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  • 2026年6月29日

堂島ばけもの算用

第七話 江戸の役人、天気に値をつける

堂島ばけもの算用

第七話 江戸の役人、天気に値をつける

 役人というものは、雨に向かって、

「降るな」

 と言い、日照りに向かって、

「ほどほどに照れ」

 と言い、米の値が上がれば、

「下がれ」

 と言う。

 雨にも日にも米にも、べつだん役人の命令を聞く義理はない。

 それでも役人は、紙へ書き、印を押し、立札を立てれば、天地の方が恐れ入って従うものだと、どこかで信じている。

 葛城主膳という男は、その信心が、いささか強すぎた。

                 *

 曽根崎へ向かう渡し舟には、ずいぶん妙な一行が乗っていた。

 九九の怪しい丁稚が一人。

 算盤を抱えた娘が一人。

 大店の叱られ役が一人。

 渡しの婆さん。

 それに、どこからついてきたのかわからぬ犬が一匹。

 麻田剛立は、

「わしは手伝わぬ」

 と言って梅田の葦原へ残った。

 ただし、星を見るための長い筒だけは寅吉に持たせた。

「これ、どうするんや」

「星を見よ」

「役人の宿へ忍び込むのに?」

「人間ばかり見ておるから、道を誤る」

「夜道で転ぶ方が先やと思うけどな」

 その長筒が、のちにたいそう役に立つのであるが、何に役立ったかは、まだ申し上げぬ。

 先に申し上げると面白くない。

 もっとも、ここまで何度も死人やら幽霊やらを先に出してきた語り手が、今さら順序を気にするのも、おかしな話ではある。

                 *

 曽根崎の夜は、船場の夜とは違う。

 船場では、夜になれば大店の戸が閉まり、番頭が帳面を締め、丁稚が叱られ、主人が妾のところへ出かける。

 町の一日が、いったん算盤の音で終わる。

 ところが曽根崎では、日が沈んでから、別の一日が始まる。

 露天神の境内には灯が並び、願掛けの女、博奕帰りの男、商談を終えた手代、商談より長い言い訳を考える番頭、旅の僧、夜鷹、飴売り、香具師、占い師、盗人を探す岡っ引き、その岡っ引きを避ける盗人が、同じ道を押し合って歩いていた。

