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  • 2025年10月26日

偉すぎる神様のジレンマ、神様が偉すぎると変なことが生じる

偉すぎる神様のジレンマ、神様が偉すぎると変なことが生じる

神を極限まで超越化すれば、日常の手触りから後退し、信者との距離は開く。その距離を埋めるために、啓典宗教は契約と律法、祈りと典礼、共同体と習俗という“橋”を重ねてきた。対して日本では、神は場所や物や行いに“宿る”ものとして感受され、可感性が信仰の維持装置になった。両者の差は善悪ではなく、歴史的・地政学的条件が設計した「距離のちがい」である。

・聖書の神様は超越神で日本の神様は身近

 神様はえらいに越したことはありません。

 と普通は思うでしょう。

 多分そうなのでしょうがよいことの裏側には悪いこともセットで着いてくるかもしれません。

 経済学でいう機械費用やトレードオフの関係です。

 簡単なところで対照(コントロール)にもなるので日本の神様を考えてみましょう。

 日本の神様はめちゃめち身近です。

 ある特定の神様が身近というわけではなく人間が神様を感じたり何かに神性や聖性を感じたりすることを素直に受け入れます。

 むしろそうであった方が信心深さと見なされたりさえもすることもあります。

 神性や聖性だけでなく物事に心を籠めたり魂を込めたり神を感じたり仏を感じたりその他何かを感じたりすることに肯定的でむしろ積極的です。

 日本人は無神論という説がありますが最近はだいぶ減りましたが日本ほど神社や仏閣や祠や神棚やお地蔵さまやとうしんこうその他宗教的と思えるものが国中あふれかえっていた国も珍しかったかもしれませんし今でも世界の上位の方かもしれません。

 そして人の心も信心を貴びます。

 何に対して信心を感じているのかよく分からないことも多いですが気持ちや感性に信仰心を大切にする国民性です。

 ただし狂信的だったり前後を見失って何かの宗教を押し付けられる場合にはNOをいう伝統が非常に根強くあります。

 日本人が信心深いこととある宗教を絶対化することを拒絶することは何か同じものの別の側面なのかもしれません。

・聖書の神様

 日本の宗教に対して聖書の神様を考えてみましょう。

 聖書を聖典とする宗教は啓典宗教といいます。

 キリスト教、ユダヤ教、イスラム教などが知られており、啓典というと聖書を通じて神様とつながる宗教群です。

 これらの宗教は温度差はあれ神様を上げまくります。

 これらの宗教では神様は1柱(1人?)しかいません。

 それは絶対神で超越神です。

 「見たら死ぬ」という記述が聖書にあったはずです。

 実際に聖書の中で神様に直接神様を見るか会ったことがある人は聖書全体で2~4人くらいしかいなかったと思います。

 ただし聖書と言ってもキリスト教でいう旧約聖書を指すことにして新約聖書は除くものとします。

 新約聖書はイエスの位置づけが難しいので省くこととします。

 これはイエスを神とするなら聖書の登場人物はイエスという神と会いまくっていることになってしまうからです。

 そもそもキリスト教にとってはそれでいいでしょうがユダヤ教やイスラム教徒にとっては新約聖書は貴重な文献ではあっても聖典というかイエスと神だか神の子だかとする見解はとっていませんので聖書系宗教を全般的に俯瞰するために新約聖書は除きます。

 そもそも聖書系宗教では神を上げまくっています。

 超越度と絶対度が日本人のような無不信心?な民族というか不届き?な民族からすると神をめちゃめちゃ上げていてもう上げることがこれ以上不可能なくらい上げています。

 そういう様子を見ると日本人としてはいくつか疑問がわくでしょう。

そもそも自分の推しはあげたくなるのが人情です。

なぜ我々日本人は神様を聖書系宗教のように上げまくらなかったのでしょうか?

あるいはなぜ聖書系宗教は神様を極限まで上げたのでしょうか?

後者は当然のように見えますが別に神様やら自分たちの信仰対象をそこまで上げてない宗教も多いのである種の疑問点や問題提起となりえます。

・なぜ日本人は自分たちの信仰対象をそこまで上げなかったのか?

