- 2026年2月22日
象の哲学——抽象・捨象・表象・現象・象徴・写像—— 象=抽象+捨象 象徴≒lim(捨象→∞)
象の哲学
——抽象・捨象・表象・現象・象徴・写像——
一つの漢字が開く認識論の地平
序 ——「象」という問い
日本語には不思議な習慣がある。哲学・認識・科学・芸術といった異なる領域で、まるで示し合わせたかのように同じ漢字が繰り返し姿を現す。その漢字とは「象」である。
抽象、捨象、表象、現象、象徴、写像。これらの言葉は、哲学・心理学・物理学・数学・言語学・芸術論といった互いに遠い領域に散らばっている。しかし、どれも「象」という文字を核に持つ。
これは偶然だろうか。それとも、これらの概念が本質的に同じ一つの操作の変奏であることを、漢字が無意識に告げているのだろうか。
本稿はその問いを追う試みである。数式的な変形を補助線として使いながら、「象」という一文字から人間の認識と表現の根本構造を素描してみたい。厳密な論証よりも、見晴らしのよい思想の風景を描くことを目指す。
一 象とは何か
「象」という漢字は、もともとゾウ(象)の形象から生まれた象形文字である。転じて「かたち」「すがた」「きざし」「現れ」を意味するようになった。英語のsign(記号)やform(形)、あるいはimage(像)に近い領域をカバーする、非常に広い概念語である。
重要なのは、象が「実体そのもの」ではなく、「実体が何らかの形で現れたもの」を指す点である。リンゴというものそのものではなく、リンゴの赤さ・丸さ・重さ・甘さ・落下性といった「現れ」の束が象である。
すると、ものそのものとは何か、という問いが自然に湧く。カントが「物自体(Ding an sich)」と呼んだもの、仏教が「諸法無我」として指し示したもの、そういった問いの地平がすでに「象」という概念の輪郭に潜んでいる。象は常に、それを超えた何かを暗示しながら現れる。
二 核心の等式——象 = 抽象 + 捨象
「抽象」は「象を抽く(ひく)」こと、「捨象」は「象を捨てる」こと、という語源の読み解きから、次の等式が浮かぶ。
象 = 抽象 + 捨象
これは単なる言葉遊びではない。認識論における根本的な構造を示している。ものの持つ多数の象(現れ)の束から、ある象を抽き出すとき、必ず残りの象が捨てられる。残ったものが「抽象」であり、消えたものが「捨象」である。
リンゴから「落下する」という象を抽けば、ニュートンの重力理論が始まる。「赤い」という象を抽けば色彩論が、「甘い」という象を抽けば化学的糖分析が始まる。同じリンゴから始まって、抽く象の違いによって全く異なる知の体系が生まれる。
ここに、知識の持つ不可避の限界と偏りが示されている。いかなる知も、何かを捨てることの代償として成立する。「客観的な全体像」という理想は、捨象ゼロという不可能を要請する。
等式の変形が開く問い
等式を変形することで、異なる哲学的問いへの入口が現れる。
抽象 = 象 - 捨象
「知ることは引き算である」——この変形が示す認識論は、知識を足し算として積み重ねるというイメージを根本から覆す。何かを知るとは、何かを削ぎ落として残ったものを見ることである。科学的認識は世界の豊かさから大部分を捨てることで成立する精密な貧困化である、とも言える。
捨象 = 象 - 抽象
「科学が捨てたもの」「言語が捨てたもの」「制度が捨てたもの」——捨象を主題にするとき、知識論は政治性を帯びる。何が捨てられたかを問うことは、誰が何を捨てることを決めたかを問うことである。ハラウェイが「知識は位置を持つ」と言ったのは、この捨象の不可避性と政治性への指摘である。
三 象の諸相——六つの顔
現象——抽象化される以前の生の象
フッサールの現象学(Phänomenologie)は、まさに「象が現れること」への注目から始まる。意識に直接与えられるもの、概念や理論によって媒介される以前の「生き生きとした経験」の記述を目指した。
現象とは象が抽象化される前の、まだ多数の象が混然一体として現れている状態である。これは「象 = 抽象 + 捨象」の等式が成立する直前の、操作以前の場所にある。
