- 2025年12月13日
世の中や世間を知るための左翼、共産主義、社会主義、リベラル入門
世の中や世間を知るための左翼、共産主義、社会主義、リベラル入門
・正義と真理
社会主義や共産主義は真理で正義でした。
その状況は100年くらいは続いていたと思われます。
これは立場に関係なく社会的な広いコンセンサスだったと言えるかもしれません。
「社会主義は正義」というのは文春で長い間エッセイを連載し続けていたエッセイストの山本夏彦が口癖のように繰り返し書いていた言葉です。
まさにその通りだと思います。
というわけで社会主義なり共産主義なり左翼なりを知るのはいろいろ勉強や教養になりますし役にも立ちます。
・共産主義が分からないと実は世の中分からない
誤解を恐れず言えば共産主義とか左翼とか言われるものが分からないと世の中分かりません。
これはある程度聖書やキリスト教やイスラム教やユダヤ教の知識と言わないまでもイメージがついてないと世の中がイメージしにくいのと一緒です。
これらの心理と正義をつかさどる宗教と同じように分かるのは難しいのでイメージだけでもしておければいいと思います。
何かわからない時にここで解説する知識やイメージがあれば合点がいく時もあると思います。
共産党やら左翼やら社会党やらリベラル系の関係者すらよく分かってない人が多いのではないでしょうか。
あまりに難しいという以前にややこしいし人文科学的というか数学みたいにすっきり筋が通っているわけでもなく矛盾だらけだったり人間の感情や欲望が論旨に影響したり政治的な都合が働いたりしてカオスみたいなところがあり、知識を得るのは簡単ですがすっきり生理はできません。
まさに思考の分派とか競争を繰り返し続けていくような感じで頭の中に複数に複数の人がいるような処理の仕方が必要になり厄介なことこの上ないです。
これは日本の70年前での新左翼運動もそうですし中国の共産党がどんどん肥大化していっているのもそうですしポリコレがどんどん増殖していくのも一緒です。
非常に全容を知るのも理論化するのも大変なのですがもともと左翼系の指導者たちは頭がいいというか学歴エリートも多いのでだからこそ競争とか論争が活発ですし勝ち残るためにマウントも取らなくてはいけなくてそれがまた思考と感情や意志や欲求を切り離すということを阻んだりして一見して裏も表もある海千山千のきれいごとばかりも言っていられない理想主義と現実主義を使い分ける政治的な、ステートマンというよりは政治屋的なポリティシャン的な感じになってしまいます。
というわけでなるべく優しく解説してみます。
・人間は平等が一番大切?
近代の理念は啓蒙思想や市民革命、フランス革命などの「自由、平等、博愛、人権、(愛国)」などでしょう。
「人間の平等」振り返ってみれば一番のキーポイントだったかもしれません。
1つの方向性は身分制度の撤廃などです。
また経済的格差をなくす方向にふるのもありでしょう。
平等は時に個人主義や自由とは対立的になります。
集団主義的になります。
共産主義を英語では「communism」と書きますが共産主義と訳すのではなく直訳して集団主義の方がいいかもしれません。
とりあえず平等の目標はなんとなくでもあり明確でもありと設定はされています。
人間の最終ゴールは階級がなくなるので共産党も非共産党員のプロレタリアートもなくなった状態です。
ここは揺るぎません。
ですから旧ソ連や現在の中国のような共産主義体制はまだ革命というか社会変革の道半ばで真の革命が達成されていない状態です。
これは中国も旧ソ連も認めるところでした。
しかしこう言い切ってしまっていいのかわからないのが数学や理系のようにすっきりいかないところです。
ただ目標ははっきりしているという事は多分共産主義やら社会主義やら左翼をきちんと理解するのに大切ですし、ここだけがぶれない点ですのである程度まとまった思考や議論をしたい場合には覚えておくべきポイントだと思います。
ここで2つ問題があります。
・1つ目の問題歴史の終着点階級のない平等な社会の具体性がない
1つ目の問題はこの歴史の最終段階である平等の状態に具体性がないことです。
それがどんなものかむにゃむにゃした感じにしか分かりません。
無政府主義の研究がそれだったのかもしれませんがどちらかというの最終段階が実際にどのようなものかよりかは最終状態の具体性がなくてもそこに至る方向に思考も行動もほとんどのリソースを注いできたと見るのが分かりやすいでしょう。
最後の階級も国家も共産党もない状態は歴史的に決まっているのを受け入れているというのか、それはあまり議論せず結論ありきでやってきた面があります。
一応マルクスが出した例は原始共産制という例で原始時代には人間は生産手段も共有していて平等だったというものでした。