 茶屋からは三味線。

 小屋からは笑い声。

 路地からは夫婦喧嘩。

 橋の下からは鼾。

 神社の前では、

「一生添い遂げられますように」

 と若い男女が祈り、そのすぐ横で、年を取った夫婦が、

「どうか早う別れられますように」

 と別々に祈っている。

 神様も忙しい。

「葛城主膳の宿は、どこや」

 寅吉が尋ねた。

 お六婆さんは、露天神の裏手を指した。

「雲井屋いう旅籠や。江戸者がよう泊まる」

「なんで知っとるん」

「渡しをしてたら、誰がどこへ行くか、みな聞こえる」

「船頭いうのは、よう知っとるな」

「客は、水の上へ出ると、陸より口が軽うなる」

「なんでや」

「逃げ場がないから、安心するんやろ」

「逆やと思うけどな」

 雲井屋は、細い蜆川に近い、二階建ての旅籠であった。

 表には江戸言葉を話す供侍が二人。

 裏口には中間が一人。

 川側には小舟が一艘、いつでも出られるようにつないである。

「見張りが多いな」

 鶴松が言った。

「正面から入られへん」

「裏も無理や」

「川から行くか」

「犬はどうする」

 犬は、わん、と鳴いた。

「行く言うてる」

「なんで犬の言葉だけわかるんや」

「顔に書いてある」

                 *

 結局、正面から入った。

 策がなかったわけではない。

 お駒に策があったのである。

「天文方の使いでございます」

 雲井屋の番頭に向かって、お駒はしれっと言った。

 寅吉は麻田剛立の長筒を担いでいる。

 鶴松は、どこから盗ってきたのか、古びた羽織を着せられ、いかにも学者の供らしい顔を作っている。

 もっとも、学者の供がどんな顔をするものか、誰も知らぬ。

 お六婆さんは一行の後ろで腰を曲げ、

「星読み婆でございます」

 と名乗った。

「婆さん、そこまでせんでええ」

 寅吉が小声で言った。

「役がある方が入りやすいやろ」

「犬は?」

「天狗犬」

「なんや、それ」

「いま作った」

 雲井屋の番頭は、困った顔をした。

「葛城様は、ただいま大切なお話し中でございます」

「せやから来ました」

 お駒は言った。

「今夜、潮が変わります。明け方には南東の風。川霧が出て、堂島の火縄が湿る。米相場に関わる大事です」

「それが葛城様と、どういう関わりで」

「御役人は、お天気にも値をつけはると聞いております」

 番頭は、ますます困った。

 こういうとき、わからぬから追い返す人間と、わからぬから偉い話だと思う人間がいる。

 旅籠の番頭は、後者であった。

「少々、お待ちを」

 奥へ引っ込んだ。

「うまいこと言うな」

 寅吉が感心した。

「何のことや」

「南東の風とか、川霧とか」

「麻田先生が、夜半から雲が出る言うてたやろ」

「火縄が湿るんは?」

「いま考えた」

「嘘やないか」

「天気予報は、外れることもある」

                 *

 通された座敷には、三人の男がいた。

 一人は、空木藩の留守居役。

 一人は、北浜の商人らしき男。

 そして上座に、葛城主膳が座っていた。

 四十を少し越えた頃か。

 細面で、眉が濃く、髪には乱れ一つない。

 着物も、帯も、脇差も、何もかもが、決められた位置へ正確に収まっている。

 人間というより、役所の書式が、そのまま歩いてきたような男である。

「天文方の使いだと」

 葛城は、お駒たちを順に見た。

 娘。

 丁稚。

 丁稚。

 婆。

 犬。

 どう見ても天文方の使いではない。

 だが、どう見ても天文方の使いではないところが、かえって何か秘密の御用らしくも見える。

 権威というものは、しばしば、見る者の想像力に助けられている。

「はい」

 お駒は平然と頭を下げた。

「今夜から明朝にかけて、水気が変わります」

「何が起きる」

「お米が上がります」

 空木藩の留守居役が、顔色を変えた。

 北浜の商人も、葛城を見た。

「根拠は」

 葛城が尋ねる。

「月です」

「月が米価を決めるのか」

「月が潮を動かし、潮が舟を動かし、舟が米を運びます。米が来れば下がり、来なければ上がる。月が値を決めるというても、半分は当たっております」

「残り半分は」

「人の気です」

 葛城の目が細くなった。

「誰に教わった」

「大坂に住んでいたら、どこからでも聞こえてきます」

「名は」

「駒と申します」

「姓は」

「商人の娘に、そんな上等なものはございません」

 葛城は、わずかに笑った。

「天文方の使いではないな」

「いま気づきはったんですか」

 寅吉が口を挟んだ。

 お駒が足を踏んだ。

「痛っ」

「黙っとき」

「お前たちは何者だ」

「大坂の者です」

「それは見ればわかる」

「見てもわからんことを、聞きに来ました」

 葛城の顔から笑いが消えた。

                 *

「空木藩の米を、梅田の泥の下へ隠したんは、あんたですか」

 お駒が言った。

 空木藩の留守居役が息を呑んだ。

 北浜の商人が腰を浮かせた。

 葛城だけが、動かなかった。

「何の話だ」

「三艘の平底舟。空木だけやない。ほかの藩の米も積んでありました。偽の印も、偽の米切手も、道頓堀の芝居の勘定も見つけました」

「子供の作り話だな」

「では、これは?」

 お駒は、葛城の書状を懐から出した。

 梅田の米舟に隠されていたものだ。

 葛城は書状を一目見た。

 顔は変わらぬ。

 だが、右手の指だけが、ほんの少し動いた。

 寅吉は、その動きを見逃さなかった。

 数字は覚えられぬが、人の顔と癖は覚える。

「それは偽書だ」

「印は本物に見えます」

「偽の印を作る者がいたのであろう」

「その印判師は殺されました」

「ならば、そやつが犯人だ」

「死人に何もかも押しつけるん、江戸では流行ってるんですか」

 葛城は、お駒の顔をじっと見た。

「賢い娘だ」

「よう言われます」

「賢い者ほど、自分の見たものだけで、世の中の全てがわかったと思う」

「役人は、見てもいないものまで、わかった顔をしはりますな」

 座敷の空気が凍った。

 鶴松が、少しずつ後ろへ下がり始めた。

 逃げ道を探している。

 犬も座敷の端へ移った。

 犬の方が鶴松より早い。

                 *

「お前たちは、堂島を何だと思う」

 葛城が聞いた。

「米を売り買いするところや」

 寅吉が答えた。

「米はほとんど動かぬ」

「ほな、米が動いたことにするところや」

「嘘を売る場所だ」

 葛城は言った。

「米がないのに米を売る。豊作になるか凶作になるかもわからぬうちから、値を決める。噂一つで上がり、恐れ一つで下がる。汗を流して米を作る百姓とは無縁の者が、帳面の数字だけで千両を得る」

