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  • 2026年6月27日

堂島ばけもの算用

第三話 死人の足し算

堂島ばけもの算用

第三話 死人の足し算

 翌朝、空木藩は、朝飯前に一度潰れ、五ツ時には殿様が夜逃げし、昼までには御家老が腹を切った。

 もちろん、本物の空木藩は、まだ潰れておらぬ。

 殿様も夜逃げしておらぬし、御家老も、たぶん朝餉の焼き魚などを、何も知らずに食っておる。

 ただ、堂島の浜では、そういうことになったのである。

「空木の船が二日遅れとる」

 という話が、魚屋の口に入ると、

「船が難破した」

 となり、湯屋へ入るころには、

「蔵が空になった」

 となり、駕籠かきの肩に乗ると、

「殿様が逃げた」

 となり、茶屋で酒を一杯飲むうちに、

「家老が腹を切った」

 となった。

 噂というものは、足が速い。

 しかも、走っているうちに、勝手に太る。

 人間なら、朝から昼まで走れば、いくらか痩せるものだが、噂だけは、走れば走るほど、でっぷりと肥え太る。まことに羨ましい体質である。

 その肥え太った噂が、堂島を一周して鯰屋へ戻ってきたころ、空木藩の米切手は、昨日よりさらに値を下げていた。

                 *

「あかん、売る。いま売る。全部売る」

 鯰屋の主人・利兵衛は、空木藩の米切手を両腕いっぱいに抱え、店先を右へ左へ駆け回っていた。

「誰ぞ買わんか。安いで。昨日より、もっと安いで」

「安いから売るんやろが」

 帳場から、お駒が冷たく言った。

「お父っつぁん。昨日は、安いから買うた。今日は、安いから売る。明日は何をするつもりや」

「明日のことは、明日考える」

「そうやって今日まで来たんやな。よう店が残ったもんや」

 利兵衛は娘に痛いところを突かれ、米切手の束を抱いたまま、うう、と唸った。

「せやけどな、お駒。このまま持っとったら、紙屑になるかもしれへんやないか」

「もう紙や」

「そういう意味やない」

「ほな、黙ってそこ置き」

 お駒は、父親から米切手の束をひったくると、帳場の上へ広げた。

 一枚、二枚、三枚。

 額面を見、日付を見、蔵屋敷の印を見ていく。

 隣では、寅吉が、何の役にも立たぬ顔で眺めている。

「なあ、お駒はん」

「なんや」

「そんな紙、何枚見ても、おんなじやないか」

「おんなじやから見とるんや」

「おんなじもんを何枚見ても、おんなじやろ」

「寅。あんた、自分が昨日と今日で、おんなじ顔しとると思うか」

「思うけど」

「昨日より阿呆になっとる」

「なんやと」

「紙も人間も、よう見たら、同じ顔なんぞ一つもない」

 お駒は、十枚ほどを脇へ除けた。

「このへんの古い切手は、印の右肩がきれいや。ところが、こっちの新しい切手は、印の右肩が、ほんの少し欠けとる」

 寅吉は顔を近づけた。

「……どこがや」

「ここや」

「見えへん」

「見えん目は、閉じとき」

 お駒が指したところを、寅吉は片目をつぶって覗き込んだ。

 なるほど、丸い印の縁が、ごくわずかに欠けている。鼠が一口だけ囓ったような、小さな欠けである。

「これが、なんやねん」

「知らん。せやから調べる」

 そのとき、表から、聞き覚えのある生意気な声がした。

「鯰屋のどぶ鼠、おるか」

 升屋の丁稚、鶴松であった。

「誰がどぶ鼠や」

「おまはん以外に、どぶ鼠がおるか」

「おるわ。どぶにも鼠にも、ようけおる」

「鼠と張り合うな。小右衛門はんから言付けや」

 鶴松は、懐から一通の紙を出した。

 そこには、山片蟠桃の、細く堅い字で、こう書かれていた。

値を見るな。
日付と印を見よ。