ただ現代は原始時代ではないので原始共産制とは違う生産手段も共有して階級もない人間の平等の別の具体的な方法を模索しないといけません。
あるいは原始時代に戻してしまうかです。
・2つ目の問題:最終的な平等な社会があってもそこに至る方法がハッキリしない
2つ目の問題は歴史的に定まっている人間が平等になっている社会を達成する具体的な方法がハッキリしないことです。
はっきりしないというかある程度マルクスは具体的な方法を提示しました。
ただそれでもあいまいです。
あいまいですし具体性が足りません。
マルクスは思想家ですが思想だけでは世の中どもならず実装させて機能させるには実務と実務家が大切です。
まず成熟した資本主義社会の中で革命を起こすにはまずは革命の前衛になる革命を指導する前衛党が必要だと考えて、のちにこれは共産党と呼ばれるようになりました。
ここがプロレタリアートという大衆を率いて革命を実践します。
革命には暴力が伴いますがこれは歴史な節理のようなものです。
最近は暴力なら何でもダメ、テロリズムなら何でもダメ見たいな感じになっていますがそれは比較的最近の事です。
議会を通じて穏便に人類の最終到達地点である平等で階級がなく生産手段も共有という考え方もありますがこれは前衛党としての在り方ではないという事でメジャーにはならないというか異端視されました。
やはり戦争とか犯罪を防ぐために防衛とか治安を担うために強制力としての暴力装置である国家と同じく体制を変えるには暴力的に体制を破壊する革命を行う暴力装置としての前衛党やら革命の実行部隊の軍事組織が必要という事で準備しておくことになります。
別に無血革命や結果として暴力が要らなければそれはそれでよいのでしょうがそれはうまくいった場合の都合のいい考え方ですからうまくいかない場合の都合が悪い場合の準備も必要でしょう。
・レーニンの革命家手法
レーニンは名革命家と言えるかもしれません。
厳密にはレーニンと彼の周辺にいたグループです。
ただ名革命家必ずしも革命後の社会をうまく作れるとも限りません。
そもそも革命だけは得意だけども革命した後の具体像をはっきり持っていない名革命家もいます。
毛沢東も革命を成功させるのは国力が衰えているタイミングで革命起こして共産党による一党支配をできたので優れていますが、革命後の具体的な社会づくりはだめでした。
大躍進政策もダメですしプロレタリアート文化大革命に至っては何がしたかったかわかりません。
共産党をなくして真のプロレタリアートによる生産手段共有と階級をなくすつもりでやったのかそうでなかったのかがよく分かりません。
いとも結果もダメだったので革命後の社会づくりでは失敗と評価できるでしょう。
日本では西郷隆盛などがそうでしょう。
西郷は堯舜(ぎょうしゅん)の世みたいなものをイメージしていました。
マルクスにせよ西郷にせよ大昔に理想社会を見るのは面白いところです。
レーニングループのすごいところは実務がしっかりしていたことです。
こういうのはやはり学歴エリートが多いので優れています。
前衛党の組織化をきちんとしたところが素晴らしいです。
第一次世界大戦の国力低下のスキを突いたのもいいでしょう。
ただロシアとか中国とかのちの日本もそうですが資本主義社会が成熟していたとはとても言えないところがあります。
そこから一気に人類の歴史の最終形態である平等社会に飛躍するのは無理です。
ですから二段階革命論みたいなのも出てきますし、後々までいろいろともめることになります。
・社会主義と共産主義、社会党と共産党
マルクス的に言えば社会主義は資本主義の移行過程で共産主義は完成形態です。
またもともと社会主義というのはふわっとした概念です。
生産手段の共有化などは言いますが私有財産の否定とかまではあいまいです。
あと社会主義と共産主義、社会党と共産党関係にも注意が必要です。
さらには現代と19世紀では使い方が違ったりします。
かつ日本と世界でも使い方が違ったりします。
第一次世界大戦以前は社会党というのはありましたが第一次世界大戦で各国が対立して胡散霧消してしまいました。
共産党という名前を初めてつけたのはレーニンです。
これはマルクス主義の前衛党に対して理想で完成形の社会である共産主義の名前を頂いたのでしょう。
社会党という名前も社会主義を目指しているという意味で社会党とつけているのでまあ同じです。
従来の社会党への反発とブランディングの意味もあって自分の党のボルシェビキをソ連共産党に変えました。
でも共産党はレーニン、スターリンの文脈の中で意味が変わってしまいました。
以後はヨーロッパでは社会党より社会民主党というのを使う感じでこれは社会主義とか共産主義というより議会内部でより集団主義的というか福祉やら平等やらを目指すような折衷主義的な流れとなります。
