- 2026年6月27日
堂島ばけもの算用
第五話 道頓堀、米を演じる
堂島ばけもの算用
第五話 道頓堀、米を演じる
道頓堀というところでは、ほんとうの出来事が起こるより先に、それを芝居にしてしまう。
男女が心中すれば、翌月には舞台の上でもう一度死ぬ。
大名家で御家騒動が起これば、登場人物の名だけ少し変えて、まだ当人どもが揉めている最中から、役者が見得を切る。
悪党が捕まれば、その悪党が牢を出るより先に、舞台の悪党が縛られる。
したがって、空木藩がまだ潰れてもおらぬうちから、道頓堀では、とうに空木藩らしきものが潰れていた。
しかも、昼夜二度ずつ。
*
「待て、こら!」
北堀江を飛び出した寅吉は、死人を担いで逃げる二人の男を追って、道頓堀の人波へ飛び込んだ。
先頭を行くのは、頬に火傷の痕を持つ、火傷権六。
その相棒は、顔を手拭いで隠した大男である。
二人の肩には、印判師・弥七の死体が、筵に巻かれて載っている。
その後ろから、寅吉。
お駒。
鶴松。
さらに、蒹葭堂の家から飛び出してきた岡田米山人が、筆を耳へ挟んだまま追っている。
「なんで絵師まで来るんや!」
寅吉が走りながら叫んだ。
「描いた顔が、ほんまに動くか見届けるためじゃ!」
「動いとるのは本人や!」
「絵より鼻が短い!」
「そこ、気にするとこか!」
道頓堀の芝居町は、人で煮えていた。
芝居茶屋の若い衆が客を呼び、役者の名を染め抜いた幟が風にはためき、饅頭屋、寿司屋、酒売り、煙草売り、草履直し、占い師、似顔絵描き、抜け荷の唐物を売る怪しい男が、道の両側で声を張り上げている。
芝居小屋の櫓には、太鼓が鳴る。
その太鼓を聞いて、客が走る。
客が走るので、掏摸も走る。
掏摸が走るので、財布を取られた男も走る。
何のために走っているのか、しまいには当人にもわからなくなる。
そこへ、死人を担いだ二人組が走り込んでも、誰も不思議には思わぬ。
「次の芝居の道具や」
「いや、心中物の役者やろ」
「役者にしては、えらい静かやな」
「死んだ役やからや」
人々は勝手に納得し、道を開けた。
大坂の人間は、わからぬものを、わからぬままにしておくのが苦手である。
たいてい、その場で適当な理屈をつける。
その理屈が合っているかどうかは、さほど大事ではない。
納得できれば、それでよい。
*
権六は、道頓堀川の南岸に並ぶ芝居小屋の一つへ飛び込んだ。
大芝居の角でも中でもない。
その脇にしがみつくように建てられた、小さな見世物小屋である。
表には、まだ糊の乾ききらぬ大看板が掛かっていた。
墨痕も鮮やかに、
新作大評判
御蔵空々千石噺
殿は夜逃げ、家老は切腹、米は一粒もござらぬ
と書いてある。
「空木藩やないか!」
寅吉が叫んだ。
「空木とは、どこにも書いてへん」
お駒が看板を睨んだ。
「書いてへんけど、空木や!」
「空木やな」
「なんで、もう芝居になっとるんや!」
「昨日から仕込んどったからやろ」
お駒は、看板の隅へ指を当てた。
紙には刷った日が書かれている。
昨日。
空木藩の船が遅れたという噂が、堂島へ広がる前の日である。
「噂が出る前に、噂の芝居を作っとったんや」
お駒の目が細くなった。
「誰かが初めから、噂を芝居にするつもりやった」
「芝居を作ってから、ほんまのことにしたんか」
「まだ、ほんまにはなってへん」
「堂島では、もうほんまみたいな値ぇしとるぞ」
「せやから芝居なんや。ほんまでないものを、ほんまに見せる」
芝居小屋の中から、太夫の声が響いた。
