告した。

 蟠桃は、

「逃げようとして柱へぶつかった分を、給金から引く」

 と言った。

「そこまで帳面につけてたんですか!」

「載らぬものはない」

 富永仲基の幽霊が、座敷の隅で笑った――ような気がしたが、蟠桃は、

「鼠じゃ」

 と言い張った。

                 *

 そして、寅吉は。

 相変わらず、算盤ができなかった。

「六七?」

 お駒が尋ねる。

「四十六」

「減ってるやないか!」

「前は四十八言うてたから、近づいた」

「正解を通り越して、遠ざかっとる!」

 ただ、寅吉は、堂島じゅうの顔と声を覚えていた。

 誰が、どの噂を、どの辻で言ったか。

 誰が、値が上がる前に笑っていたか。

 誰が、下がる前に黙っていたか。

 誰が、嘘をつくと右の眉を触るか。

 誰が、損をすると小便をしに行くか。

 数字にはならぬ、相場の気配である。

 鯰屋の旦那より、よほど役に立つ。

「寅」

 お駒が言った。

「なに」

「あんた、算盤は一生あかんかもしれんな」

「ひどいな」

「せやけど、耳は使える」

「褒めてる?」

「半分」

「残り半分は」

「これからや」

 お駒は、新しい帳面を開いた。

「空木の一件、全部、書いとく。誰が何言うて、どこで何が起きたか。あんた、覚えてること、最初から話し」

「長なるで」

「帳面は、まだ白い」

「ほな、握り飯もろたところから」

「その前から」

「天は米を降らさず、されど堂島には米が満ちた――」

「誰の真似や」

「なんとなく、そう言わなあかん気がした」

                 *

 こうして、「米のない蔵」の一件は終わった。

 空だった蔵へ米が戻り、紙屑になりかけた米切手は、また財産の顔をした。

 しかし、何も元どおりになったわけではない。

 ひとたび空だったと知った蔵を、人は以前と同じ目では見ない。

 ひとたび嘘をついた証文を、人は以前と同じようには信じない。

 信用というものは、割れた茶碗に似ている。

 漆で継げば、また使える。

 だが、ひびは残る。

 そのひびを、恥と見るか、前より面白い模様と見るか。

 それは、使う者しだいである。

 堂島の相場も、また動き始めた。

 米は上がる。

 米は下がる。

 人は儲ける。

 人は損をする。

 役人は口を出す。

 商人は聞いたふりをして、別のことをする。

 学者は理屈をつける。

 芝居小屋は、翌月にはもう、

梅田泥中千石騒動
酒田妖怪相場噺

 という芝居を掛けた。

 本間宗久の役を演じたのは、二十歳そこそこの美男役者であった。

「爺さんと全然ちゃうやないか!」

 寅吉が客席から野次を飛ばすと、

「こっちの方が客が入る!」

 座本に言い返された。

 物語というものは、事実より美男を好む。

 富永仲基が言うたとおり、後から後から、よけいなものが足されていく。

 この話も、同じであろう。

 寅吉が本間宗久に会ったこと。

 山片蟠桃が幽霊と話したこと。

 梅田の泥の下から千石の米が現れたこと。

 犬が御勘定方の陰謀を噛み止めたこと。

 どこまで本当かは、もう誰にもわからない。

 だが。

 米切手が、米の一粒もないまま天下を巡り、

 その紙を人が信じ、

 信じたことで米と銀と舟と人が動いたことだけは、本当である。

 世の中は、米だけでは回らぬ。

 紙だけでも回らぬ。

 嘘だけでも、真だけでも回らぬ。

 米と紙。

 骨と血。

 欲と徳。

 実と虚。

 その全部を、同じ鍋へ放り込み、煮えたぎらせながら、それでも翌朝には店を開ける。

 それが大坂である。

 天は米を降らさず。

 されど堂島には、今日も米が満ちていた。

 蔵にも、舟にも、帳面にも。

 そして、人の胸の内にも。

                 *

(『堂島ばけもの算用』第一部・了)

◆この物語の史実と虚構について(語り手より)

堂島米市場に、現物の正米取引と、差金決済を行う帳合米取引が存在したこと、米切手が米の受取証として流通し、財産・信用手段として扱われたことは、本当である。

大坂が日本各地の米、物資、銀、情報を集め、それを舟運、蔵屋敷、両替商、仲買、商家、荷役、農村、芝居町、学問所などの複雑なつながりによって動かしていたことも、本当である。

山片蟠桃が市場の働きを積極的に評価した町人学者であり、升屋の番頭として大名貸や藩財政に関わったこと、本間宗久が酒田の本間家に属し、後世に相場の達人として語られたことも、本当である。

ただし、梅田の泥の下へ三艘の米舟が隠され、葛城主膳なる役人が大坂の市場を乗っ取ろうとし、本間宗久と山片蟠桃が夜明けの堂島で手を組んだという記録は、今のところ見つかっていない。

寅吉、お駒、鶴松、利兵衛、渡しのお六、鷺屋清八、火傷権六、印判師弥七、犬一匹は、語り手の拵えものである。

なお、犬については、最後まで名をつけ忘れた。

本人も、特に困ってはいなかったようなので、これでよいことにする。