日本の社会党はちょっと別です。
社会党→民進党→民主党→立憲民主党になって今に至ります。
社民党は社会党の後継者のようでいて党員をごっそりいまの立件民主党に持っていかれたので有名無実になってしまいました。
国民民主党は民主党でも比較的民社党系の流れをひいたグループです。
欧米では第一次世界大戦で社会党の権威が失墜したので以降は社会民主党か共産党かどちらかのイメージです。
・ソ連の困難:スターリンとトロツキー
ソ連はそもそも帝政ロシアの段階で資本主義ではなく農奴制です。
農奴解放とかしましたがすぐに成熟した資本主義になれるわけでもありません。
そもそも権威主義で専制主義なので資本主義と相性が悪い面もあります。
というわけで革命当初のロシアはそもそも資本主義とか市民革命後の近代社会というよりは封建制的な国です。
そういう場合はレーニン的に言えば前衛党が指導して国を成熟した資本主義にするための民主主義革命を行って、それで成熟した資本主義体制にしたら社会主義革命を起こして最終目標の階級もなく平等で生産手段をプロレタリアートで教習するような無政府で個人主義的な要素がありつつも集団で調和も取れた理想社会が歴史の終わりとして完成するわけです。
ただ最終段階に至るまでは前衛党である共産党のエリート集団がプロレタリアートたちを引っ張らないといけません。
この段階では国は支配階級で共産党員でエリートのノーメンクラートと被支配階級で非共産党員のプロレタリアートに分かれます。
革命後のいろいろな混乱や内戦や逆境や第二次世界大戦もありこの体制がデフォルトになってしまいました。
これをソ連型共産主義と言います。
これは完成した人間平等の社会で歴史の終わりである共産主義社会ではないとは認める物の現実路線としてはこれしか仕方がないからかスターリンみたいな人が権力を握った為かそういう風になりました。
というか社会主義の罠みたいなのがここにあって共産党が一党独裁になってプロレタリアートと支配したところで止まってしまう場合があります。
党の方はどんどん増殖拡大していくのでいわゆるパーキンソンの法則というやつでしょうか。
あと自由な資本移動というか交換至上主義経済のような民衆的自由主義な資本主義化を進めず計画統制経済のようになるせいかはたまた自由なイノベーションや経済成長を軽視あるいは認めないせいか万年不景気のような状況に陥りがちです。
とすると静寂した資本主義にはならないので共産党一党独裁の権威主義の持続で何も変わらない停滞した社会になりがちです。
また共産党の一党独裁を保つためか分派や多様な意見を認めないためか粛清とかリンチ内ゲバが起こりがちです。
そうするとスターリンの粛清も毛沢東の文化大革命も日本共産党の六全協後の粛清や真日和見主義事件もそうですが大量の有能な人材がひと世代くらいまるっときれいに消えてしまったりします。
また労働者が本当の社会主義革命を起こして労働者が生産手段を所有する共産主義化を起こす最終革命を起こそうとすると共産党が邪魔をする本末転倒というかよく分からない行動を共産党がとったりします。
ハンガリー動乱や文化大革命が例に挙げられるでしょう。
トロツキーとスターリンの対立も一つはこの点にあります。
一国革命論で国内を固めるか世界革命で世界各国で共産主義国を増やす路線の対立が目立ちがちですが、社会主義の進展段階の見解に対する違いがあります。
スターリン路線だとまずソ連の共産化を固めて防衛しようとする思考になるので共産党を脅かす活動は何であれ、それが真の社会主義革命であれソ連を脅かすものになり敵対対象になります。
スターリンは階級闘争ではなく権力闘争で毛沢東もそういう感じで結局真の共産主義社会を作るのではなく共産主義を作る過程の共産党一党独裁と資本主義化というか古い封建制やら絶対王政やらなどの社会秩序を壊した後の特権階級のうまみにおぼれて固定どころか階級格差を増大させてしまうという何というか人間やら社会の弱点にかてずに違う方向に行ってしまったのでしょう。
スターリンとトロツキーの違いはやはり革命段階というか社会主義段階の評価にあります。
ソ連が歴史的に社会がどの段階にいるのか、中国はどうなのか、日本はどうなのかというのがマルクス主義というかマルクス型共産主義・社会主義では大きな問題になります。
その社会が歴史的にどの段階にいるのかでやることが変わってきます。
成熟した資本主義ならプロレタリアによる革命一発で共産主義状態に出来る可能性があるかもしれません。
そもそも帝政ロシアも清朝や中華民国期の中国も大正や昭和初期の日本も社会がどの段階にあるのかでもめました。