「それの何が悪い」

 葛城が寅吉を見た。

「悪くないと?」

「わしにはわからん。けど、米を作った百姓かて、収穫する前から金が要るやろ。藩かて、米が売れる前に借金せな回らん。舟も、倉も、人足も、先に銭が要る。ありもせん米を売るから、ほんまの米が動くこともあるんと違うか」

 これは、寅吉自身の言葉というより、堂島で聞いた多くの言葉が、腹の中で勝手につながって出てきたものである。

 九九は言えぬ。

 だが、人の言葉を一度聞けば忘れぬ。

 人間は、自分一人の頭だけで考えるわけではない。

 他人から拾った言葉を、知らぬ間に腹で煮て、自分のものとして吐き出す。

 富永仲基が見れば、これもまた加上じゃ、と喜んだであろう。

「その仕組みが、飢えを生む」

 葛城は言った。

「天明の飢饉では、米価が上がり、民が打ちこわしをした。商人は米を抱え、値が上がるのを待った。相場は、恐れを食って肥えた」

「役人は何をしたんです」

 お駒が尋ねた。

「何?」

「飢饉になる前に、役人は米を生やしたんですか。雨を降らせたんですか。冷害を止めたんですか」

「だからこそ、値だけでも制御せねばならぬ」

「値を押さえたら、米が増えるんですか」

「米を売り惜しむ者を取り締まれる」

「値が合わんかったら、誰も運ばへん。舟賃にもならん値で、誰が北国から米を持ってくるんです」

「命令する」

「風にも?」

 お駒は言った。

「潮にも、嵐にも、日照りにも?」

「人にだ」

「人は、風と潮と銭で動きます。命令だけでは、腹は膨れません」

 葛城は黙った。

 その沈黙は、言い負かされた者の沈黙ではない。

 相手を、どの箱へ入れて処理すべきか考える、役人の沈黙であった。

                 *

「わしは、大坂へ来るたび、同じことを思う」

 葛城は、静かに言った。

「この町は、繁りすぎている」

「繁る?」

「商人が勝手に金を貸す。町人が勝手に学校を作る。医者が勝手に獣を切る。絵師が米を扱い、番頭が天下国家を論じ、芝居小屋が藩政を笑う。坊主が相場を張り、学者が幽霊を論ずる」

「最後のは、たぶん論じてへん」

 寅吉が言った。

「黙り」

 お駒がまた足を踏んだ。

「誰も、自分の分を守らぬ」

 葛城は続けた。

「武士は治め、百姓は作り、職人は作り、商人は運ぶ。それぞれが分を守れば、天下は乱れぬ。ところが大坂では、商人が藩を治め、町人が学問をし、役者が政治を語る。根も枝も蔓も絡み合い、どこを切れば、どこが枯れるのか、誰にもわからぬ」