表象——捨てた象を別の形で回収しようとする試み
表象(Repräsentation、Vorstellung)は「象を再び表に出すこと」である。抽象化において捨象されたものを、別の形で——絵・言葉・身体・記憶として——呼び戻す操作である。
ここに根本的な逆説がある。表象は象を回収しようとするが、表象もまたある抽象化であり、必ず新たな捨象を伴う。「表象 + 捨象 = 元の象」という等式は成立しない。表象は常に不完全な回収であり、その不完全さが芸術・言語・記憶の永続的な運動を生む。
写像——象を別の空間へ移す
数学における写像(map, morphism)は、ある集合の要素を別の集合の要素へと対応させる操作である。構造を保ちながら象を別の空間へ移す——この操作は哲学的抽象化の最も精密な定式化である。
写像は「何を保ち、何を失うか」を明示する。全単射(bijection)なら情報は失われない。単射・全射・非単射では失われるものが変わる。数学は写像の性質を分類することで、抽象化の種類を精密に記述する道具を作り上げた。
言語・芸術・制度・科学はすべて、ある種の写像である。そしてすべての写像は、保たれるものと失われるものを同時に持つ。
象徴——捨象を極限まで進めた果て
象徴(シンボル)は抽象化の極限として考えることができる。捨象を無限に進めると何が残るか。ほとんど何の象も持たない、純粋な差異と関係性の痕跡——それが記号・言語・象徴である。
象徴 ≒ lim(捨象→∞)
アルファベット・数字・2進法という記号系は、ほぼ象を持たない純粋な差異の体系である。「A」という文字はいかなる象にも似ていない。ソシュールが「記号は差異から生まれる」と言ったとき、彼は捨象の極限を指していた。
老子の「大象無形」——大いなる象は形がない——という逆説も、同じ極限を別の方向から指し示している。捨象を徹底すれば、象そのものが消え去る。しかしその消え去った象が、最も広く、最も遠くまで伝わる。
四 なぜ抽象化は記号化へと向かうのか
抽象化の様式は記号化・言語化以外にも存在する。身体的・感覚的抽象化(職人の暗黙知・音楽の感動・色の質感)は言語なしに存在し、機能する。しかしこれらは広がりにくい。
記号化・象徴化が他の抽象化様式に対して圧倒的な優位を持つ理由は、主に四つある。
第一に、組み合わせ爆発。有限の記号の組み合わせから無限の表現が生成できる。
第二に、複製と伝達の容易さ。書くことで時間と空間を超えて知識が移動する。
第三に、操作可能性。記号は記号のまま変形・演算・否定・仮定法的操作ができる。反事実的思考は記号なしには困難である。
第四に、再帰性。記号は記号について語れる。言語は言語を対象にできる。この再帰性が、哲学・科学・数学という知のメタ構造を可能にする。
これらの理由から、人間の知識の累積的発展という観点では記号的抽象化が圧倒的に有利であり、他の抽象化様式は記号化に補助されるか、記号化できないものとして周縁に留まる傾向がある。
ただし一つの問いが残る。記号化した抽象化だけが歴史に残り、それ以外は消えていくとするなら、「記号化が優れているから残った」のか「残ったから優れて見える」のか。おそらくその両方が互いを強化しながら、記号化の優位が確立されてきたというのが正直なところである。
五 捨象の政治性——失われた象を問う
抽象化が常に捨象を伴うならば、「誰が何を捨てるかを決めるのか」という問いは避けられない。
法律という抽象化は、個々の事情・感情・関係性を捨象する。数値化という抽象化は、質感・固有性・文脈を捨象する。市場価格という抽象化は、労働の意味・喜び・苦痛を捨象する。いずれの捨象にも、価値判断が潜んでいる。
「客観的な科学」も例外ではない。何を測定対象とするか、何をノイズとして捨てるかの決定は、中立ではない。測定されない苦痛は政策に反映されない。数値化されない価値は経済合理性の外に置かれる。