日本の戦前の共産党では講座派と労農派に分かれていました。
トロツキーとスターリンの対立は世界革命論と一国革命論だけでなくソ連、場合によってのソ連以外の社会の発展段階とか革命段階とかの評価に違いと対立があったものと思われます。
結局スターリンが勝ってトロツキーは亡命しますがトロツキーの影響を受けたのが革命的共産主義者同盟革命主義マルクス派のカリスマ指導者黒田寛一です。
日本で事実上機能している共産主義組織は核マル派、中核派、共産党の3つしかないのでこの3つは覚えておきましょう。
このうち核マル派と中核派は同じ革命的共産主義者同盟から派生しています。
もうちょっというと日本共産党は1955年の六全協というのでそれまでのソ連のコミュンフォルムの指示で朝鮮戦争の1950年から1955年まで日本各地で武装闘争を実際行っていて警官を含めて死傷者が出たり山村工作隊など若者を使って地方活動を行ったりしていました。
この時山村工作隊を指導していたのが網野義彦でのちに日本の歴史学を変えるスター選手になった人物です。
自分はこの人物を病跡学会というところで発表したことがあります。
この時期共産党は国際派と所感派というのに分かれて逃走していたのですが1955年の六全協で国際派の宮本賢次が実験を握るようになりソ連や中国共産党から距離を取り独自路線を取ること、武装革命路線を縮小し敵の出方戦術というのを除いて武装や党内の軍事組織を基本は持たず議会で勢力を広げていく方向に転換します。
この時に切り捨てられた人々の中に網野義彦がいたわけです。
そういう感じで日本の思想史を見ると共産主義とか左翼とかと関係ないところで耳にすることが多い有名人がゴロゴロ出てきますがそれだけ日本社会というか国際社会、世界全体が人類の平等をうたう社会主義こそ正義で真理で絶対という考えが強く、そこに参加して活動したり共鳴して日に影に支援する人々が多かったりすることが分かります。
日本共産党設立は1921年の大正10年で国際共産党であるロシア共産党のコミンテルンの後押しや影響を大きく受けていました。
別にそれまで日本に社会主義運動がなかったというのではなく戦前から日本はまっかっかでした。
東大経済学部は東大法学部からマルクス主義経済学を研究するためにできた学部です。
社会主義(共産主義)は正義で真理で絶対で社会主義者じゃないと真心がないくらいに社会全体で思われていました。
人間の完全な平等というのはやはり素晴らしい理想なのでしょう。
右派や保守派ですらその心情は理解していた面があったと思われます。
若いころに社会主義に傾倒しないような奴は気概がなく見どころがない、くらいに思われていたところがあります。
イタリアやドイツのファシズムも社会主義からの分岐です。
ナチスの正式名称は国家社会主義ドイツ労働者党でマルクス主義の系譜ではないかもしれませんが影響は普通に受けています。
ムッソリーニも若い時は社会主義者かなんかだったと記憶しています。
日本も15年戦争中は天皇以外は平等が徹底化される傾向で大東亜戦争などでは大名の子孫みたいな人たちも普通に兵隊(将校ではなく)で戦場に行っています。
まあともかくマルクス・レーニン・スターリンの流れは本来の共産主義を目指す流れから外れてしまってむしろハンガリー動乱のように共産主義実現のための労働者の真の革命を疎外したり邪魔するというのを的確に見抜いたのはトロツキーだけではなく先ほども挙げた黒田寛一のような人物もいますし彼のの属していた核マル派や中核派も黒田寛一のトロツキーの考え方に共鳴した人たちが作った党派ですので日本で現在実質的に機能しているマルクス主義団体3つのうち共産党はマルクス・レーニン主義ですが、残る核マル派と中核派はトロツキー主義で共産主義・社会主義・マルクス主義の観点から言えばこちらの方が正当な系譜と言えるかもしれません。
共産党もソ連共産党や中国共産党から距離を取る独自路線で動いてはいますが、敵の出方戦術以外の暴力革命は原則綱領でも認めないように現在はなっているのでかなり本来の暴力で革命を起こすというマルクス主義の本来の流れからは外れているところがあります。
他方で敵の出方、すなわち状況によっては暴力はありなので例えば日本が戦争に巻き込まれて社会が混乱したような場合には状況によっては暴力革命を起こすかもしれないので公安の監視対象からは外れていません。
一応言っておくと暴力は悪いものではないというと語弊があるのかもしれませんが暴力やテロリズムが絶対の悪であって理由の如何に関わらずダメとなったのは比較的最近の考え方です。
戦後の世界的な新左翼や時に共産党を中心とするいろいろなテロリズムでテロに屈服するのはだめみたいなのが徐々に高まり、アメリカの911事件でテロリズム絶対悪論になります。
