- 2026年2月16日
最初から「正義」があったわけではない
——「後付けの理屈」に気づけば、世界はもっとラクになる
最初から「正義」があったわけではない
——「後付けの理屈」に気づけば、世界はもっとラクになる
現代社会は息苦しい。「これは正義か?」「あれは悪か?」という踏み絵を、毎日踏まされている気がしませんか? でも、安心してください。現代哲学や複雑系科学の視点に立てば、その悩み自体が**「順序の間違い」**であることに気づきます。
私たちは「正義と悪が戦っている」と思いがちですが、実際はそうではありません。 「カオス(複雑な現象)」が先にあり、人間が後から「正義シール」と「悪シール」を貼って整理しているだけなのです。
この視点の転換を、3つのステップで体感してみましょう。
ステップ1:庭の「雑草」は存在しない
まずは一番身近な例から。 あなたは庭の草むしりをしていて、「憎き雑草め!」と思うかもしれません。 しかし、植物図鑑を開いてみてください。「雑草」という名前の植物は一つも載っていません。
- 本来の姿(カオス・複雑): そこには、タンポポ、オオバコ、スズメノカタビラといった、多種多様な植物がただ「生えている」だけです。彼らに悪意はありません。
- 人間の都合(視点の固定): ここで人間が、「ここは芝生の庭にしたい(秩序)」という勝手な線を引きます。
- 後付けのレッテル(単純化): すると、その線からはみ出した植物たちに、突然「雑草(悪)」というラベルが貼られます。
もし明日、あなたが「野草ガーデンを作りたい」と視点を変えれば、昨日までゴミ袋に詰め込んでいた雑草は、突然「貴重な緑(正義)」に変わります。 対象(植物)は一切変化していません。変わったのは、あなたの「都合」と「枠組み」だけです。
正義とは、最初からそこにあるものではなく、**「人間の都合が生み出した後付けの機能」**に過ぎないのです。
ステップ2:歴史上の「英雄」は元犯罪者?
次は歴史に目を向けてみましょう。 私たちは「武士道」や「騎士道」を美しい正義だと教わります。しかし、その起源を辿るとどうでしょうか?
- 本来の姿(カオス・暴力): かつて、重税から逃れたり、土地を不法占拠したりする武装集団がいました。彼らは当時の法律(律令)からすれば、完全な「犯罪者(悪)」であり「反乱分子(ノイズ)」でした。
- 力関係の定着(複雑化→安定): 彼らが力をつけ、既得権益を確立し、政府を倒して自分たちが支配者になりました。
- 後付けの神話化(正当化): 勝った彼らは、自分たちの出自の「汚さ」を隠すために、後から「武士道」というきれいな理屈を発明しました。「我々は最初から正義の守護者だったのだ」と。
これが歴史の真実です。 「正義が勝つ」のではありません。「勝ったものが、後から自分を正義と名乗る」のです。 今、私たちがニュースで「悪」だと感じている何かも、100年後には「新しい時代のスタンダード」になっているかもしれません。
ステップ3:エプスタイン問題と「社会の下半身」
最後に、現代社会のドロドロした問題(汚職、性スキャンダル、癒着)について。 これらを「絶対的な悪」として断罪するのは簡単ですが、もう一段深い視点で見てみましょう。
- 本来の姿(カオス・エネルギー): 人間社会には、金銭欲、性欲、支配欲といった巨大なエネルギーが渦巻いています。これはきれいごとでは処理しきれない「複雑な奔流」です。
- 配管としての機能(必要性): 表向きのルール(法律・倫理)だけでこの奔流を堰き止めると、社会は爆発してしまいます。だから、裏側でガス抜きをするための「抜け道」や「調整弁」が自然発生します。
- 露見と断罪(単純化): それがたまたま表に出たとき、私たちはそれを「不祥事(悪)」と呼びます。
しかし、もしその「悪」がなければ、もっと巨大な戦争や暴動が起きていたかもしれません。 「汚れ」に見えるものは、実は「複雑すぎる社会システム」を維持するために、必然的に生じた「副産物」や「潤滑油」かもしれないのです。
結論:視点を変えれば、世界は「ただの現象」になる
いかがでしょうか。 「正義 vs 悪」というメガネをかけていると、世界は許せないことだらけに見えます。 しかし、**「カオス(複雑) vs 単純化(秩序)」**というメガネにかけ替えると、景色は一変します。
- 「あの人は悪人だ」ではなく、「あの人は今の社会の枠組みからはみ出しているだけだ(雑草と同じ)」
- 「これは許せない不正だ」ではなく、「システムが複雑化した結果、裏側に澱(おり)が溜まったんだな(歴史と同じ)」
問題は、問題とするから問題になる。 対象(カオス)は常に変化し、うごめいています。それを「きれい」「きたない」とジャッジしているのは、いつだって「今の自分の視点」や「今の社会の都合」に過ぎません。
この「後付けの理屈」のメカニズムさえ分かってしまえば、ポリコレの嵐も、SNSの炎上も、ただの**「場所取り合戦(椅子取りゲーム)」**に見えてきませんか? それこそが、現代哲学が私たちにくれる、最強のメンタル防具なのです。
「正義」疲れの処方箋:なぜ私たちは「きれいごと」で窒息しかけているのか?
