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  • 2024年10月25日

とても分かりやすい実数の連続性の理解の仕方

数学の基礎

「実数の連続性」という考え方があります。
これは微分・積分、解析学の基礎になっているので高校や大学で習います。
教育に初等教育と高等教育というものがあるとすると日本の高校は高等学校とはいいながら初等教育を教えるところなので「実数は連続である」ということを刷り込もうとして大体それに成功します。
ところがそのせいかどうかは分かりませんが大学で習う「実数の連続性」の説明は普通の大学生にはとても難解に感じます。

難解な上に理解できずに終わることが多いと思います。
これはどんな教科書を使ってもあまり変わりがないようです。
ここでは実数の連続性について分かりやすく説明します。
数式もほとんど利用せず文章で理解できるようにします。

 

論理が大切

実数の連続性を理解するためにはそのための論理を理解することです。
論理とともにどのようなレトリックでそれを説明するのかが大切になります。
論理、弁証、論証、言説、文法、修辞どういう言い方がいいかは分かりませんが、実数が連続であることを分かりやすく理解するためにはそのための考え方を理解する必要があります。


考え方というよりはこの場合は「言い方」です。
同じことでも物は言いようで、上手いこと言えばすんなり理解できたり、言い方が悪いせいで理解できなかったりします。
逆にある種の言い方や言葉の使い方は考え方や思考にも影響を与えるというのが現代思想の一つの特徴でもあります。
実数の連続性を理解するためにもそのための言い方が大切なのですが数学の本にはあまりそういうことが書いてないものが多いように思われます。

 

実数の連続性を理解するための準備

まず重要なことは実数というものを連続でないとしても数学的に問題はないということです。
「実数が連続ではない」ということをルールにして別の数学体系を作ればいいだけです。
「実数が連続」ということは別に最初から決まっていることではありません。

人間が決めたルールです。
このルールを数学では「公理」といいます。
人間が実数が連続のように実数のルールを決めただけです。
あるいは別の言葉を使うと人間が実数というものが連続であるように実数を作っただけです。
実数が連続でないようにルールを設定してもその前提で別の数学を作ることができます。

 

なぜ実数が連続と決めたのか

人間が実数を連続と決めた、そういうルールを採択した背景には数学の歴史が関係していると思われます。
微分積分や解析学を作る過程で実数が連続であることが都合が良かったからです。
微分積分についてはニュートンやライプニッツが創始者とされています。
ただ紀元前のアルキメデスも同じようなことをすでにやっています。またニュートン自身は安易な無限大や無限小の使用には慎重だったと思われます。

創始者の次の世代の数学者が無限大や無限小を安易に扱うようになり、それに対する批判が現代数学を生むのが数学の歴史になります。

もしアルキメデスが無限大や無限小を安易に気楽に扱っていてそれが継承されていれば微分積分、解析学の元祖はアルキメデスとなっていたかもしれませんが、アルキメデスにせよニュートンにせよ実体がしれない無限大や無限小を使うのは避けるようにしていたようです。

 


 

デカルトと代数幾何学

座標幾何学の導入はデカルトです。
座標で見ると実数というのは数直線になります。
デカルトは哲学的にも物質を連続したものとして捉えていました。
座標だけでなく距離が定められる空間は連続性のイメージがあります。
このイメージというのは高校数学などで刷り込まれるものでもあります。


高校の微分・積分ではいいのですが大学以降の高等数学で連続を定めようとする時に高校の実数の連続性のイメージは邪魔になる場合があります。

 

連続でない実数というものも作れる

現代数学では全て人間の手が入っていて全てが人間が作るものです。
実数が連続であるというのなら実数が連続であるように人間が作ったからです。
同じように連続でない実数というものを作ってそれを前提に数学を構築することも可能です。


ただ現在の我々が高校や大学の教養で習うような数学では実数が連続であるということをルールとして構築されています。

 