死人を一人、勘定に足してみい。
懐徳堂の中井先生に見せること。

 お駒は二度読み、寅吉は一度読もうとして、途中で諦めた。

「死人を、足す?」

 利兵衛が首を傾げた。

「お父っつぁんは、ここで切手を見張っとき」

「お前ら、どこ行くんや」

「学問所」

「うちの店が潰れかけとるときに、学問なんぞして何になる」

 お駒は切手を風呂敷に包みながら答えた。

「学問せえへんかったから、潰れかけとるんや」

                 *

 懐徳堂というのは、大坂の町人が、自分らで銭を出し合って拵えた学問所である。

 武士が町人に学問を許してやったのではない。

 町人が、自分らに要る学問を、自分らで買うたのである。

 このあたりが、いかにも大坂らしい。

 玄関を入ると、商家の若旦那が『論語』を読み、その隣で薬種屋の手代が天文の話をし、さらにその隣では、浪人が昼飯代を誰に借りるか思案している。

 身分は違えど、腹が減るところだけは、皆、平等である。

「中井先生はん、いてはりますか」

 お駒が声をかけると、奥から、落ち着いた男が姿を現した。

 中井竹山である。

 懐徳堂の学主を務め、大坂じゅうの商人や武士から敬われる学者で、物腰は穏やかだが、目には人の腹の底まで見通すような光があった。

「升屋の小右衛門どのから、話は聞いております」

 竹山は二人を座敷へ通した。

「米切手を見せてください」

 お駒が風呂敷を開くと、障子の向こうから、別の声がした。

「米切手を見るのに、兄者一人では、目が上品すぎる」

 障子が開き、もう一人、痩せた男が入ってきた。

 竹山の弟、中井履軒である。

 兄の竹山が、人を安心させる顔をしているのに対し、こちらは、人をわざわざ不安にさせて楽しんでいるような顔をしている。

「これは、山片小右衛門が寄越した丁稚か」

 履軒は寅吉を見た。

「いえ、鯰屋の丁稚だす」

「ほう。見るからに鯰屋じゃ」

「どこ見たらわかるんや」

「口を開けたときの、知恵のなさ加減じゃ」

「会うてすぐ悪口言う学者があるか」

「ある。ここにおる」

「履軒」

 竹山が、弟をたしなめた。

「子供をからかうものではない」

「兄者は、子供には甘い。大人には、もっと甘いが」

「米切手を見なさい」

「はいはい」

 履軒は、お駒の前に広げられた切手を、一枚ずつ手に取った。

 日付を見る。

 紙を透かす。

 印の欠けを、爪の先でなぞる。

 やがて、ふん、と鼻を鳴らした。

「小右衛門の言うた死人とは、これか」

「ご存じなんですか」と、お駒。

「空木藩の蔵改役、榊原久兵衛。この男は、若いころ、ここへ通うておった」

 竹山が、奥の書棚から古い箱を取り出した。

 中には、何通もの書状が納められている。

 その一通を開くと、末尾に、空木藩蔵改役・榊原久兵衛の名と印があった。

 お駒は、米切手の印と、書状の印を並べた。

 どちらにも、右肩に、鼠が囓ったような小さな欠けがある。

「同じ印や」

「同じですな」と竹山。

「ほんで、この榊原はんは、いま、どこにいてはるんです」

 寅吉が尋ねた。

 履軒は、こともなげに答えた。

「墓の下じゃ」

「えっ」

「三年前に死んだ」

 寅吉は、もう一度、切手の日付を見た。

 新しいものは、今月。

 古くても、去年。

 どれも、榊原久兵衛が死んだあとの日付である。

「死人が、切手に印を押しとるんか」

「そういう勘定になるな」と履軒。

「そら、幽霊や」

「小右衛門に言うてみい。たいそう喜ぶぞ」

 お駒は、すでに算盤を出していた。

 新しい切手を日付順に並べ、額面を読み、ぱらぱらぱらと玉を弾く。

「榊原はんが死んだあと、この印で出た切手だけで……わかる限り、四千二百石」