「米はなけれど証文あり、証文あれど米はなし――」
三味線が、べべん、と鳴る。
客が、どっと笑った。
*
寅吉たちが木戸を押し破ると、舞台の上では、ちょうど空木藩らしき藩の御家老が腹を切ろうとしていた。
「殿! もはや蔵には、鼠の糞よりほか、何もござりませぬ!」
「ならば、その鼠を年貢として取り立てよ!」
「鼠は、すでに江戸へ逃げました!」
客席が、どっと湧いた。
「それ、うちの藩のことや!」
「どこの藩も似たようなもんや!」
「鼠のほうが勘定が合う!」
客が口々に野次を飛ばす。
舞台の中央には、空の米俵が山と積まれていた。
役者が一俵を持ち上げると、軽すぎて頭の上まで飛び、そのまま後ろへひっくり返った。
また、客が笑う。
大坂の芝居は、舞台だけで作るものではない。
舞台の役者が半分。
客の野次が半分。
ときには、客のほうが役者より面白い。
そうなると、役者は腹を立てる。
腹を立てた役者を見て、客はもっと喜ぶ。
たいそう健全な関係である。
「権六は、どこや!」
寅吉が叫んだ。
「静かにせえ!」
客席から蜜柑の皮が飛んできた。
「いま、家老が腹切るとこや!」
「そっちの家老は偽物や! こっちは本物の死人追うてんねん!」
「死人なら、もう出とる!」
客が舞台を指した。
廻り舞台が、ごろごろと動いた。
空木藩の蔵の場面が裏へ回り、代わって、薄暗い墓場が現れた。
墓石。
枯れ柳。
青い人魂。
その真ん中に、一人の死人が横たわっている。
弥七であった。
「あ」
寅吉とお駒と鶴松が、同時に声を上げた。
権六たちは、弥七の死体を舞台の道具に混ぜてしまったのである。
弥七は、白い経帷子を着せられ、額に三角の紙を貼られていた。
死んでから、ずいぶん役者らしくなった。
死人の脇で、幽霊役の女形が恨めしげに手を垂らしている。
「この世に米がないのなら、あの世の年貢を取りに参ろうぞえ――」
そこで弥七の体が、ぴくりと動いた。
客席が、しん、と静まった。
もう一度、動いた。
実のところ、舞台の下にいる裏方が、弥七の着物へ糸をつけ、引っ張っただけである。
死人がむっくりと上体を起こした。
「おお!」
客が沸いた。
「よう出来た人形や!」
「生きとるみたいや!」
「ほんまに死んどるぞ!」
寅吉が叫んだ。
「役者がうまいからや!」
「役者やない!」
「役者でなかったら、なんで舞台におる!」
たしかに、もっともな疑問である。
*
「舞台止めえ!」
お駒が花道へ飛び乗った。
芝居小屋が、どよめいた。
「娘が出た!」
「新しい役者や!」
「算盤持っとるぞ!」
お駒は、ほんとうに算盤を持っていた。
肌身離さず持っているのである。
「芝居やない! この死人は、空木藩の偽の米切手を作った印判師や!」
客席が静まった。
ほんの一瞬だけ。
そのあと、先ほどより大きな拍手が起こった。
「ええ筋や!」
「娘、もっと言え!」
「親の仇は誰や!」
「算盤で殴れ!」
「ちゃう言うとるやろ!」
お駒が怒鳴った。
「ほんまの死人や!」
「ほんまらしく見せるのが芝居や!」
客の言うことにも、一理ある。
お駒は、生まれて初めて、自分の正しさが、まったく役に立たぬ場所へ来た。
帳場なら数字を出せば、皆が黙る。
だが、芝居小屋では、数字より面白い嘘のほうが強い。
「寅!」
「なんや!」
「権六を探し!」
「お前は!」
「この阿呆どもに、死人が死人やて、わからせる!」
「無理やと思うで!」
「やってから言い!」
寅吉と鶴松は、花道の下をくぐり、舞台裏へ駆け込んだ。