「切らんかったら、ええんと違いますか」

 寅吉が言った。

 葛城は彼を見た。

「繁りすぎた藪は、火事になる」

「刈りすぎた畑には、何も生えへん」

 お駒が答えた。

「大坂の人間は、皆、口が達者だな」

「口で商売してる者も多いですから」

                 *

 葛城は、北浜の商人に目を向けた。

「市兵衛。子供たちを別室へ」

 市兵衛と呼ばれた商人が立った。

 鶴松も立った。

「ほな、帰ってええんですか」

「お前は座れ」

「はい」

 すぐ座った。

 升屋の丁稚は、命令に弱い。

 市兵衛が手を叩くと、隣室から四人の侍が入ってきた。

「捕らえよ」

「犬もですか」

「犬もだ」

 犬が唸った。

「犬は怒ってますで」

 寅吉が言った。

「犬の怒りに値などない」

「噛まれたら、値がわかります」

 侍が犬へ手を伸ばした。

 犬は、その手を噛んだ。

「痛っ!」

「いくらでした」

「黙れ!」

 座敷が乱れた。

 お六婆さんが煙管を投げた。

 鶴松が逃げようとして柱へぶつかった。

 寅吉は麻田の長筒を振り回した。

 お駒は算盤で侍の指を叩いた。

 算盤は、人を賢くする道具であるが、使い方によっては、人の指をたいそう痛くする。

「小賢しい!」

 侍が刀へ手をかけた。

 そのとき、二階の障子が外から、がらりと開いた。

「刀を抜くほどの相手ではあるまい」

 細く、落ち着いた声がした。

 山片蟠桃である。

 屋根の上から、座敷へ入ってきた。

「小右衛門はん!」

 鶴松の顔が、死人より青くなった。

「お前、何をしておる」

「御用を、立派に果たしております」

「逃げようとして柱にぶつかったところまでは見た」

「そこからですか」

「十分じゃ」

 蟠桃の後ろから、升屋の手代が二人、屋根を越えて入ってきた。

「どうして、ここが」

 お駒が尋ねた。

「星の先生から、知らせが来た」

「手伝わん言うてたのに」

「あの御仁は、手伝わぬまま、人を動かす」

 葛城主膳は、蟠桃を睨んだ。

「山片小右衛門。商人が御用の宿へ、屋根から入るとは何事だ」

「戸口から入ろうとしましたが、御用の方々が塞いでおられたのでな。商いも同じです。正面を塞がれれば、別の道を探します」

「お前も、この一件に関わっているのか」

「大坂の米と銀が揺れておる。関わらぬ方が難しい」

                 *

「この書状を見ても、偽書だと言われます」

 お駒が蟠桃へ渡した。

 蟠桃は一読し、葛城を見た。

「偽書ですかな」

「偽書だ」

「では、葛城様が明後日、米会所の差止めを上申なさるという話も、偽りで?」

「江戸の御政道を、商人に答える義務はない」

「なるほど。偽書であるかどうかには答えず、答える義務がない、と」

「言葉尻を取るな」

「帳面の端を拾うのが、番頭の仕事でしてな」

 葛城は、鼻で笑った。

「お前たち商人は、市場に自然の理があると言う。値は、放っておけば正しいところへ落ち着くと。ならば空木藩の切手が暴落したのも、市場の理ではないか」

「相場を人為で動かしておきながら、落ちた先だけ自然と申されるか」

「証拠がない」

「梅田の米が証拠です」

「誰の米か、確かめられぬ」

「藩印があります」

「偽印が出回っている」

「便利ですな。都合の悪い印は、すべて偽印になる」

 蟠桃は座敷へ上がり、葛城の正面に座った。

「葛城様。一つ、お尋ねしたい」

「何だ」

「米の正しい値とは、いくらです」

「その年の作柄、民の暮らし、諸藩の財政を見て、御上が決める」

「具体的には」

「それを定めるために調べる」

「調べている間に天気が変わる。舟が沈む。蝗が出る。戦が起きる。江戸で火事があれば米が要る。蝦夷から船が来れば余る。それを、いつまでに、誰が、どう調べる」

「役所には諸国から報告が来る」

「報告が江戸へ着くころには、米は腐ります」

「だから商人に任せよと?」

「商人にだけ任せよとは申しませぬ。じゃが、役人だけに任せれば、もっと腐る」

 葛城の眉が動いた。

「無礼な」

「米は、礼儀では乾きませぬ」

                 *

「小右衛門。お前は市場を信じすぎる」

 葛城は言った。

「市場とは、人の欲を集めただけのものだ」

「役所は、人の欲が入らぬと?」

