- 2025年11月3日
経済成長、イノベーション-超正統派経済学(主流派、マルクス主義含む)なのになぜか見過ごされがちなもの
経済成長、イノベーション-超正統派経済学(主流派、マルクス主義含む)なのになぜか見過ごされがちなもの
経済政策の本質は、投資の便益と「何もしない」ことの機会費用を天秤にかける意思決定です。短期の出費は目に見えますが、投資を避けたときに失われる成長とイノベーションは見えにくい。だからこそ超長期の視点で、公共投資・R&D・人材への投資を“責任ある積極財政”として位置づけ、社会全体の期待便益を最大化すべきです。
・はじめに
簡単に結論から書きます。
投資をしなければお金は貯金しておけるという機会収益が発生するかもしれませんが経済成長がなくイノベーションも起こらない、という機械費用が発生するかもしれません。
逆に投資をすればお金は減ってしまうという機会費用が発生するかもしれませんが経済成長やイノベーションが起こるという機会収益を得られるかもしれません。
何かをしても何もしなくても必ず得られるものと失うものは発生します。
・仕方がないけど教育の問題点
人間が時間が有限で方法の並列処理ができない以上仕方がないことですが教育や学習には問題点があります。
シンプルに言うと教科書や授業に従って授業や教科書の初めから勉強を始めてしまうことです。
もちろん興味ある部分から読むみたいなやり方やいろいろなスタイルで勉強する人は多いでしょう。
学者になるレベルでは教科書は最初から最後まで頭に入っていないと駄目でしょう。
そもそも多分研究職に就く際には学生への講義や学会発表などもろもろあるのでその分野でかける部分が多いのは評価の傷になります。
だから初学者とか自分で勉強しようという気がある人、自分で勉強せざるを得ない人のことを念頭に置いて書きます。
・多分最初は全体像をつかめた方がいい
何かの勉強をするなら最初に全体像をわかっておいた方がいいです。
そのため黙示や総論や「はじめに」やガイダンスや概論などを最初に置くように工夫はされています。
特に海外の教科書などでは。
ただそもそも全体像が分からないから勉強をするという人も多いはずです。
さらには勉強を、その入門レベルの教科書、授業、その他でも完遂する、理解しきるという人は現実的に少ないと思います。
人間の弱点とでもいうべきものでしょうか。
結果として教科書や授業の最初の方だけが印象に残ります。
頑張って教科書を最後まで読んだり授業を最後まできいたりしても多分一回で理解する、あるいは一を聞いて十を知る人ばかりではないのではないでしょうか。
大まかにいうと教科書や授業の中の印象に残る部分だけ覚えていて後は頭に残らなかったり表に出ずに死蔵される、あるいは授業や教科書の最初だけはしっかり勉強して勉強が進むにつれて印象が薄れていったりしてしまうことが多いのではないでしょうか。
・勉強の結果の多くの場合
結果として何かを勉強しようとしても断片的な知識が残ってそれで終わりとなってしまう場合が多いでしょう。
特に教科書などを最初からきっちり読む勉強のスタイルの人は後半になるにつれておろそかになりがちになるかもしれません。
・マクロ経済学の教科書の罠
マクロ経済学を勉強しようとすると構成として超短期や短期の経済、中期や長期の経済、超長期の経済の順番で構成されている教科書があります。
マクロ経済学は教科書が分厚くなりがちなので2冊分冊になっている場合もあります。
そうすると比較的短期的な経済は学んでも超長期的な経済の勉強が粗くなる場合があると思います。
超長期の経済学の章を読んでも短期や中長期の経済と比べて漠然としているかもしれません。
特に実証重視の経済学者の書いた教科書では超長期は理論的であったり観念的であったり経済学史の紹介のようなものになりがちかもしれません。
ただ人類の長期的で持続可能な幸福増進のためには超長期のマクロ経済学が大切になります。
・ある意味超長期の経済学こそ人類の究極のテーマ
「経済」という言葉は「経世済民治国平天下」からとられています。
なんだか難しいですが庶民目線で見ればいかに自分や家族や仲間や子孫が幸福になれるかです。
上から目線というか政治経済視点から見れば社会を以下に人々の幸福度を増進するように設計するかです。
・一番大切なのは技術、成長、イノベーション
経済学の冒頭ではGDPが人間の幸福度の指標と書かれていたりします。