 根是日本人は聖書文化圏のように自分たちの信仰対象をそんなに上げなかったのでしょうか?

 浄土真宗の様に阿弥陀様を上げまくった仏教周波などはありますが聖書文化圏ほどではなさそうです。

 これにはいろいろ理由があるでしょうし、いろんな意見があってよくそれぞれが答えの一部を形成しているでしょう。

 ただ簡単にいくつか挙げてみると、日本人は信仰対象をそこまで上げる必要がなかった可能性があります。

 またそもそも信仰対象をそこまで上げるという発想自体がなかったのかもしれません。

・聖書文化圏ではなぜ神を極限まで持ち上げたのか?

 聖書文化圏ではこれも宗教や宗派によって温度差はありますが神を以下に持ち上げるかに心血を注がれています。

 これにもいろいろな理由があるでしょう。

 そしてそれぞれの理由にはみんな一理あるのかもしれません。

 網羅的に理由を挙げて言ってもいいのですが先ほど日本人が自分たちの信仰対象をそこまで持ち上げなかった理由を挙げてみたのでそれと比較して考えてみます。

・聖書文化圏では神様を持ち上げる必要があった

 聖書を読むと特に前半は異教を信仰したい庶民と保守的ユダヤ教徒の戦いみたいなところがあります。

 モーセの市内契約からバビロン捕囚くらいまではその宗教闘争?というかいかにユダヤ教保守派がユダヤ教に関心が薄く他の宗教に魅力を感じて信心している多数派のユダヤ人をどのようにユダヤ教に引き戻すかの歴史が大きな部分を占めています。

 パレスチナ・イスラエルは立地的に文明や民族の交差点みたいなところがあります。

 ユダヤ王国にせよユダヤ人だけが住んでいたわけではありません。

 またいろいろな周辺の先進文化の影響を受けています。

 立地的に地理的・地政学的要衝ですから国内にいろいろなものが流入してきますし交易も盛ん、ユダヤ人自身も故国を離れていろいろな地域で商売なりなんなりをしていたでしょう。

 ほかの国や文化圏の影響を、宗教のみならず言語や文化や文物や移民などいろいろな影響を受けてないと考える方が不思議です。

 それで古代ユダ王国だけでいうといろいろ興亡はあるでしょうが弱小国家である時期が長かったでしょう。

 周辺にはエジプト、オリエント、フェニキアなどの海洋民族、ギリシア人、ローマ人などのあらゆる面で強力な民族、国家の影響を受けざるを得ません。

 ある意味他の宗教の影響を受けない方が難しいでしょう。

 こういう環境の中では宗教は競争しなければいけません。

 いかに自分の宗教がすごいかの競争でもありますし、いかに信者を獲得するための競争でもあります。

 ユダヤ人の宗教は一応民族宗教ですがそもそも文献を作るときにはその文献を作る人の主観や意図が入り込みます。

 それに現代的な意味での民族意識が当時のユダヤ人にあったかというとあった可能性もありますがそもそもなかったでしょう。

 宗教の生き残り競争、信者獲得、というか信者奪回を図るには自分の宗教や神を上げる必要があります。

 日本人が自分の宗教を上げるという発想がなかったという点と古代ユダヤやユダヤの宗教を比較して考えてみましょう。

 信仰対象を偉くしたり超越化したりするといい面もありますが多分望ましくないことが起こることもありうると考えられます。

 例えば神と信者の距離が遠くなるということが考えられます。

 「見たら死ぬ」なら見ることはできません。

 みだりに名前を唱えることも禁止で実際ユダヤ教の神の名は読み方を忘れられてしまいました。

 偶像崇拝も禁止です。

 単に絵や像を作らいないのでこれの何がいけないかと考える人も多いでしょう。

 そもそも偉大な神の像を作るなど不遜です。

 神が形で表されると考えるのも不遜です。

 神は創造主でその他すべての物は神の被造物ですが緒戦被造物にしか過ぎないもので神をかたどるなど不遜の極みです。

 それに絵や彫像を作るとそれに感情移入して物に対する信仰が発生してしまう可能性があります。

 被造物で神をかたどるだけでも不敬なのにそれに感情移入してただの物に過ぎないものを神のごとく扱うというのはますます持って不遜です。

 聖書系宗教は温度差はありますが、物に対して神を感じるのを嫌がりますし禁止します。

 物に対して神性や聖性を感じるのみならず、物に対して感情移入、心や魂や情熱や何かわかりませんがいろいろな人間の情念というか想いを籠めようとすることに対して常に神経をとがらせています。