*
舞台裏というところは、舞台の表より、よほど芝居じみている。
姫君が褌一つで弁当を食い、悪代官が借金取りから逃げ、幽霊が鏡の前で白粉を塗り直している。
首を切られた役者が、次の場面では医者になり、さきほど死んだ家老が、裏では女房に叱られている。
人間というものが、役と着物を一枚剥げば、だいたい似たようなものになることが、よくわかる場所である。
「権六!」
寅吉は衣裳部屋を開けた。
姫がいた。
「ちゃう!」
次の部屋を開けた。
生首が二十ほど並んでいた。
「ぎゃっ!」
「張りぼてや」と鶴松。
「わかっとる!」
「叫んだやないか」
「びっくりしただけや!」
奈落へ下りる階段の前で、火傷権六の声が聞こえた。
「急げ! あの娘が帳面を見つける前に、始末せえ!」
寅吉と鶴松は顔を見合わせた。
「帳面やて」
「それを先に言えや」
二人が奈落へ駆け下りると、暗闇の中で、大勢の裏方が廻り舞台の心棒を押していた。
「押せ!」
「もっと押せ!」
「家老の腹切りから、難波村の場へ回すぞ!」
「難波村?」
寅吉が足を止めた。
次の瞬間、足元の床が動いた。
「うわっ!」
舞台全体が、ごろりと回る。
寅吉は米俵につかまり、鶴松は寅吉の帯につかまり、その寅吉の帯がほどけた。
「離せ!」
「離したら落ちる!」
「褌まで見えるやろ!」
「誰もお前の褌なんぞ見たない!」
ごろごろ。
ぐるぐる。
舞台が半周したところで、二人は裏から表へ押し出された。
目の前には満員の客。
舞台には、腰を抜かした寅吉と、帯を握った鶴松。
客が、一瞬黙り、それから盛大に笑った。
「どぶ鼠が二匹出た!」
「新しい道化や!」
「褌見せろ!」
「見せるか!」
寅吉が叫んだ。
そのとき、舞台袖を、権六が走った。
「あいつや!」
寅吉が追おうとすると、足元の板が、ぱかりと開いた。
並木正三という、二十余年前に死んだ芝居作者が考えた、迫りの穴である。
人を舞台の下からせり上げたり、逆に奈落へ沈めたりする、大層便利な仕掛けである。
芝居のためには便利だが、追っ手には、まことに迷惑である。
寅吉と鶴松は、二人そろって奈落へ落ちた。
*
一方、お駒は、客と口論しながらも、舞台袖に置かれた台本へ目を留めていた。
題は『御蔵空々千石噺』。
その台本の間に、一枚の紙が挟まっている。
役者の名。
衣裳代。
大道具代。
口上師への支払い。
刷り物代。
死人運び賃。
「死人運び賃……」
お駒の眉が上がった。
芝居の勘定書である。
しかも、その勘定は、すでに全部払われている。
小さな見世物小屋が、これほどの新作を一晩で仕立てるには、相当な前金が要る。
支払人の欄には、名がない。
ただ、朱で一文字、
鴻
と押してある。
例の、弥七の帯から出た、彫りかけの印と同じ字である。
「おい、娘」
背後から声をかけたのは、この小屋の座本であった。
腹の出た、目ばかり忙しい男である。
「勝手に帳面見るな。商売の秘密や」
「死人運びまで商売にしてるんか」
「わしは知らん」
「知らんのに、金は受け取ったんやな」
「金というものは、名前を名乗らんでも受け取れる」
「便利な商売や」
「芝居は、金を出す者が旦那や。どこの誰かは、客が知ることやない」
「ほな、誰がこの芝居を書いた」
「並木小三郎先生や」
「誰や、それ」
「並木正三先生の弟子の弟子の、そのまた飲み友達じゃ」
「ほとんど他人やないか」
「芝居の世界では、それを門流と言う」
そこへ、奥から、頭に鉢巻を巻いた小柄な男が現れた。