「少なくとも、公のために働く」

「では」

 蟠桃は、葛城の傍らに置かれた帳箱を指した。

「あの中を、見せていただけますかな」

 葛城の顔が、初めて、はっきり変わった。

「何のことだ」

「空木藩の米切手を、底値で買い集めた帳面です」

 座敷が静かになった。

「根拠は」

「市を見れば、わかる。空木の切手は下がった。じゃが、下がるたびに、決まって同じだけ買う手がある。買い方が役人らしい」

「役人らしい買い方とは、何だ」

「面白味がない」

 葛城のこめかみに、筋が浮いた。

「同じ刻限。同じ量。同じ仲買。帳面の升目へ、きちんと収まるように買う。相場師なら、もっと欲が乱れる。商人なら、値を叩く。役人は、決めた通りに買う」

「憶測だ」

「憶測でも、帳面を見れば済む」

 葛城は、帳箱へ手を置いた。

「これは御用の品だ」

「それは、たいそう都合がよい」

 その声は、葛城の背後からした。

「御用と書けば、欲まで立派に見える」

 いつの間に入ったのか、座敷の隅に、よれよれの木綿を着た爺さんが座っていた。

 本間宗久である。

 あるいは、本間宗久を名乗る、例の妖怪である。

「爺さん!」

 寅吉が叫んだ。

「静かにせい。人の話を聞いておった」

「どこから入ったんや」

「戸から」

「見張りは?」

「握り飯をやった」

「それで通したんか」

「腹の減った者は、役人より正直じゃ」

 葛城は宗久を睨んだ。

「何者だ」

「本間宗久じゃ」

「……酒田の?」

「そうかもしれん」

「ふざけるな」

「相場師に名を尋ねる方が悪い」

                 *

「帳箱を開けなされ」

 宗久は言った。

「断る」

「なら、開けずともよい」

「何?」

「中身は知っとる」

 宗久は指を折った。

「空木藩の米切手、二千八百石。三割落ちから買い始め、四割二分で千石、四割八分で八百石。名義は北浜の綿屋市兵衛。その綿屋は、そこに座っとる男じゃ」

 北浜の商人が震えた。

「違う!」

「違わぬ。お前は右の眉を触るとき、嘘をつく」

 市兵衛の手が、右眉の前で止まっていた。

 寅吉は感心した。

「爺さんも顔、覚えとるんやな」

「相場は顔で張るものじゃ」

「数字やないんか」

「数字は、顔が作る」

 葛城は、市兵衛を見た。

 その目だけで、市兵衛は座り直した。

「証文は」

 葛城が言った。

「証文がなければ、戯言だ」

「証文なら、ここに」

 宗久は懐から、一冊の帳面を出した。

 市兵衛が立ち上がった。

「それは、わしの!」

「さきほど、戸口で拾うた」

「盗んだんやろ!」

「落とした物を拾うのは、商いの基本じゃ」

「返せ!」

「値はいくらじゃ」

「人の帳面を売るな!」

「買わんなら、蟠桃はんにやる」

 宗久は帳面を蟠桃へ投げた。

 蟠桃が受け取り、素早く頁を繰る。

「合いますな」

「偽の帳面だ!」

 葛城が叫んだ。

「都合の悪い物は、すべて偽ですな」

 お駒が言った。

「子供は黙れ!」

「偽の子供かもしれませんで」

                 *

 葛城は立ち上がった。

「もうよい。全員捕らえよ」

 侍たちが刀を抜いた。

 今度は本気である。

 蟠桃の手代も身構えた。

 お六婆さんは棹を持っていないことに気づき、代わりに床の間の花瓶を持ち上げた。

 犬は、先ほど噛んだ侍を、もう一度噛もうとしている。

「待ちなされ」

 蟠桃が言った。

「ここで商人と子供を斬れば、明日の大坂で、どのような噂になるでしょうな」

「御用を妨げた賊を斬ったまで」

「『江戸の役人、空木藩の偽切手を調べた娘を斬る』」

 宗久が言った。

「朝には、それが」

 お駒が続けた。

「『葛城主膳、偽切手を自分で刷って、口封じに子供を皆殺し』になる」

「昼には」

 寅吉が言った。

「『江戸の御勘定方、大坂じゅうの子供を斬る』やな」

「夕方には」

 お六婆さんが言った。

「将軍様が直々に、堂島へ火ぃつけたことになる」

 葛城は周囲を見た。

 この者たちは、武力では弱い。

 だが、口が多い。

 そして大坂では、刀より口の方が、遠くまで届く。

「脅すつもりか」

「いえ」

 蟠桃は答えた。

「市場の見通しを申し上げただけです」

                 *