他方で戦争という暴力はありでイラクに大量破壊兵器を作っているという冤罪を知っていながら吹っ掛けてイラク戦争を行っていますので暴力は絶対悪とはされていませんが、市民社会レベルの民事の問題では暴力は絶対悪という風潮は高まっていると言えるでしょう。
・簡単な日本の社会主義史
日本では明治維新後西洋の文物を取り入れたので当然社会主義も輸入しています。
有名な事件では大逆事件が挙げられます。
この時この事件の影響で和歌山を離れて東京に移住したのがこれまた私が病積学会で発表したことのある山本七平の一家でした。
1921年大正10年に日本共産党ができて1930年代後半には人民先生事件やら内ゲバやリンチ殺人で事件を起こし弾圧されすぐ消滅してしまいました。
この時の共産党は講座派と労農派というのに分かれていました。
講座派と労農派では、講座派は『日本資本主義発達史講座』を軸に「資本主義は成熟し革命が近い」と主張、労農派は山川均・荒畑寒村らが中心で「日本はまだブルジョア革命段階にあり、段階的発展が必要」と主張し、「資本主義論争」を展開しました
共産党はつぶれましたが共産主義とか社会主義とかマルクス主義は表立って活動しなければ普通に活発で近衛文麿のような国の指導者レベルでも社会主義的な人は大勢いました。
戦前で大切なのは32年テーゼというコミンテルンの綱領でこれを契機に反日思想や自虐史観が生まれたことと天皇制否定があります。
これはソ連の私怨も混じっているだろうと言われていてやはり日露戦争で負けた屈辱やらシベリア出兵やら満州での権益やらソ連と日本が対立しまくっていたのもあるでしょう。
天皇制という言葉はこの時つくられたという説がありますが人類の平等をうたう共産主義の実現段階においては天皇という特別な存在がいたら困るという事です。
戦争中共産主義者は政治犯として、あるいは内ゲバリンチの傷害致死罪の普通の囚人として牢屋に入っていた人が多かったです。
私の親戚にも牢屋に入っていた人がいて戦後に岩波に拾われて哲学辞典を編纂しています。
戦後GHQがまとめて共産主義者を出所させたのですが早速党再建やいろんな活動を開始し1947年(昭和22年)2月1日には「2.1ゼネスト」と言われるものを日本共産党主導の労働組合が計画しました。
吉田茂政権打倒と民主人民政府樹立を目指した全国一斉のゼネラル・ストライキ(ゼネスト)計画で官公庁や民間含む最大600万人が参加予定でしたが直前にマッカーサー(GHQ)の指令で中止に追い込まれ、戦後日本の労働運動に大きな影響を与えた幻のストライキで実行されていたら社会は大混乱に陥り日本史が変わっていたかもしれません。
この時共産主義活動から離れたのが読売新聞のナベツネや日本テレビの氏家です。
・1950年代の日本共産党の転帰
1950年のソ連からの干渉により共産党内で分裂と闘争が始まりました。
一言でいえば朝鮮戦争中に日本国内で武装蜂起し後方かく乱を行えという指令です
日本共産党では平和路線で行きたいという考えもあったのですがそれはだめで日本国内で騒擾を起こせるために日本共産党を利用しようとしました。
事の経緯は1950年にコミンフォルムが機関紙『恒久平和と人民民主主義のために!』に「日本の情勢について」と題する論文(論評)を掲載し日本批判を行いました。
批判の内容は当時の日本共産党が掲げていた「平和的かつ民主主義的な方法」による革命路線(野坂参三の「愛国主義的見解」など)を「反米的でなく、反日本的」などと厳しく批判し、ソ連や中国流の武装闘争路線への転換を促すものでした。
このコミンフォルムからの介入(干渉)により、日本共産党は「所感派」(徳田球一、野坂参三ら指導部多数)と「国際派」(春日庄次郎ら)に分裂し、激しい対立と混乱が数年間続くことになりました(五十年問題)。
1955年の六全協で宮本顕治が主導権を取り実働部隊の人々を切り離したり飼い殺しにしました。
よく55年体制という言葉を聞くと思いますがこれは1955年に自由民主党ができたこと、1955年に社会党ができたこと、1955年に共産党の現在の体制ができたことの3つに由来すると言ってもいいでしょう。
さらには1956年のスターリン批判でソ連自身が間違っていたと言ってしまいました。
さらにはハンガリー動乱で労働者が自ら生産手段を共有し真に格差のない社会を作ろうとしたときにソ連がそれに軍をおくり妨害し大量の死傷者を出しました。
というわけで日本共産党を前衛党と認めない考え方が拡大し新左翼運動が巻き起こりました。
こうした運動は世界的にありましたが日本も協力で1960年安保では数十万とか数百万の国民が国会を包囲したりと運動の広がりと強さを見せました。
安保法案が通ってしまったため運動は失敗とみなされ新左翼運動はますます盛んになりました。