これには昔から批判もありますし今はもっと批判が高まっている気がしますが私が昔勉強したマクロ経済学の教科書では大体そんな感じだったと思います。
個人的にはちょっと別の観点も持っていていずれ信頼とか技術を中心とした経済論や社会論を構造主義的手法で描こうと思います。
・成長とイノベーションは経済学の王道
そもそも経済学史を見ると、そして社会に与えた影響を見ると経済学と経済制度は大きく2つの方向に分かれます。
これは成長とイノベーションという観点を通じてみると分かりやすいです。
一方の極を見るとイノベーションと成長を経済学の中心に据える考え方があります。
古典派経済学の王道で自由主義で資本主義の経済です。
最右翼に位置するのはアメリカです。
アメリカも時代や地域で多様性がありますが世界の中では一番制度や人の意識が成長とイノベーションに向かっている社会です。
「お金を稼ぐ」ということではありません。
「お金を稼ぐ」ことも入っているかもしれないですし、お金を稼ぐことは成長とイノベーションとは独立ですし、むしろ成長とイノベーションとは相性がいいですがそれとこれとは別の話です。
むしろこの独立な側面を重視しなくなったりさらには忘れてしまったりしていることが最近の新自由主義やグローバリズムが危機に瀕している原因ではないでしょうか。
「お金が儲かること」は単なるビジネス(金儲けではなく社会的宗教的ミッション)の結果と見る見方も昔からありました。
カルヴァン派やマックス・ヴェーバーなどは有名です。
・古典経済学のもう一つの方向性
古典派経済学のもう一つの分岐にマルクス主義があります。
これは近代の歴史に決定的な影響を持ちました。
ロシア革命とソ連邦の成立と冷戦です。
思想としては西側の非マルクス主義諸国でも圧倒的な思想的影響力を持ちました。
例えばスタジオジブリの宮崎駿が有名です。
宮崎はばりばりの社会主義者で冷戦崩壊の際にはアノミー状態になってしまい、ニーチェに傾倒してみたり、風の谷のナウシカの漫画を完成させてみたり、司馬遼太郎や堀田善衛に対談を申し込んだりしていました。
現在の日本の財務省は基本マルクス主義者の巣窟ですし、財務省以前に東大法学部がマルクス主義経済学の巣窟でしたし、そもそも東大経済学部がマルクス主義経済学を研究するために東大法学部から分岐したような機関です。
マスメディア、学会、初等教育から高等教育に至る教育全般は冷戦終結以前の日本はマルクス主義一食でした。
・マルクス主義の特徴
マルクス主義は古典主義経済学の流れを引いています。
それとともに西洋文化というか聖書文化の影響を受けています。
マルクスはおじいさんがユダヤ教のラビでお父さんの代でキリスト教に改宗しています。
そのせいというわけでもなくもともと聖書文化の考え方は世界には終末があり神の審判があって死者も復活して神様によい審判を受けた人は永遠の幸福が得られるというものです。
だからマルクス主義経済学にも終わりがあります。
経済発展にも終わりがあってその暁には人々はみな幸せになれるだろうというパラダイス的な経済観と歴史観、思想感を持っています。
そのような時代には聖書のアモス書やミカ書にあったように、また歴代の予言者が現実的経済運営の政府というか王様を批判しているように、お金を稼ぐことや貧富の格差に関することが解決された理想的な社会が現出する、簡単に言えばこれがマルクス主義のビジョンです。
経済の成長やイノベーションを否定しているわけではないのかもしれませんが、そういったものは厳格に管理され分配されるという考え方です。
他方で究極に発展した世界では成長やイノベーションはなくてもよいみたいな見方も混在します。
そのためか旧ソ連では民間のイノベーションや成長は抑制され軍事などの技術にのみ特化したミッション型の投資が行われました。
民間の成長やイノベーションに否定的というか管理が大変なので抑制します。
結果として旧ソ連は永久に不況が続くような妙な社会になりました。
これを妙とみるのは西側の自由主義のもう一方の側、成長とシュンペーターの破壊的創造、すなわちイノベーションを経済というものの核に置いた考え方からはそう見えるだけかもしれません。
奇しくも現在の中国が現在のソ連と似た体制をとっており軍需やEV、半導体、環境技術に投資をしているということですが、民間の経済は圧迫している、というか不動産バブル崩壊後の不況を放置というか不景気のままコントロールしている感じです。
・アメリカと旧ソ連の間の道、成長やイノベーションへの許容度での分類
社会主義という考え方があります。