「わしが並木小三郎じゃ」
「この芝居、いつ頼まれた」
「三日前」
「三日前?」
空木藩の噂が広がる、さらに二日前である。
「誰に」
「火傷権六や。前金をどんと置いて、『空の蔵、偽の切手、家老の切腹を入れろ』と言うた」
「噂が出る前やのに、なんで空の蔵を知ってたんや」
「芝居作者が、ほんまか嘘かを気にしてどうする」
「気にせえ」
「ほんまの話だけ書いとったら、芝居が三日で終わる」
「三日もつんか」
「二日半や」
小三郎は胸を張った。
「それにな、娘。芝居は世間を映す鏡や」
「噂を先に作って、世間に撒いたら、鏡やのうて火付けや」
小三郎は、少し黙った。
「……それは、そうかもしれんな」
「納得するん早いな」
「筋の通った台詞には弱い」
*
奈落の奥で、寅吉は権六を追い詰めていた。
権六は、舞台道具の刀を振り回した。
「来るな!」
「それ、竹光やろ!」
「竹でも、目に入れば痛いぞ!」
「急に現実的やな!」
権六は刀を投げ、裏口へ駆けた。
寅吉も追う。
裏口を抜けると、道頓堀川の船着き場である。
権六は小舟へ飛び乗り、舟子へ銭を投げた。
「難波村や! 早う出せ!」
小舟が岸を離れる。
「待て!」
寅吉も飛び乗ろうとしたが、届かず、川へ落ちた。
どぶん。
堂島で水をかぶり、升屋へ泥足で上がり込み、今度は道頓堀川へ落ちる。
この丁稚は、どうも水に縁がある。
「寅!」
お駒が船着き場へ駆けてきた。
「泳げるか!」
「足つく!」
「ほな立て!」
寅吉が立つと、水は胸までしかなかった。
「最初から立っとったらええのに」
「深いと思うやろ!」
「思う前に確かめ!」
鶴松と米山人も追いついた。
米山人は、川の上を逃げる権六を、素早く紙へ描いた。
「描いてる場合か!」
「逃げる姿も、あとで要る!」
「何にや!」
「絵巻じゃ!」
「売る気やな!」
権六の舟は、道頓堀川を少し西へ進んだあと、南へ延びる細い堀へ入り、人家と蔵の間へ消えた。
だが、権六が船着き場へ落としていったものがある。
一枚の、役者用の鬘。
その裏に、小さな紙片が縫いつけられていた。
難波村外れ
竹の小屋
日暮れまでに残りを焼くこと
次は北
福島へ送る
お駒は紙を読んだ。
「難波村や」
「行くんか」と鶴松。
「行く」
「夕方になるで」
「死人を取られて、帳面まで燃やされて、手ぶらで帰ったら、小右衛門はんになんて言うんや」
鶴松の顔が青くなった。
「行こ。すぐ行こ」
升屋の丁稚は、死人より番頭を恐れる。
*
道頓堀を南へ外れると、街の顔は少しずつ変わる。
芝居小屋の櫓が背後へ遠ざかり、家並みの間に畑が見え始める。
難波村では、葱、蕪、大根が、芝居役者より行儀よく列を作って育っている。
牛が荷車を曳き、百姓が肥桶を担ぎ、町から出た糞尿が、今度は野菜になって町へ戻っていく。
大坂という街は、銭ばかり回しているのではない。
米も回す。
水も回す。
糞も回す。
人間が要らぬと言ったものまで、誰かが拾い、値をつけ、また人間の口へ戻してくる。
まことに、無駄のない街である。
もっとも、今その道を走っている寅吉の着物からは、道頓堀川の水が滴り、たいそう無駄に臭かった。
「近寄らんといて」
お駒が言った。
「川へ落ちたんやから、しゃあないやろ」
「川のせいやない。もとからや」
「ひどないか」
「事実や」
難波村の道には、町へ野菜を運ぶ者。
住吉へ詣る者。
四天王寺へ骨を納めに行く者。
諸国から流れてきた旅人。
どこへ行くとも決めず、日雇いの口を探す者。
竹細工を売る者。