色々な共産党以外の勢力が生まれて5流13派とか23派とか24派とか言われます。
この中で現在実質的に生き残っているのが核マル派と中核派です。
有名なものでは日本赤軍や連合赤軍は内ゲバリンチの山荘ベース事件やあさま山荘事件、よど号ハイジャックやテルアビブの空港での銃乱射事件で有名です。
そしてそういう党派ではなく学生運動としての横のつながりで学生運動の全共闘が有名です。
だいたい60年代はいろいろ労働組合活動やら成田闘争やら学園紛争やら党派セクト間での武装闘争やら日本に限らず世界中非常に騒然とした時代でした。
党派同士でなぜ闘争したのかというと共産党が革命の前衛党としての権威が落ちて次の前衛党を決めなければいけないという事で我こそはという感じで前衛党を巡っての争いが繰り広げられた感じです。
資本主義を打破するためには議会を通してという考え方もあったようですが投票で共産主義体制に移行するのも難しいです。
あるいは議会で勢力を拡大して徐々に改革を積み重ねて最終的に共産主義に至るというのもありで現在の日本共産党や社民党や立憲民主党や国民民主党の左派や令和新撰組はそういう路線かもしれません。
他方でそういう路線でなく暴力がないと革命はなせないという考え方もあります。
ドストエフスキーの罪と罰や悪霊やカラマーゾフの兄弟の未完の部分はそういうのをテーマにしていたようです。
ちなみにドストエフスキーも活動家の集まりで捕まり国家反逆罪で死刑にされかけ生涯ロシア帝国の監視がついていたと思われます。
マルクス自身も基本は暴力革命を想定したようです。
前にも書いたかもしれませんが治安や防衛を支えるのは最後には暴力に頼る国家であるのは現在も昔も変わりません。
それに今の日本はあまり暴力は見かけませんが若い日でも祖父母世代はゲバ棒振っていたり曾祖父世代は普通に戦争に行っていたりしていた世代です。
全共闘がゲバ棒振って機動隊と唱導したり内ゲバで騒いでいたとしても周りの大人は戦中派、戦前は徴兵経験も戦場経験もある大人たちだったので子供の若気の至りと暖かい目で見守っていたのかもしれません。
共産党も1955年の非暴力路線を敷いた後も先ほど言及の「敵の出方論」という暴力の選択肢を残したほかに全共闘に東大などの共産党の基盤であった大学が乗っ取られそうになったので都学連行動隊(通称あかつき行動隊)という非公然の武力軍事組織を使って新左翼たち相手に東大を守り抜いた経緯があります。
この組織は全共闘が沈静化した後に新日和見主義事件というもので粛清されてしまいましたので現在はありません。
粛清と言っても殺すというわけではなく狭い所に押し込んで光を当てて寝かせず繰り返し査問と自己批判の種類を書かせ続けたみたいな精神攻撃ですので肉体的暴力ではありません。
ここで一世代潰してしまったので日本共産党は不破書記長と志位書記長の間の指導者の世代にぽっかり穴が開いてしまいました。
・1970年代のターニングポイント
5派23派とか書きましたがこの中で残っているのは中核派と革マル派くらいです。
共産党はただの左翼なので新左翼でも極左でもありません。
まだ釜ヶ崎や山野を拠点にしている社会党系の革労協とか小さな党派も生き残っているようですが弱小少数勢力です。
お互い潰し合ったり過激すぎてテロにはしって公権力につぶされたりもともと組織力がなくて霧散したりと今では2派しか残っていません(細かいのを除いて、また変質して別の組織になったものを除いて)。
そもそも活動家にも生活があるので職場も必要です。
また活動の場も必要です。
また軍事組織も必要です。
また組織化がしっかりしていないと残れません。
そういった条件がうまくかみ合って残ったのがこの2派です。
基本的に職や活動の場として公務員や民間企業の労働組合、大学などがあります。
労働組合は現在の連合が統括している各種労働組合組織で公務員系の総評、民間企業の同盟系があります。
今はどちらも連合に統合されています。
「昔陸軍、今総評」などの言葉が昔は普通に使われていましたが今の人は聞いたことがないかもしれません。
「巨人、大鵬、卵焼き」とか「平家、海軍、国際派」とかどどいつみたいな言葉が昔はよく使われました。
国鉄が民営化したり郵政も民営化したりしましたが今でも日教組や自治労は有名な左翼団体です。
国鉄労組はなくなりましたがJR労連は現在も革マル派の基盤です。
東大病院占拠も東大選挙も失敗して新左翼運動とか学生運動とかは下火になっていき暴力による革命による社会主義化やら共産主義化が現実味がなくなってきてしまいました。
今でも真面目にそれを実践しているのは中核派と革マル派くらいです。
中核派は結構表に積極的に出て目立つ側面がありますが、革マル派は徹底的な地下戦術ですので目立ちません。