実数の連続性は人間が実数に付け加えたルール

実数は必ずしも連続であるように作る必要はないですが実数が連続であることを前提として見ましょう。
数学ではこういうものを公理と言います。
「実数の連続性の公理」と言います。
実数が連続であることをルールとして宣言するものです。
これを実数のルールの一つとして他の実数の公理と合わせて実数というものを構築します。

 

実数の連続性のルールは色んな形をとる

まず実数の連続性を理解するにはそれが公理に過ぎないことを理解する必要があります。
色んな分野の数学の教科書には最初に簡単な論理学の法則について説明してありますが、これは本文で示すような実数の連続性の説明にはあまり役に立たないと思います。また数学書の一般的な傾向として無駄を省く、簡潔な表現を好む、特殊な記号や数式にまとめるなどがありますがこれもここでは邪魔です。

必要なのは序文で公理や現代数学の基本的な構造を言葉を尽くして説明して理解してもらうこと、そして実数を構成する公理を全て示すこと、そしてその公理を使って実数がどういうものかを具体的に説明したり、例示したり、応用したりして実数の公理から我々が普段使って親しんでいる実数をどのように導き出せるのかを示すことです。

 

実数の連続性の宣言

数学というのは色々誤解を生みやすい要素があります。
なんとなくぼんやりしていると実数の連続性というのは定理だと思ってしまいがちです。
実数の連続性は定理でもありますが、それ以上に大切なのは実数の連続性は公理だということです。
定理が公理と同じ形をしていれば証明は簡単です。

「なになにの公理によりこの定理が導かれる」「この定理はこの公理から自明である」みたいな1行で終わってしまいます。
これは簡潔なのでいい面ですが、公理と定理を同一視したりごちゃごちゃにして分けて考えるのを忘れるという短所があります。
実数の連続性というのは何かから導かれるものではなく公理として最初から宣言されているので最初から決まっていることです。
証明する必要はありません。

 


 

公理の形

問題なのは公理の形となぜそういう表現で公理を示しているかと、公理で何を言いたいかの要点です。
実数の連続性の公理で言いたいこと、その連続性の公理を使えば「それは〇〇という場合があるから連続とは言えないのではないか」とか「△△と考えれば反証になるからそれは連続性の公理とは言えない」といった類の反論を完封することができる、という形に公理を作り上げることです。

 

集合論と実数論

数学の基礎は集合論です。
実数もそうで実数を作るということは集合の元に実数とするためのルールを設定していくということになります。
実数を集合論の観点から見ればここの実数は元ということになります。
「実数には順序がある」これも実数のルールの1つです。


しかし集合の元には順序がある、というのは必ずしも言えません。
ですから元から実数を作るために「全ての元には順序関係がある」というルールを設定することになります。
もちろんこのルールだけではこの集合の元が実数になることはないのでもっと別のルールも付け加えていく必要があります。

 

数の分野は誤解を与えやすいことばかり

実数を元と見るのは大変抽象的な見方です。
他方で実数から見れば元を実数とするためには具体的な肉付けが必要です。
歴史的な経緯からかどうかは分かりませんが実数、あるいは数の分野は抽象的に見るためには邪魔になるものや誤解を与える言葉や概念に満ちています。


例えば「実数」「自然数」「収束」「極限」「上限」「下限」などです。
現代数学は自然科学と違うので自然というものは必要ありません。
現代数学は別に自然を研究しているわけではありません。
これは論理学や現代哲学も同じです。
共通して研究するのは人間の思考、思弁、考え方、言い方、言説、といったものです。
自然というものが対象として実在しようと実在しまいと存在するのが現代数学です。
「実数」という言葉の「実」も誤解を与えます。
昔数学の先生が「虚数という言葉は誤解を与えるから言葉としておかしい」みたいなことを言っているのを聞いたか読んだ気がしますが、それは「実数」も同じです。
数が実在しようと実在しまいと存在するのが現代数学です。
収束の誤解を与えやすいところは元の列が何かの減に収束する時、または何かの数列が何かの数に収束する時、その元の集合、あるいはその数列の集合にその収束先の元や数が含まれるかが曖昧に教えられるところです。