「死人にしては、よく働く」と履軒。

「笑い事ではありません」と竹山。

「笑えるうちに笑うておかねば、あとで笑えんようになる」

 履軒は、古い書状と新しい切手を並べて、もう一度眺めた。

「字は、榊原のものではない。榊原は、もっと右へ傾く字を書いた。これは誰かが似せて書いたものじゃ。じゃが、印だけは本物に見える」

「ということは」と、お駒。「死んだ榊原はんの印を、誰かが持っとる」

「それも、空木藩の蔵屋敷の内側に出入りできる誰かがな」

 竹山が静かに言った。

 寅吉は、米切手の赤い印を見つめていた。

 赤い。

 妙に、赤い。

 その赤を見ているうちに、頭の奥で、今朝見たものが、ふっと浮かんだ。

「あ」

「なんや、寅」と、お駒。

「親指や」

「何の話や」

「けさ、浜で、『空木はもうあかん、早よ売れ』て触れ回っとった男がおったやろ。あいつの右の親指、真っ赤やった。血かと思うたけど、あれ、朱肉や」

 座敷の空気が変わった。

「どんな男でした」と竹山。

「背の低い、声のでかい男や。頬に古い火傷があって、空木の切手を一枚、ひらひらさせながら歩いとった。あいつ、噂を撒いとっただけやない。切手か、印か、どっちかを触っとる」

「顔を覚えとるか」と履軒。

「九九は忘れても、顔は忘れへん」

「世の中、何が役に立つかわからんな」

「九九も、そのうち役に立つわ」

 お駒が言った。

「そのうち、て、いつや」

「来世や」

 そのときである。

 表の方で、どさり、と、何か重いものが倒れる音がした。

 続いて、誰かが叫んだ。

「先生! 先生、来てください。人が倒れました!」

 一同が玄関へ走ると、懐徳堂の門の内側に、一人の男が倒れていた。

 空木藩の蔵屋敷に勤める者らしく、袖に藩の印がある。

 歳は四十ばかり。

 顔は青黒く、口の端から細い泡を吹いていた。

 外傷は見当たらぬ。

 だが、右手だけは、何かを絶対に放すまいとするように、固く握られている。

 お駒が、その指を一本ずつ開いた。

 中から出てきたのは、一枚の米切手であった。

 空木藩蔵屋敷。

 榊原久兵衛の、欠けた印。

 そして日付は――。

「……明日や」

 寅吉が言った。

 そこに書かれていたのは、まだ来てもいない、明日の日付であった。

 死んで三年になる役人の印で、明日発行されるはずの米切手を握った男が、今日、懐徳堂の門前で死んでいる。

 竹山は眉をひそめた。

 履軒は、さすがに笑わなかった。

 お駒は算盤を握りしめたまま、死体を見下ろしている。

 寅吉は、死人の手から落ちた米切手を眺めて、ぽつりと言った。

「死人が、もう一人、増えたな」

 この日の勘定に、米は一粒も足されなかった。

 ただ、死人だけが、一人、足された。

 しかも、帳面の上では、明日という日まで、先に足されていたのである。

                 *

(第三話・了。第四話へつづく)

◆この物語の史実と虚構について(語り手より)

懐徳堂が大坂町人の出資によって設けられ、商人・武士その他、身分を越えた者たちが学んだ学問所であったこと、中井竹山・履軒兄弟がその中心を担ったことは、本当である。

ただし、二人が空木藩の米切手を鑑定したこと、中井履軒が鯰屋の丁稚に会うなり悪口を浴びせたこと、三年前に死んだ蔵改役の印が米切手へ押されていたこと、明日の日付の切手を握った死人が懐徳堂の門で倒れたことは、今のところ、ことごとく怪しい。

とりわけ最後の死人については、語り手にも、まだ何者なのか、よくわかっていない。

わからぬが、死体というものは、出してしまえば、あとで誰かが始末をつけねばならぬ。

次の話では、医者を呼ぶことになる。