 そのとき、外から半鐘が鳴った。

 先ほどより近い。

 雲井屋の廊下を、宿の者が走る。

「堂島で騒ぎです!」

 障子の外から声がした。

「空木藩の切手を持った者が、蔵屋敷へ押しかけております! 北浜でも銀の引き出しが始まりました!」

 葛城の口元に、わずかな笑みが浮かんだ。

「もう遅い」

 彼は言った。

「空木藩の蔵は空だ。明朝、米会所は立合を始められぬ。商人たちは互いを疑い、切手を投げ、銀を引き出す。そこへ、わしが御用として入る」

「御定相場を出す」

 蟠桃が言った。

「市場を止め、米価を定める。混乱を鎮めるためだ」

「底値で買うた切手を持ったまま?」

 お駒が尋ねた。

「それは市兵衛が勝手にしたことだ」

「さきほどまで、公のため言うてはったのに、急に他人の勝手になるんですな」

「証明はできぬ」

「市場を止めれば、値は戻らぬ」

 宗久が言った。

「切手を買うた主膳どのも、儲からんぞ」

「市場を再開させる時期も、御上が決める」

「なるほど」

 宗久は、嬉しそうに笑った。

「天気だけやない。春の来る日まで、自分で決めるつもりじゃ」

「何がおかしい」

「冬を止めれば、春は来ぬと思うとる」

 葛城の顔から、最後の余裕が消えた。

                 *

「小右衛門はん」

 宗久が蟠桃を見た。

「骨は、そろうたか」

「おおむね」

「血は、わしが見る」

「何をする気じゃ」

 葛城が尋ねた。

 宗久は答えなかった。

 代わりに寅吉へ言った。

「坊。噂を走らせられるか」

「どんな噂や」

「嘘ではない噂じゃ」

「嘘でないと、走るの遅いで」

「そこを速う走らせるのが、お前の仕事じゃ」

 蟠桃がお駒へ尋ねた。

「梅田の米、何石と見た」

「空木だけで、少なくとも千五百。ほかの藩を合わせたら、三千はあります」

「空木の切手を支えるには」

「千五百あれば、今出回っとる分の取り付けには、ひとまず足ります。ただし、一度に全部見せなあかん。小出しにしたら、隠しとったと思われる」

「舟を堂島へ入れる刻限は」

 宗久が聞く。

「満ち潮が止まる前。明け六ツより少し前です」

 お駒は答えた。

「星の先生が、そう言うてました」

「米を積んだ舟を、朝一番に堂島へ並べる」

 蟠桃が言った。

「空木藩の蔵が空でも、米そのものはあると、皆に見せる」

「見せるだけでは足りん」

 宗久は言った。

「切手を持つ者へ、その場で米を渡す」

「蔵屋敷を通さずに?」

「蔵役人が絡んどる。蔵を通せば、また止められる」

「勝手に渡せば、法に触れる」

 葛城が言った。

「明朝には、わしが差し止める」

「それより先にやる」

 お駒が答えた。

「法は日の出から働くんですか」

「何?」

「役人が正式に大坂へ着くんは、明後日のはずです。今夜のあんたは、まだ大坂におらんことになってます」

 座敷が静まり返った。

 葛城は、公には明後日、大坂入りする。

 今夜ここにいることは、表へ出せない。

 彼が今、御用を名乗って動けば、自分の裏入りを認めることになる。

「おらん人の命令は、聞けませんな」

 寅吉が言った。

「幽霊と同じです」

 お駒が言った。

「蟠桃はんに言わせれば、勘定に入れんでよい」

 宗久が笑った。

                 *

「行くぞ」

 蟠桃が立った。

 葛城の侍たちが道を塞ぐ。

 しかし葛城は、すぐには命じなかった。

 斬れば噂になる。

 捕らえれば、自分の存在を明らかにする。

 追えば、裏入りが露見する。

 役人というものは、法を武器にする。

 だが、法の外へ一歩出た役人は、刀を持った、ただの男である。

 その一歩を、葛城主膳は、すでに踏み出してしまっていた。

「明朝、堂島で会おう」

 葛城は言った。

「そのころには、米会所は地獄だ」

「地獄は、見慣れております」

 蟠桃が答えた。

「堂島ですからな」

                 *

 一行は雲井屋を出た。

 露天神の境内は、先ほどより人が増えている。

 空木藩の蔵が空だったという噂が、もう曽根崎まで届いていた。

「切手が紙屑になる!」

「北浜で銀が出えへん!」

「鴻池が店閉めたらしい!」

「嘘や!」

「けど、みんな言うてる!」

 加上という化け物が、また走り始めている。

「寅」