猿を連れた見世物師。
鉦を叩く行者。
足を引きずる元侍。
赤子を背負って飴を売る女。
そうした者たちが、中心の大店では決して交わらぬような近さで、同じ土埃を吸っていた。
立派な暖簾も、蔵屋敷の白壁も、ここまで来れば薄くなる。
かわりに、空が広くなる。
西には、日の傾いた空の下、海へ続く低い土地が見えた。
東には、上町の台地が長く横たわり、その上に四天王寺の伽藍が浮かんでいる。
坂を上れば、寺と墓。
坂を下れば、畑と湿地。
その間を、熊野へ向かう道、住吉へ向かう道、堺へ向かう道が、何本もの古い縄のように南へ延びていた。
「大坂て、こんな広かったんやな」
鶴松が言った。
「升屋と堂島しか知らんのか」
「奉公人は、用のないとこへ行かん」
「今日は死人追う用ができて、よかったな」
「よくないわ」
*
今宮の社を横目に過ぎ、逢坂へ向かう道の手前で、竹藪が見えた。
その奥に、傾いた小屋が一つある。
「竹の小屋や」
寅吉が声を潜めた。
中から煙が出ている。
四人は駆け寄った。
戸を蹴破ると、むっとする朱と油と紙の匂いが鼻を突いた。
小屋の中には、版木。
印判。
芝居の台本。
藩の紋を染めた布。
米切手に似せた紙。
町奉行所の触書に似せた紙。
大名家の書状に似せた紙。
何から何まで、似せたものばかりである。
本物は、そこにいる四人と、鼻を刺す煙くらいのものだった。
火鉢の上で、帳面が燃え始めている。
「水!」
鶴松が叫んだ。
「ない!」
「寅、着物!」
「なんでや!」
「濡れとるやろ!」
三人がかりで寅吉の着物を剥ぎ、燃える帳面へかぶせた。
「わしまで褌になるんか!」
「芝居小屋で一回見せたんや。二回も一緒や」
「見せてへん!」
火は消えた。
帳面の半分は黒く焦げたが、半分は読める。
お駒が拾い上げる。
「……空木藩、切手千五百石」
頁をめくる。
「売り煽り、火傷権六。芝居、並木小三郎。印、弥七」
まためくる。
「買い集め……名前が焼けてる」
次の行。
「空木藩の切手、三割落ちより買い始め、五割落ちで買い切る」
「やっぱり、安うなった切手を買う奴がおるんや」
鶴松が言った。
「初めから、そのつもりや」とお駒。「偽物の切手を刷る。噂を撒く。芝居にする。懐徳堂に死人を置いて、学者に偽物やと言わせる。切手が紙屑みたいになったところを、誰かが全部拾う」
「けど、蔵がほんまに空なら、切手を買うても、米は出えへんぞ」
寅吉が言った。
「そこや」
お駒は帳面の下の行を指した。
そこには、短く、
現米、福島へ移す
北の舟入に隠す
と書かれている。
「米は、あるんや」
「空木藩の蔵には、ない」
「蔵から出して、別のところへ隠した」
「ほな、切手を底値で買い集めてから、米を戻したら……」
「紙屑が、また財産に戻る」
お駒は、焦げた帳面を握りしめた。
「誰かが、空木藩の信用をいったん殺して、安う買い取ってから、生き返らせるつもりや」
「死人まで使うてか」
「死人のほうが、口が堅いやろ」
小屋の奥で、何かが倒れる音がした。
寅吉たちは身構えた。
だが出てきたのは、人ではない。
大きな米俵であった。
俵の中から、ぱらぱらと米がこぼれた。
本物の米である。
寅吉は一粒拾い、口へ入れた。
「食うな!」
お駒が叫んだ。
「米かどうか、確かめたんや」
「見たらわかる!」
「わしは見るより食うほうが得意や」
その米俵には、空木藩の蔵印が焼きつけてあった。
ただし、その印の上から、別の印が墨で塗り潰されている。
舟問屋の印らしい。