中核派と何らかの関係があった政治家は知られている人もいますが革マル派と関係があることが一般に知られている政治家はあまりいないでしょう。
新左翼活動が下火になると左翼的な思想を持つ人のよりどころも目的も分からなくなってしまいました。
共産党はよく分からない議会主義の平和な共産主義を目指すというのは社会民主主義と紛らわしいし、日本にはもう一つ分かりにくい社会党というものもあります。
社会党というのは前述のように第一次世界大戦より前にはそれこそ前衛党の意味でヨーロッパ各国にありましたが名前は同じでも1955年体制の日本の社会党はそれとはちょっと違うものです。
マルクス主義者もいますが社会民主主義者もいてその他の社会主義っぽいというか副詞主義っぽい考え方の人や修正資本主義の人、そのた多様な考え方を持っていていくつかの労組を支持基盤としてなるごった煮政党みたいなものです。
昔は民社党というものもありこれは同盟系の労働組合を基盤としつつ普通に現状肯定的なグループで自民党とともに保守的とも言えますが今はなくなりました。
1970年代以降、三菱重工本社爆破事件などを行ったり国際テロに加担するグループなど断片的な出来事は起こりましたが日本を共産主義化するというのからは目的が離れていく、とも言えますしもっとはっきり言えば目的がなくなってしまいました。
・リベラル、ポリコレの起源
目的も組織もなくなれば人間アノミー状態になる場合がありますがアノミーになるのではなくどういう心理機制か分かりませんが活動方向が反差別やフェミニズムや環境保護や反戦や反原発や反政府、反日本や自然主義や新興宗教の方向に変わっていきました。
「革命闘争で資本主義政府を内倒し共産主義という『全ての人間が平等で生産手段を共有し階級のない共産主義社会』を実現する」という大きな物語、ナラティブの終了で変わりに被害者物語、恨みのナラティブ、反愛国ポルノ的な小さな物語に拡散されて行きます。
『全ての人間が平等で生産手段を共有し階級のない共産主義社会』という大きな目的を男らしくマッチョイムズ、男尊主義、ニーチェの超人思想や権力の意志で戦って勝ち取るという感じからルサンチマンや恨み僻み嫉みなどの嫉妬や被害者ぶりや被害者意識、そういうのをパトロールして見つけて摘発してつるし上げるような小さな物語を人々は抱えるようになります。
これは元活動家だけではなく社会主義は正義で真理で絶対みたいな感覚は多かれ少なかれみんなが持っていた感覚だったので左翼活動と関係のない人々にも多かれ少なかれ浸透し共有されて行きます。
心理的な説明が必要であればニーチェの哲学でもいいかもしれませんし、左翼かつ装荷には学歴エリートが多かったのですが学歴エリートというものは中国の科挙制でも近代の官僚制でも自己愛的というか真に自分に自信はないが承認欲求や自己効力感を無意識に求める、競争で自分より上な相手には媚びて下な相手には小官吏的に夜郎自大、場合によっては下種下郎的に威張るみたいなパーソナリティーを持ちがちです。
状況が許せばそういうタイプの人は猜疑性/妄想性/パラノイドパーソナリティになり独裁者のようになります。
しかし自分に真の自信はないので非難や否定には弱く自分で自分の欠点や過ちを客観的に正視できずに神経症的、ヒステリー的になることもあります。
そもそも現代日本と比べれば、日本に限らず世界的にそうですが人々が巨大なトラウマを抱えていた時代です。
幼少期の体験も現在より逆境的に育った人が多いですし、貧乏な時代で貧乏はいろいろな精神的災厄を生みますし、戦争の時代だったので戦争経験を持った人しかいない時代でした。
そういった中で団塊世代は「戦争を知らない~、こーどーもたーちさ~」と歌っていた世代なので受験戦争は大変でも比較的トラウマが少ない世代でもありました。
同じ社会運動でも60年安保世代は子供時代に戦争の記憶がありますが兵士としては戦争に参加していない中で戦争を経験した人たちが混じっていた時代です。
1921年大正10年生まれくらいまでは戦争でも戦場経験者で大正10年生まれくらいは学生なのに学徒出陣で戦場に言った世代です。
1930年昭和5年生まれくらいまでは終戦までに人格形成が終わっている世代で、1930年昭和5年以降の世代は敗戦時に人格形成がまだなされていなかった世代です。
こういう世代論年代論時代論は精神医学やらいろんな領域でもっと研究されてもよさそうなものですが仮に研究されていたとしてもあまり人々が歴史や社会を見る際の常識や通念にはならなかったようで新しい世代には検証されていない傾向があります。
・そもそもの話、平等と自由は
平等というのはなかなか難しいところがあります。
何を持って平等とするのか分かりません。