——現代哲学が教える「カオス・ファースト」の生存戦略
はじめに:正義という名の「アレルギー」
ニュースを見れば誰かの不倫、失言、過去のいじめ、あるいは「不適切な表現」。 SNSでは日々、新しい「正義」が発明され、昨日までOKだったものが今日はNGになり、誰かが断罪されています。
「息苦しい」「もう何も喋れない」 そう感じるのは、あなたが悪いからではありません。社会全体が**「潔癖症(オート・イミューン・ディジーズ:自己免疫疾患)」**を起こしているからです。
この閉塞感を突破する鍵は、「もっと正しい正義」を探すことではありません。 「正義(きれい)」と「悪(きたない)」という色眼鏡そのものを外す、「脱・正義」の哲学にあります。
1. 世界はもともと「カオス(混沌)」である
私たちは無意識に、「世界は本来きれいなもので、そこに悪人がゴミ(汚れ)を撒き散らしている」と考えがちです。 しかし、現代哲学や複雑系科学の視点は真逆です。
「世界はもともと、意味不明でドロドロしたエネルギーの塊(カオス)である」
これがスタート地点です。 そこには善も悪も、きれいも汚いもありません。ただ、圧倒的な「複雑さ」があるだけです。
「汚れ」とは「場所を間違えたもの」に過ぎない
人類学者のメアリー・ダグラスは言いました。 「汚れとは、絶対的な悪ではない。場所をわきまえない物質のことだ」
- お皿の上の料理 = 「きれい(食事)」
- ワイシャツについた料理 = 「汚い(シミ)」
物質(料理)は何も変わっていません。「枠(秩序)」からはみ出した瞬間、それは「汚れ」と呼ばれ、排除の対象になるのです。 つまり、私たちが「秩序」という線を引いた瞬間に、自動的に「汚れ」が爆誕するのです。
2. 正義は「後出しジャンケン」である
ニーチェやフーコーといった哲学者たちが暴いたのは、**「正義は常に事後的に捏造される」**という事実です。
歴史を見てください。 「脱税」のような行為から荘園が生まれ、それが既得権益化して「貴族の正当な権利」になりました。 「裏社会の力」や「性的な欲望」が政治を動かし、後から「外交的勝利」というラベルが貼られました。
手順は常にこうです:
- カオスな生存競争(パワーゲーム)がある。
- 誰かが勝ち残る。
- 勝った側が、自分たちの状態を「正義(きれい)」と定義し、負けた側や都合の悪い部分を「悪(きたない)」と定義する。
私たちはこの「後付けの理屈」を「最初からあった真理」だと勘違いしているだけなのです。 そう考えると、現代のポリコレやコンプライアンスも、「今の社会の勝者が、自分たちの都合で引き直した新しい線」に過ぎないことが分かります。
3. 「全自動洗浄」社会の落とし穴
現代社会の最大の問題は、テクノロジーと道徳を使って、「カオス(汚い部分)」を完全に消滅させようとしている点です。
しかし、社会システムの配管(裏経済、本音、性、暴力装置)を「汚いから」とコンクリートで埋めてしまったらどうなるでしょうか? 排水口のない家がどうなるか、想像に難くありません。 逆流した汚水(抑圧された欲望や不満)は、やがて床下を腐らせ、家ごと倒壊させます。
エプスタイン問題のような「巨大な闇」や、終わらない紛争は、「きれいごと(表の秩序)」だけで世界を回そうとした結果、処理しきれなかった「カオス」が噴出した現象です。 「問題」なのではなく、システムが必然的に排出した「排泄物」なのです。
4. 「脱・正義」のすすめ:問題を「問題」としない技術
では、どうすればいいのでしょうか? 右派も左派も、「私の正義こそが絶対だ!」と線を引こうとするから衝突します。
ここで必要なのが、**仏教的、あるいはポスト構造主義的な「メタ認知」**です。
- 「カオス・ファースト」を認める 「世界はどうせ複雑で割り切れないものだ」と腹を括る。清濁併せ呑む度量を持つ。
- 線引きは「仮のルール」だと知る 「今はここを『正義』としておくと都合がいいから、そうしているだけ」というドライな感覚を持つ。
- 「問題」を実体化しない 「あいつは悪だ!」と騒ぐ前に、「おっと、私の引いた線からはみ出したものを、私が『悪』と呼んでいるだけだな」と気づく。
「問題は、問題とするから問題になる」 これは逃げではありません。 「雑草」という植物が存在しないように(人間が邪魔だと思った草を雑草と呼ぶだけ)、「社会問題」の多くも、私たちが過剰に潔癖になったせいで「問題化」しているだけかもしれないのです。
おわりに:カオスと遊ぶ「強さ」を
もしあなたが今、正義の押し付け合いに疲れているなら、一度「正義」というメガネを外してみてください。
そこにあるのは、善でも悪でもない、ただの「人間たちの営み(カオス)」です。 汚いものも、理不尽なものも、すべては世界を構成する「複雑さ」の一部であり、時としてそれは新しい文化やエネルギーの源泉(堆肥)にもなります。
「きれい」なだけの部屋は、病院の手術室のように無菌ですが、そこには生活も生命もありません。 少しばかり散らかったカオスの中で、適当に(テキトーに)バランスを取りながら生きていく。 その「いい加減さ」こそが、現代哲学が私たちに提示する、最も知的な生存戦略なのです。