上限と下限、最小上界と最大下界ということですが、同時に上元と下元という言葉も作って使い分けたらいいのではないかと思ったりします。
距離空間や空間も連続の公理を考える際に捨象しにくいものになります。


我々は無意識にガリレオ、デカルト、ニュートン的空間、距離空間を考えてしまっており、集合とか弦とかいう場合にも例えば復路という空間の中にバラバラに置かれている元みたいなイメージで集合を考え易いです。
数直線も同様で我々は無意識に実数というものを数直線上の点として考えてしまっています。
こういう古い数学概念が連続性の公理を考える際に邪魔になる場合があります。

 

弁論で連続を示す

有罪に反証したいなら無罪の証拠を出します。
無罪に反論したいなら有罪の証拠を出します。


基本的に弁論、弁証と論理、論証ということが議論の際には大切になります。
連続ということに反論したいなら連続でないという事例を出します。
連続でないと言うことに反論したいなら連続であるという証拠を出します。
「実数の連続性」と言うのは実数論の公理です。
ですから実数の連続性を肯定するのであればそのまま何もする必要がありません。
しかし実数の連続性という土俵の上で実数は連続でないということを言いたいのであれば、反証、反論する材料、議論に勝つための言説が必要になります。
実数の連続性を肯定する側からすれば何もしなくても実数は連続ということで何もする必要はありません。
しかし実数の連続性をルール化した世界で実数の連続性に異を唱える議論をふっかけてくるのであれば、誠実にそれに対する反論をする必要があります。


実数の連続性の公理は色んな形をしています。
しかし大きな目で見ると全て実数の連続性に異議を申し立てる証拠を示している、と主張してくる人に対してその主張の内容に反論するような形をとっています。

 

「ない」という反証に「ある」ことを示す

実数の連続性の公理は「ない」という主張に対して「ある」ことを示す形をとっています。
連続でないならばない部分が必要です。
その元とその元の間、あるいはその集合とその元の間、あるいはある集合とある集合の間には在ったら連続になるはずの元がないので連続にならない、というのが基本的な反証の構造になります。
連続性の公理はそこに「反論者がいうようにないということはなくそこにはきちんと元が存在している」というロジックを取ります。
「隙間」とか「間」とか「間隙」とかいう言葉は無意識に連続性の公理以上のより具体的な集合、より色々なルールを付加して集合を無意識に意識しているので厳密な論理や弁償では使うのに相応しくありません。
空間とか距離という言葉も本当は用意や準備をした上でないと使うべきではないでしょう。
連続性の公理を理解する上でなんとなく数直線のようなものを思い浮かべてしまって邪魔になります。
数直線は実数のイメージの具現化とも言えるもので色んなルールを含んでいて議論が逸れてしまう場合があります。

 

連続性の公理の形

デデキント切断を考えてみましょう。
デデキントの公理と言ってもいいでしょう。
これは集合を2つに分けた場合の間の元の存在を保証する公理です。
ですから存在することを言うための公理です。
ワイエルシュトラウスの公理をみてみましょう。
上に有界な集合には上限が存在する。
これも存在証明です。
集合の中の部分集合とその上界の間に元が存在しないところがあるのではないかという意見への反論です。

「有界な集合の単調増加する数列は収束する」これも存在証明です。
ちょっと注意が必要なのは点列が数であれ元であれ収束すると言う場合には必ずその収束点の数や元は点列の集合に含まれると言うことです。


ボルツァーノワイエルシュトラウスの定理では有界な点列は収束する部分列を持つと言うものですがこれも収束する点は点列の集合に必ず含まれています。
区間収縮法では閉集合が収縮していく先には必ず元が存在すると言うものです。
コーシー列やカントールの公理も数列が収束して収束先には元が存在すると言うものです。
ついでにアルキメデスの公理というものは無限大や無限小の安易な仕様を禁じるものです。
lim 1/n(n→∞)→ 0、lim n (n→∞)→ ∞ みたいな式は見たことがあると思います。
では{1/1, 1/2, 1/3, 1/4,・・・,1/n,・・・}みたいな集合は0に収束するでしょうか?
これは収束をどう定義するかによって変わります。
この集合には0は含まれないため私が先ほどした収束の定義では収束しない点列になります。
でもそうでなく0にいくらでも近づくのでこういう場合も収束として良い、というのであれば収束になるでしょう。