定義ははっきりしません。
冷戦時代は岩波語というか変な日本語でいろいろな定義づけをする活動が活発でした。
大雑把に言って成長やイノベーションに対して社会との調和を考えてほどほどの距離をとるという考え方です。
ヨーロッパでの社会民主主義という考え方です。
日本でも社会民主主義でよさそうですが日本ではあまり喧伝されません。
社会民主主義政党であるということをもっとアピールする政党があってもいいと思うのですがあえて言うなら昔の民社党でしょう。
民社党は社民党や社会党と字面が似ているので今の若い人には時だけ見ると左派政党といえるかもしれませんがどっちかというとそうではなく、旧社民党出身者や立憲民主党などに吸収されているようです。
・国家社会主義と国家資本主義
国家社会主義というのはどういう意味か分かりませんがナチスの正式党名が国家社会主義ドイツ労働者党だったところもあって「国家社会主義」という言葉は現在では使うのを避けられているようです。
これも社会主義の一形態でしょう。
競争とイノベーションは重視されていますし労働者というように庶民の暮らしも配慮されています。
「国家」とか「ドイツ」とか「労働者」という言葉がちりばめられているので「ドイツ人のための」的な国家主義が名称の上でも歴史的実際の上でも重視されていたことが分かるので世界中、特に近隣諸国と仲良くしようという現在の世界秩序の中では忌避されるのでしょうしともかくナチスのインパクトが強すぎて欧米圏では使いにくかったのでしょう。
・日本と途上国
長らく日本が発展途上国から経済発展させて先進国になるという世界のモデルケースとしてみなされてきました。
また日本は変な国という意味もあって世界は「先進国、発展途上国、アルゼンチン、日本」の4種類の国しかないというアネクドートみたいなのがよく使われていました、というか来ました。
発展途上国が先進国にキャッチアップする際の日本モデルは基本革新的イノベーションはアメリカや西ヨーロッパを真似する、そして経済成長超重視、というやり方です。
明治維新以来このやり方を踏襲してきたので日本は猿真似国家とか日本人には独創性がないとかさんざん叩かれ差別という定義のない言葉は好きではないですが差別されてきた歴史があります。
・イノベーション特化型国家
科学や技術史を塗り替えるような超一級のイノベーションとかではありませんがイノベーション特化型の国家もあります。
いわゆる北欧とかスイスとかヨーロッパの中小国家みたいな特色のある産業の育成政策です。
これは日本の地域振興を考えても分かるでしょう。
独自性を追求してニッチな需要を埋めたり掘り起こしたりしてその中でオンリーワンとなる戦略です。
・改めて日本を振り返ると
初めに小結を書くと『「財政の健全性」とは、貸借対照表の右側(負債)だけでなく、左側(資産・人的資本・知的資本)の将来便益まで含めたインターテンポラルな健全性で再定義されるべきだ』というものになります。
現代経済学の発展というのも20世紀の中葉に入ってからです。
欧米圏で発展しましたので日本への輸入と普及が遅れました。
結果として日本は不動産バブルをハードランディングさせて全体として緊縮貴重な敬愛を続けるという失われた30年を経験しました。
現代経済学の移入が遅れたということはその間は日本は近代経済学を行っていたということです。
例えば今話題の財務省はマルクス主義経済学で上下関係が厳しく天下り利権体制を構築しましたので緊縮財政です。
プライマリーバランス0という名前に今は変わっていますが極論1960年代以前の国債発行残高が0、つまり無借金国家を目指しているのかまではどうかは分かりませんが極論そういうことになります。
最近は財務真理教といわれてデモ迄行われているので有名でしょう。
最近は総負債(総資産)と純負債(純資産)も理解されるようになってきました。
これは経済学を日本に普及啓発してくれている人たちのおかげです。
同時に日本人も組織の源泉徴収だけではなく、投資する人が増えたこと、マンションなどの資産相続、副業、スモールビジネス、企業、個人事業主の人の割合が増えてきたような気がするのでそういう影響もあるでしょう。
アントニオ・グラツィアーニの貨幣循環論のように全ての経済主体を会計帳簿の様に見つつ、お金(信用、資本、負債、資本など)や価値の対創造や対消滅、交換のような見方で世の中を見られるようにまではならなくともそれに近い感覚を持つ人が増えているのではないでしょうか?