 そういうことは聖書の神に対する不遜どころか多神教の温床になるかもしれません。

 神は聖書の神一人(1柱)しかこの世に存在しないということになっているのに、人情というか人間にはいくつかの神、いくつかの信仰対象を作ってしまうという習性があるということを歴史は示唆しています。

・神は絶対で超越で極限なら人と神の距離は無限大

 神をアゲアゲするといい面もあるかもしれませんがあえてデメリットと思われる面を上げてみます。

 神を超越化すればするほど人間との距離は開いていきます。

 あまり距離が空きすぎると事実上存在しないのとおんなじになってしまう危険性があります。

 空洞化というか空っぽ化してしまう可能性があります。

 ジャンプのバトル漫画とは違うかもしれませんがドラゴンボールのように成功しないと面白くなくなってきて読者もしらけてしまって打ち切りになることがよくありました。

 今でもあるかもしれません。

 形骸化させずに神と人間の間をつなぐために聖書系宗教では宗教や宗派によって共通するもの、違うものを含めて十重二十重に宗教力を強めるための工夫をいろいろ行ってきました。

 ただこういうのも時代や地域によって有効な対策は違いますし、ある地域時代で有効だった対策が別の時代や場所や文化圏ではマイナスになる場合もあります。

 もしかしたら日本で聖書系宗教が広まりにくいのも何かそういうものが関係しているのかもしれません。

・神を高めると具体的にどうなるのか

 聖書系宗教の基本は契約です。

 これはユダヤ教でもキリスト教でもイスラム教でも変わりません。

 たとえばキリスト教は契約が非常に緩く見えますが守るべきものは守っています。

 キリスト教では新約聖書で食物制限なくしたのでユダヤ人やイスラム教徒と違って何でも食べていいだけでこれは聖書に従って食べているだけです。

 このように契約や律法を守るのが信者である基本です。

 それ以外にもいろんな習慣や儀礼や儀式や注釈や聖書以外の文書がいろいろあります。

 ユダヤ教ならミシュナとかイスラム教ならコーランやハディスなどが信者の生活や信心に影響を与えるでしょう。

 また聖書に採用されなくても当時の文献はたくさんあります。

 そういう中で一日に何回かお祈りするとかそういうのが習慣として生きていくでしょうし安息日などもあります。

 ただ一神教と神の超越性を保つために時代や地域、文化もどんどん変わっていくのである時期には宗教に必要だったものが宗教に立っておかしな作用や場合によっては反宗教的な土台になることもあります。