 

安易な無限の使用の禁止

実数の連続性とちょっと違いますが関数の連続性でイプシロン・デルタ論法というのを覚えている人もいると思います。
この関数の連続性を示すための論理の形式も無限を使わないものでした。
どれだけ小さいイプシロンでも、ある条件を満たすデルタが必ず存在する、というものでした。
どれだけ小さいといってもこれに「無限小」なる概念を使うことは許されていません。
人でもコンピュータでもいいですがそれらが提案できる、あるいは提示できる限り最小の数字よりも小さな有限の数字が存在するというものです。
人間にせよ、コンピュータにせよ無限小という概念の使用は、実数の議論の場合には禁止です。
すごい小さいものを提示してもそれより小さいものを示して見せようというのが実数の論理になります。
1=0.9999999・・・・みたいなことを書いたりしているのを見たことがあるかもしれません。
これを正当化する様な論理体系を持った数学ではこれでいいのかもしれませんが実数の議論ではなしです。
我々にせよコンピュータにせよ提示できるのはどんなに多くても有限個の9です。
無限個の9を表示できるテクノロジーなりなんなりは我々は持っていません。

 
ただし数学の体系によってこれを認める場合があることはあります。
例えば∞=-∞みたいなことを認めると大変便利になる場合があります。
これを完備化の問題と言います。
実数の連続性も実数の完備性というのが正しいのかもしれませんが歴史的な経緯から実数の連続性ということが普通でしょう。

 
話を戻すと9を8個使って、0.99999999という数字を人間やコンピュータが示すことはできるでしょう。
実数の連続性に反対する人がいて9を13個使って0.9999999999999の方が1に近いので9を8個使っった0.99999999と1の間には隙間があるので連続でないと主張してくるとするとします。
それに対して我々は9を16個使った0.9999999999999999というもっと1に近い数字を示せるぞと言い返します。
それに対して相手は1にもっと近い数字を提示してくるかもしれませんが有限の値しか示せないので我々やコンピュータは必ず相手に反論することができます。
それは存在を具体的に示すことによってです。
 

無限、無限大、無限小の欠点は存在を具体的に示せないところです。
ですのでアルキメデスは使用しませんでしたし、ニュートンは使用に慎重でした。
まあこれはアルキメデスがどんなに大天才と言っても時代の限界みたいなものがあってゼノンの「歩いている亀には追い付けない」「飛んでいる矢は止まっている」というパラドックスとして同時代の限界として示されてもいます。
あるいはデデキントのちょっと前の時期にはカントールがクロネッカーに反論されて反拍しきれず精神疾患を発症したりしています。

 


 

まとめ:弁の立つことの大切さ

論理とかいう言葉に負けたせいか最近使われることが少なくなったかもしれない言葉に「弁」がつく言葉があります。
論理がロゴスと訳されたせいで弁論家≒ソフィストを連想させる弁は嫌われたのかもしれませんし、ヘーゲルの真似をしたマルクスが弁証法を地に落としたので忌避される様になったのかもしれません。
しかし弁のつく言葉、弁論、弁証、思弁などは大切な言葉です。
ロゴスがプラトン学派のせいで無限大の形而上学のイメージを帯びたのに対して、弁は人間の限界とそれを乗り越える方法を提示してくれます。


一昔前はデジタルはアナログを超えられないみたいな言説は普通でしたが今では逆にアナログはデジタルを超えられないほどの勢いでデジタル隆盛です。

ある意味無限を限定なく扱えると思っているのはお花畑の観念論とも言えますし、限界を自覚しつつ現実を見て一歩一歩積み重ねて進んできた道が正道になっているのが数学だけでなく人類の最先端の分野で見られることに注目して行きたいものです。