波の上に、鷺が一羽。
「この印、見たことある」
鶴松が言った。
「どこのや」
「福島村の鷺屋や。升屋へ、北国の米を運んでくる舟問屋や」
「次は北、福島へ送る」
お駒は、権六が落とした紙片を思い出した。
「米は、ここを通って、福島へ運ばれたんや」
「なんで南の難波村から、わざわざ北へ」
寅吉が尋ねた。
「道を混ぜるためやろ。蔵屋敷から直接福島へ運んだら、誰かが見る。いったん芝居の道具や野菜の荷に混ぜて、町の南へ出してから、別の舟に積み替える」
「大坂じゅう使うて、米を隠しとるんか」
「大坂じゅう使うて、芝居しとるんや」
そのとき、小屋の外から、腹の鳴る音がした。
ぐう。
寅吉が振り返った。
「わしやないで」
「誰も聞いてへん」
「わしの腹より、ええ音やった」
竹藪の向こうから、一人の爺さんが現れた。
よれよれの木綿の着物。
日に焼けた皺だらけの顔。
年齢のわからぬ、澄んだ目。
本間宗久である。
――あるいは、本間宗久と名乗る、誰かである。
爺さんは、紙包みを一つ持っていた。
「坊。腹、減っとるな」
「また握り飯か」
「二度目は、銭を取る」
「いくらや」
「千両」
「高いわ!」
「前は、ただでやった。安いときに買わんからじゃ」
宗久は笑い、握り飯を寅吉へ放った。
寅吉は受け取り、今度は少しだけ噛んでから呑み込んだ。
「爺さん、知っとったんか。米が福島へ運ばれとること」
「知らん」
「嘘つけ」
「相場師は、知っとることまで、知らんと言う。知らんことは、もっと知らんと言う」
「何しに来たんや」
「芝居を見に来た」
宗久は、小屋の中を見回した。
偽の印。
偽の切手。
偽の触書。
芝居の台本。
そして、本物の米。
「よう出来た芝居じゃ」
「人が死んどるんやで」
「芝居は、死人が出てからが、いちばん客が入る」
お駒が宗久の前へ進み出た。
「あんた、この切手、買うたんか」
宗久は、お駒を見た。
「何をじゃ」
「空木藩の切手や。噂で値が落ちるのを知って、買い集めとるんと違うんか」
「買うた」
あっさりと答えた。
「どれくらい」
「少し」
「相場師の少しは、なんぼや」
「大名一人が、三日眠れんくらいじゃ」
「やっぱり、この騒ぎで儲けるつもりやないか!」
寅吉が叫んだ。
「儲けるつもりはある」
宗久は平然としている。
「じゃが、この芝居を書いたのは、わしではない」
「信じられるか」
「信じる必要はない。値を見い」
「値?」
「空木の切手は、今日、三割下げた。誰かが底で拾っておる。じゃが、拾う手が、二つある」
「二つ?」
「一つは、この芝居を仕組んだ者。もう一つは、わしじゃ」
宗久の目が、細くなった。
「わしが買うたせいで、仕組んだ者は、思うたほど集められておらぬ。いまごろ、たいそう腹を立てておるじゃろう」
「あんた、黒幕の邪魔をしとるんか」
「相場に、正義も邪魔もない。安いと思えば買う。ただ、それだけじゃ」
「そのせいで、誰かが助かるかもしれへんやろ」
「それは、あとから人が足す物語じゃ」
富永仲基が聞けば、喜びそうなことを言う。
宗久は、米俵の鷺の印を指で撫でた。
「福島へ行け」
「やっぱり知っとるやないか」
「いま、知った」
「どこ見て知った」
「米じゃ」
「米は喋らへんぞ」
「人が喋りすぎるから、米の声が聞こえんのじゃ」
宗久は、俵から落ちた米を一粒拾った。
「この米は、北から来た米じゃ。じゃが一度、潮気のある蔵へ入っとる。そのあと、川泥の匂いがついた。北の舟入へ、二度運ばれた米じゃ」
寅吉も米を嗅いだ。