・近代という時代

 神は世界や人間や世界を作りました。

 また週末の日には死んだ人間を復活させ生きている間に契約をきちんと守っていたかを侵犯します。

 こういうはっきりした役割はあるのですが日常で神様がどう我々とかかわるのかは微妙です。

 洋の東西苦しいときは神頼みしたくなる心理が働くという研究があります。

 ただ聖書の神様は苦しんでいる人間を簡単に助けてくれるとは限りませんし、そういう神様の利用をいましめるような聖書の記述もあります。

 困ったときに頼れないとなるとなかなか信者にとってはマイナスポイントです。

 神は世界を作って世界の法則を作ったので後はそのシステムに沿って世界は勝手に動いていくという理神論という考え方もあります。

 そうするとシステムがあるだけでシステムが稼働している間は神はいようがいまいが事実上どっちでもいいのではないか、という考え方も生まれます。

 多分こういうのが西洋近代の成立に関係します。

 近代社会学を見るとウェーバーにせよゾンバルトにせよシステム的な思考です。

 かつ魔術的思考というか迷信的なものを排します。

 経済学の方でも古典経済学は物質主知劇というか物は物として感情などを籠めないで見ていきましょう、という方向で経済や商業、金融が発展していきます。

 唯粒論的、といってもよくこれは自由主義でもマルクス主義でも変わりません。

 カルヴァンにせよライプニッツにせよラプラスの悪魔にせよ予定調和的というか決定論的です。

 一個人がどう臨んだところで神とつながることがない世界観です。

・そもそも昔から神と人間は接触が薄い

 時に神秘体験や超越体験をして神を感じることがあります。

 F1のアイルトンセナはレース中神を感じたそうです。

 宇宙飛行士で神を感じてその後聖職者になった人もいるそうです。

 高名な登山家ラインホルト・メスなーは登山中の危機的状況で神を感じたそうです。

 素潜りで100m以上潜るような記録を争っていた時期に選手のひとりが神のようなものを感じた、というのを聞きました。

 イルカ博士のジョン・C・リリーは人間を無刺激状態にしてLSDのような幻覚剤を投与したら超越体験を観察したそうです。

 ハーバード大学の元教授でサイケデリック文化やヒッピー文化の祖であるティモシー・リアリーは向精神薬で神秘体験をするのを目指しました。

 こういうのは全て特殊な状況によっての神の体験です。

 日常生活で神を感じる方法ではありません。

 新興宗教でもカルトが特殊な修行で非日常体験を感じさせる手法があるのは有名です。

 正統的宗教でも神を感じるために進歩主義や狂騒状態、ある種の薬剤(大麻など)を使う場合があります。

 イスラム神秘主義は有名です。

 キリスト教でも神智主義というのが流行ったことがありました。

 ユダヤ教の超正統派と言われる現在の超右翼というか超保守派は(超正統派の他にユダヤ教徒には超保守派というのもあるのでそれとは違います)近代初期にウクライナ周辺で生まれた当時はカルト的と言われた新興宗派で歌ったり踊ったりの狂騒状態になる集会を行うようなもので当時の他の普通のユダヤ教徒からは奇異な目で見られていたそうです。

 ヨーロッパというのは聖書とキリスト教が強そうですが考えようによっては高々数千年余りの歴史しかありません。

 リトアニア大公国など中世になってもキリスト教化を拒んでいた勢力も普通にありました。

 しかも中世末期には早速人文復興で1000年代前半にはキリスト教も揺らいで近代になるとかなりキリスト教ぐらぐらです。

 1000年というと長いようで短くもあります。

 島も大陸のいろんな民族や宗教や交易や文化が集まった地域では歴史もぐじゃぐじゃです。

 日本はなんだかんだと言って平和でした。

 というか日本はめちゃめちゃ平和でした。

 戦争は文明を発展させたりもしますがいろいろ世界がややこしくなっていきます。

 平和な時代は成熟を許してくれます。

 何かを急いでやらなくても比較的好きなことをしていられる緩くて甘い世界です。

 あまりとんがってラディカルなことをしないでいられることも多いでしょう。

 

・聖書文化圏と日本では置かれた環境が全く違った

 聖書系宗教は非常にごちゃごちゃした環境で生まれて維持してきた宗教群です。

 日本は島国で大陸のごとを人ごとのように眺められていられる時期が長かった過去、ヒストリーがあります。

 何もかも全然違うのに同じような宗教になるとは逆に変な話です。

 聖書系の宗教が排他的唯一神教になるのもそれなりに理由付けできますし、それが逆に近代に脱宗教や理神論、無神論、不可知論を生む母体になったのかもしれません。

 唯物論的な社会、経済、科学、技術、産業を生むのに役に立ったのかもしれません。

 逆に日本がそういうものをうめなかったのは神様と人間が近すぎた、関係が近いし水臭くない関係をずっと持ってきたせいかもしれません。

 この傾向は現在でもあると思います。

 ここら辺の違和感が聖書的世界と日本が全く違う文化圏として比較される原因の一つかもしれません。