投資をしないとイノベーションも成長もないので日本は成長もイノベーションもなしの国になりました。
経済は常にトレードオフします。
投資をすればその機会費用を払います。
投資をしてもその機会費用を払います。
投資をしてもしなくてもどっちにしても機会費用を払います。
投資に限らずお金を貸しても借り手も機会費用を払います。
すべてのことに機会費用というものがついてきます。
トレードオフと機会費用の考え方からすればすべては何かを得れば何かを失います。
また何かを失えば何かを得るかもしれません。
「よいことと悪いことはコインの裏表のように同時に発生する」これは経済学の教科書の最初の方に書いてあるので結構みんな知っているのではないでしょうか?
ただこれは恐ろしい不足でもあります。
問題はこれを逃れる方法がないことです。
「なにもしない」というのは機会費用を払う必要がないように思えるかもしれません。
しかし「何もしない」ことにも機会費用が発生します。
つまり何をしても何をしなくても機会費用が発生します。
「何もしなければ少なくとも損はしないだろう」と考えている人が多いかもしれません。
しかし何もしなくても自分の知らないところで何かの機会費用は払い続けています。
その払っている機会費用が一体何なのかを意識して自覚するようになるのが現代哲学の構造主義やポスト構造主義を身に着けるいいトレーニングにもなります。
デフレの時代、失われた30年間日本人は投資も控えました。
そして機会費用として経済成長の低下とイノベーションの創出抑制と国民の貧困や格差と少子化の機械費用を払いました。
失われた30年は実はいいことだったのではないか?という考え方もあります。
不動産バブルを総量規制や狂気の金融引き締めでハードランディングさせたのはまあ終わったことだから仕方がなかったとしてそのあとの30年間の対応がよくなかったという説もありますが、それがむしろ良かったのだ、という説もありそれにはそれなりに一理も二理もあります。
不良債権処理を急速に進めていたら社会がもっと不安定になっていたでしょう。
不良債権処理を迅速に進めるフェーズが全くなければいまだにバランスシート不況に苦しんでいた可能性もあります。
また別の面から見るとその間世界が新自由主義とグローバリズムで突っ走っていた時に日本はおいていかれました。
しかしどんな経済政策も時期と期間と程度が大切で日本が何もしていなかったときに世界はそれで全力奪取しすぎて今はちょっとというかだいぶずっこけ気味です。
日本は何とも運よくそういう新自由主義とグローバリズム(国際金融資本主義)の弊害を最小限に免れることができたかもしれません。
これは「何もしなかった」という機会費用に対して得られた「機会便益」といえるかもしれません。
世界と経済は貨幣循環論ではありませんが経済、あるいは社会、あるいは信頼、技術、産業、政治、何でもいいですが目に見えない構造でつながっている場合があります。
そういうものを見えるようにするためにいろんな構造を学習していろいろな情報処理方法、いろいろな見方、いろいろな考え方、いろいろな構造、いろいろな構造主義化の方法を知っておくのが何かの折に芸は身を助く様なことになるかもしれませんし、別の意味でも現代哲学的には推奨ではあります。
あまりに知性偏重主義的なところがあって、それはそれでデメリット、というか機会費用を払わないといけないのかもしれませんが。
・まとめ
「はじめに」と繰り返します。
投資をしなければお金は貯金しておけるという機会便益が発生するかもしれませんが経済成長がなくイノベーションも起こらない、という機会費用が発生するかもしれません。
逆に投資をすればお金は減ってしまうという機会費用が発生するかもしれませんが経済成長やイノベーションが起こるという機会便益を得られるかもしれません。
何かをしても何もしなくても必ず得られるものと失うものは発生します。