「なんもわからん」
「坊は、噂を嗅げ。米は、わしが嗅ぐ」
「福島のどこや」
「鷺は、泥の深いところへ立つ」
「謎掛け、やめてくれへんか」
「謎にせんと、誰かに聞かれたとき、困るじゃろう」
宗久は、夕暮れの空を見た。
上町台地の寺々から、鐘の音が響いてくる。
四天王寺の方角で鳴った鐘が、難波村の畑を越え、町の屋根を越え、遠く水の多い北の低地へ流れていく。
「急げ」
宗久が言った。
「日が落ちれば、米も舟も動く。大坂では、昼に銭が働き、夜に荷が働く」
「爺さんは、来えへんのか」
「わしは、もう一度、道頓堀へ戻る」
「芝居見るんか」
「わしの役が、出ておらんか確かめる」
「出てたら、どうする」
「役者より、うまくやる」
宗久は笑い、竹藪の向こうへ消えた。
*
夕陽が、上町台地の向こうからではなく、西の海へ落ちていく。
坂の上の寺々が赤く染まり、難波村の畑に長い影が伸びる。
中心の町では、まだ芝居が続いている。
道頓堀では、偽物の空木藩が、今夜も二度、潰れる。
堂島では、本物の空木藩の米切手が、刻々と値を下げる。
中之島の蔵は空になり、米は大坂の南を回って、北の福島へ運ばれている。
偽の印を彫る者。
噂を撒く者。
芝居を書く者。
死体を置く者。
安くなった切手を買う者。
そして、それらを追いかける、九九も言えぬ丁稚と、算盤の化け物の娘。
誰が役者で、誰が客か。
誰が芝居を仕組み、誰がその芝居を横から乗っ取ろうとしているのか。
もはや、誰にも、はっきりとはわからない。
ただ一つ、確かなことがある。
空木藩の蔵から消えた米は、足が生えたわけではない。
人間が運んだ。
人間が運んだものなら、必ず、道に跡が残る。
その跡は、南から北へ。
難波の畑から町を横切り、水と泥の低地へ向かっている。
寅吉は濡れた着物を絞り、お駒は焦げた帳面を懐へ入れ、鶴松は升屋へ戻ったときの言い訳を考えながら、三人そろって北を向いた。
「福島まで、遠いな」
寅吉が言った。
「走ったら早い」
お駒が言った。
「また走るんか」
「足しか取り柄ないんやろ」
「腹も丈夫や」
「それは取り柄やない」
大坂の一日は、まだ終わらない。
町の南では寺の鐘が鳴り、町の中央では芝居の太鼓が鳴り、町の北では、米を積んだ舟が、人目を避けて動き始めていた。
空木藩の米を呑み込もうとしているのは、空の蔵ではない。
大坂の北に広がる、川と沼と泥の闇であった。
*
(第五話・了。第六話「梅田の泥、千石を呑む」へつづく)
◆この物語の史実と虚構について(語り手より)
道頓堀の南岸に芝居小屋が並び、歌舞伎、人形浄瑠璃、見世物その他、ありとあらゆる芸能が集まっていたことは、本当である。
並木正三という大坂の狂言作者が、迫りや廻り舞台など、後の劇場でも使われる大掛かりな舞台仕掛けを工夫したことも、本当である。ただし、彼はこの物語の二十余年前に没しているので、寅吉を奈落へ落とした責任を本人へ問うことはできない。
道頓堀の外へ出れば、難波村、今宮村などの田畑や村落が広がり、四天王寺、住吉、堺、熊野方面へ向かう道が、大坂三郷とその周縁を結んでいたことも、おおむね本当である。
『御蔵空々千石噺』、並木小三郎、火傷権六、米を隠した竹の小屋、空木藩の米を福島へ運ぶ鷺屋は、すべて拵えものである。
もっとも、まだ起きてもいない事件を芝居や読み物にして先に儲ける者がいたかどうかについては、さほど自信を持って「なかった」とは言い切れない。
人間は、三百年前から、そのくらいのことは考える。