人間の平等なら分子配列から何から何まで同じ人間がいれば平等かもしれませんが存在する時空間の位置が違いますしその結果2人の将来が分岐していくと考えられますのでどうしてもやはり何かしらの違いがあります。
時空間の位置も全く同じに重ね合わせられることができてその上で同じように動けば全く平等なのでしょうが何かシュールというかサイコティックというか訳が分かりません。
抽象的、形而上的、観念的、頭の中だけでぼんやりと、あるいは口で平等を言うのは簡単ですが具体的に突っ込まれると答え方によっていくつものセクトが分岐していくかもしれません。
天国みたいなところがあれば真の人間の平等が実現できるのかもしれません。
「人間の平等」から「人間の」を外すと一部の環境左翼団体みたいになるのかもしれません。
さらに近代の理念である例えば自由と平等は天国みたいな特殊なところがあれば共存できるのかもしれませんがこれも現実ではトレードオフするようなところがあります。
それに自由も平等と同じく抽象的な平等と具体的、現実的な平等は違うものです。
ここが違うからこそ「イデア論」みたいな理論があったのでしょうがこれを実装しようとすると困難になるのでより実務家というか現実主義的なアルキメデスは別の理論を考えたのでしょう。
・なぜかは知らないがリベラルと呼ばれるようになった
こういった一連の小さな平等、小さな差別をあら捜しして告発してつるし上げるような風潮はおそらくいろいろな歴史的経緯からリベラルと呼ばれています。
本来究極的な「人間の平等」を追求するのは正義で真理で絶対みたいな感覚はある年代から上の人にはわかるのではないでしょうか。
めちゃ若い人はしりませんが。
それが世界の広い年代の人に共有されたからこそごく最近のポリティカルコレクトネス(通称ポリコレ)が成り立ったのでしょう。
ポリコレは現代哲学では解体できますし、体育会やら保守的な頑固おやじややはり頭の悪い(悪い意味ではない)頑固おやじやマッチョイムズに弱い所がありますし、逆にインテリ系でも現場重視や実証主義には弱い所があります。
「差別の何が悪い」とか「別に差別されても関係ない」とかいう大雑把な豪の者がいればそもそも差別のコードが成り立ちませんし解体されてしまう場合があります。
そういう意味では差別を知らない世代は頭の悪い頑固おやじと同じくポリコレに強い所があるかもしれません。
「え、差別?それなに?」と言われてしまえば差別は成り立ちません。
昔はそういう反応した人を捕まえてはつ刷り上げたり指導したり再教育する時代が長かったですが今ではそういうことも多分少なくなってきているでしょう。
例えばフェミニストの東京大学元総長の上野千鶴子が民族学者の赤松啓介にけちょんけちょんにやられていながらうれしそうにしていたのは印象的です。
上野千鶴子氏もなにか窮屈さを感じていたのかもしれません。
今は平等は人間だけではなくなってきているかもしれません。
子供の数よりペットの数の方が多い国も多いです。
犬猫などのペットは3歳くらいの子供と10年以上暮らすのと一緒で下手すると実の子より深い愛着形成がなされます。
イルカやクジラは知能があるから捕鯨禁止論も昔はありましたが今はやや下火の様です。
頑張れ新左翼という本があって新自由主義とグローバリズムがいきすぎた現代だからこそ左翼(公安では共産党を指す、極左は共産党より左、共産党から見れば共産党より中道の左翼は日和見)が頑張ってくれたらいいのでしょうがかといって正義と真理と絶対を振りかざされてはかないません。
環境問題ではEVや太陽光パネルのように逆に環境問題を悪化させてしまった節があります。
・集団主義と個人主義
レーニンは革命を指導する唯一であるべきエリート党である前衛党に共産党とつけましたがこのcommunismという言葉は面白いです。
直訳すれば集団主義と訳せます。
平等は集団主義と関係があるのでしょう。
集団主義の反対は個人主義です。
個人主義は自由と関係がありそうです。
個人主義で自由でも人から何を言われようとも気にしない主体性や自覚や自主性や強さがあって変なコンプレックスとか劣等感がなく健全とのびのび育って自分に真の自信が持てればその段階で多様性があって人になりを言われようとも差別というスキームが成り立たない平等な社会ができるかもしれません。
これは社会が豊かで人類が進歩したからそう思えるのであって昔では無理だったかもしれませんが多分貴族や侍や聖職者などの一部の人たちは昔からそういう形で平等を成立させていた可能性があります。
これは同時に自由でもあるので今後追求路線の可能性としてはありだと思いますし現代思想てきな考え方でもありますのである程度のコンセンサスは得られるのではないでしょうか?