批判的思考とは、支配的な抽象化が行った捨象を可視化する操作である、と言い換えることができる。隠された捨象を取り戻すことは、失われた象を問うことであり、それは常に政治的な行為でもある。
六 「知らない」と言えること——無知の知の認識論
「私は自分が知らないことを知っている」——ソクラテスのこの言葉は、断言を美徳とする文化では命がけの発言だった。しかし「象 = 抽象 + 捨象」という等式から見れば、これは単純な真実の表明である。
いかなる認識も捨象を伴う以上、自分が持っている抽象(知識)は、必ず失われた捨象を持つ。「知っている」とは「一部を抽いた」に過ぎず、「全体を把握した」ことではない。この構造を理解していれば、「知らない」という表明は弱さの告白ではなく、認識論的誠実さの表現である。
逆に「全てを知っている」「断言できる」という態度は、捨象の存在を無視した認識論的傲慢であり、ある種の知的欺瞞に近い。排中律的な二値論理——全ての命題は真か偽か——を存在論にまで適用するとき、「知らない」という第三の状態が消え、断言以外の選択肢が見えなくなる。
日本語が持つ「〜かもしれない」「〜のような気がします」「分かりません」という豊かな不確実性の表現インフラは、この意味で認識論的に成熟した言語的装置である。捨象の存在を文法が記憶しているとも言える。
七 象が消える場所——形式・数学・沈黙
捨象を極限まで進めると、象は消える。数学の形式的体系は象を持たない純粋な構造の学である。「グループ」「環」「体」という代数学の概念は、いかなる具体的な象も持たず、関係と操作だけを抽象している。
これは抽象化の究極であり、同時に最も豊かな汎用性を持つ。象を捨て尽くしたことで、あらゆる象を持つものに適用可能な構造が浮かび上がる。「大象無形」の逆説的な豊かさがここにある。
しかし同時に、象を捨て尽くした場所には言語化・記号化を根本的に拒むものも残る。ウィトゲンシュタインが「語り得ぬものについては沈黙しなければならない」と言ったとき、彼は捨象の彼方にあるもの——クオリア・身体的痛み・美の直接体験——を指していた。
しかし逆説的なことに、「語り得ぬものが存在する」という事実もまた、語ることによってしか示せない。記号化の限界もまた記号によってしか表現できない。象は消える場所においてさえ、その消え方を象で示すしかない。
結 ——一文字が開く地平
「象」という一文字は、思いのほか広い地平を持っている。
抽象・捨象・表象・現象・象徴・写像という一見ばらばらな概念群が、実は「象に対して何をするか」という一つの軸の上に整列する。残す・捨てる・再び出す・今ここで現れる・極限まで抽く・別の空間へ移す——これらは全て象への操作の変奏である。
漢字という文字体系がこの関係を一文字の共有によって可視化していることは、偶然以上の何かを感じさせる。西洋哲学がabstraction・representation・phenomenon・symbolを互いに独立した概念として発展させてきたのに対し、「象」という核を共有する日本語(あるいは漢語)の概念群は、これらが同じ根を持つことを静かに示している。
最後に、最も根本的な問いを置いておきたい。象は操作の前に先に存在するのか、それとも抽くことと捨てることの間に初めて生まれるのか。操作が対象を作るとすれば、象とは人間の認識行為が産み落とす産物である。そしてそうであるならば、この世界の「見え方」は常に、誰かの抽象と捨象の産物として現れていることになる。
「象」という文字は、認識の謙虚さと豊かさを同時に示している。私たちが見ているものは常に、抽かれた象と捨てられた象の間の、偶然の、しかし必然的な産物なのである。
後記
本稿は、「象 = 抽象 + 捨象」という等式の発見から始まる対話を出発点として書かれた。語源的な読み解きが哲学的洞察に直結するという経験は、言語それ自体が長い思考の堆積であることを改めて示している。漢字という文字体系に、まだ掘り出されていない哲学的鉱脈があるとすれば、「象」はその一つの露頭である。