 お駒が言った。

「噂を止められる?」

「無理や」

 寅吉は即答した。

「噂は止まらん。けど、もっと面白い噂を、先に走らせることはできる」

「何を言う」

 宗久が尋ねた。

 寅吉は少し考えた。

「空木の米が、梅田の泥から生えてきた」

「嘘ではないな」

 蟠桃が言った。

「千五百石の米が、明け方、堂島へ攻め込む」

「米が攻め込むんか」

 鶴松が言った。

「その方が面白いやろ」

「誰が信じる」

「面白かったら、信じる前に人へ言う」

 宗久が、満足そうに頷いた。

「坊。ようやく相場がわかってきたな」

「算盤は、まだわからんけどな」

                 *

 そこから、大坂の夜が動き始めた。

 鶴松は升屋へ走った。

 お駒は鯰屋へ走り、利兵衛が空木の切手を投げ売りせぬよう、帳場へ縛りつけに行った。

 お六婆さんは福島へ舟を返し、米舟を動かすよう、荷役たちへ声をかけた。

 犬は、誰にも命じられぬまま、魚屋の方へ走った。

 たぶん腹が減ったのである。

 蟠桃は北浜へ向かい、両替商と仲買へ手を回す。

 宗久は、どこかへ消えた。

「どこ行ったんや、爺さん」

 寅吉が振り向いたときには、もういない。

 相場師と幽霊は、必要なときには現れ、用が済むと、勘定を残して消える。

 寅吉だけが、曽根崎の辻に残った。

 いや、一人ではない。

 麻田剛立の長い筒がある。

 寅吉は筒を肩へ担いだ。

「これで星を見ろ、か」

 空を見上げる。

 雲が出て、月が隠れ始めていた。

 星は、ほとんど見えない。

「役に立たんやないか」

 だが、そのとき、寅吉は思いついた。

 長い筒を口へ当てる。

「空木の米が、梅田から出たぞう!」

 筒が声を遠くへ飛ばした。

 通りの向こうで、人が振り返った。

「千五百石の米が、明け方、堂島へ攻め込むぞう!」

「なんやて?」

「米が攻め込む?」

「梅田の泥から出たらしい!」

 一人が、隣へ言う。

 隣が、また隣へ言う。

「梅田から米が三千石!」

「泥から米が湧いた!」

「千艘の米舟が堂島へ来る!」

 早くも、増え始めた。

「増やしすぎや!」

 寅吉が叫んだ。

 だが、噂はもう走っている。

 真実は足が遅い。

 ならば、真実にも少しばかり、派手な草履を履かせるほかない。

 曽根崎から天満へ。

 天満から北浜へ。

 北浜から船場へ。

 船場から道頓堀へ。

 道頓堀から難波へ。

 米が梅田の泥から生え、舟に乗り、堂島へ攻め込むという話が、大坂じゅうを駆け抜けていく。

 町の北では、荷役たちが、泥を剥がし、米舟の縄を解いている。

 中之島では、空木藩の切手を抱えた男たちが、蔵の門を叩いている。

 北浜では、銀蔵の戸が閉まりかけている。

 堂島では、明日の立合をするか止めるか、仲買たちが怒鳴り合っている。

 その全ての上で、雲が月を隠し、風が変わり、海から満ちた水が、ゆっくりと大坂の川を押し上げていた。

 江戸の役人は、明日の米の値を決めようとしている。

 だが、天気も、潮も、舟も、商人も、丁稚も、噂も、まだ一つとして、葛城主膳の帳面には収まっていない。

 大坂という、むせ返るほど繁った化け物が、夜の底で、ゆっくりと身を起こし始めていた。

                 *

(第七話・了。最終話「堂島のばけもの、天下を喰う」へつづく)

◆この物語の史実と虚構について(語り手より)

寛政年間の曽根崎が、大坂三郷の北辺に接する村落・街道・寺社・茶屋などの入り混じる地域であり、露天神が古くから鎮座していたこと、大坂の川と舟運が夜も人と物を動かしていたことは、おおむね本当である。

天明の飢饉後、幕府が米価、備荒、囲米、都市統制などへ強い関心を持ち、寛政の改革において倹約や統制を進めたことも、本当である。ただし、葛城主膳という御勘定方の役人が、空木藩の米を隠して堂島米会所を止めようとした記録は、当然ながら存在しない。

山片蟠桃が屋根から旅籠へ侵入したこと、本間宗久が見張りへ握り飯を渡して通過したこと、麻田剛立の天体望遠鏡を丁稚が拡声器として用いたことも、すべて拵えものである。

なお、表向きにはまだ到着していない役人の命令を、幽霊と同じく勘定に入れなくてよいかどうかについては、時と場合による。

読者諸氏におかれては、真似をなさらぬよう願いたい。