HOME 記事一覧 未分類 人間は表面しか見えず中身は見えないの法則、氷山の一角、表層の実在論と深層に広がる膨大な氷、海を繋ぐ構造主義ネットワーク、レイヤー、ドメイン
  • 2025年9月28日

人間は表面しか見えず中身は見えないの法則、氷山の一角、表層の実在論と深層に広がる膨大な氷、海を繋ぐ構造主義ネットワーク、レイヤー、ドメイン

人間は表面しか見えず中身は見えないの法則、氷山の一角、表層の実在論と深層に広がる膨大な氷、海を繋ぐ構造主義ネットワーク、階層論、構造論、解離論

・あまり意識されない法則

 人間には見えるものが見えないものを遮るという法則があります。

 だから人間は見えるものと見えないものがあります。

 意識できるものとできないものがあります。

 多くの場合人間は表面しか見えません。

 中身が不明です。

 いいとか悪いとかではなくそういうものです。

 意識もそうかもしれません。

 何かに意識を注ぐと他への注意が散漫になります。

 時には全く意識しなくなります。

 絶好調の時は複数の物に意識を注ぐことができるかもしれませんがそれでも限界があります。

 そういうのを前提にして現代哲学のある種の見方、実在論と構造主義の関係を説明します。

・いろんな構造主義のアロケーションとネットワークが支える

 「巨人の肩に立って見る」ニュートンの言葉です。

 フロイトは意識の下に巨大な無意識、潜在意識、前意識と言われるような意識されない膨大な層があることを主張しました。

老荘は「無為にしてなさざるなし」と言いました。

ソシュールは言語とは記号の構造であると言いました。

レヴィ=ストロースは「われわれは見えない構造に支配されている」と言いました。

 これらはみんな同じことを表しています。

 見えること、意識できることはちょっとだけという事です。

 では見えないところには何があるのか?

 これはよく分かりませんし何でもいいともいえるのかもしれません。

 ですけど現代哲学では実在論と構造主義が大切なので実在論的なものと構造主義的な物があると考えます。

 構造があれば実物や実体はあってもなくても必要に応じてつくれますから構造だけあれば必要十分です。

 実在論はあれば十分ですが必要ではありません。

 オッカムのカミソリという知の技法があって必要ないものは切って捨てるというのがありますので実在論は切って捨てずにいったんおいておいて構造主義で見ていきます。

・テレビの例

 卑近なところでテレビを挙げましょう。

 テレビでもPCでもスマホでも何でもいいです。

 テレビならリモコンとディスプレーとスピーカー、PCはリモコンの代わりにマウスとキーボード、スマホは画面と物理ボタンです。

 要するとインプットとアウトプットに関するハードウェアです。

 それ以外は見えないし意識しないし意識されません。 

・人間の意識もテレビと同じ

 人間もテレビと同じです。

 特に精神です。

 インプットとアウトプットで中身はよくわかりません。

 インプットは感覚でアウトプットは筋肉です。

・精神の科学的体系化

 フロイトはバリバリの近代科学者で神経学者です。

 初期は生物学的研究をしていましたがのちに理論系というか精神病理学系に進み精神分析学というものを作りました。

 これは近代科学による精神の体系化です。

 これは見える意識は精神の表層だけ、見える意識に隠れて膨大な見えない意識があるという説です。

 初期のフロイトは精神の階層論というのを唱えました。

 これはフロイトが最初ではなくジャクソンという神経学者が神経のすでに階層化を唱えています。

 ジャクソンは神経学者でてんかんを研究していました。

 いわゆるてんかんとヒステリー(転換性障害、解離性障害、神経症の一種)は神経学の大きなテーマでジャクソンはどちらかというと転換を研究する神経学者でフロイトは神経症を研究する精神学者という感じになります。

 意識の背後にはそれを支える前意識、潜在意識、無意識などがあるという説です。

 これはとてもいい説なのですが説明不足でもあります。

 具体的に前意識、潜在意識、無意識が何なのか全くわかりません。

 そこで後期のフロイトは精神の構造論というのを唱えました。

 これは見えない意識の中身を説明する説です。

関係の中で精神は生まれていくそのモデルをエディプスコンプレックスという形で具体的に提示して見せました。

 「フロイトに帰れ」というキャッチフレーズでフロイトの精神の構造主義化を徹底的に勧めたのがラカンです。

 構造主義ですから精神を構造の網の目、ネットワークで説明します。

 表層に現れる実在論的に見える部分は全てネットワークの一部で表層に現れたものにすぎません。

 つまり意識というのは巨大なネットワークの薄い表層にすぎません。

・ジャネの精神の解離説

  てんかんと神経症の研究はシャルコーが一つの頂点でフロイトと違うもう一つの流れがあります。

 ジャネの解離学生つと言われるもので中枢神経を階層ではなくコンパートメントで分けて考えます。

 これも神経学ではジャネが最初ではなく古くは骨相学のガロなどがいますが近代科学による精神の体系化という意味ではジャネが最初です。

 脳科学を知っている人なら感覚や運動の対部位局在はご存じかもしれません。

 脳機能が階層的に分かれているのではなく大脳の一番表面にあって組織構築も同じような大脳皮質の部分によって機能が異なるという考え方です。

 これは精神を階層という上下関係や縦並びではなく横の関係や横並びのコンパートメントで機能がことなるという考え方です。

 階層は縦、コンパートメントは横の関係ですがもっと複雑かもしれませんし、精神や意識はもっと複雑なドメインで大まかに分かれているくらいの理解が妥当かもしれません。

 半導体回路で昔のICチップから現在の複雑な積層かついろいろなチップを組み合わせる複雑な構造を知っていればイメージしやすいかもしれません。

 半導体みたいにきっちりしていればいいのでしょうが人間の心は社会は複雑ですので明確に区別できるドメインではないかもしれませんが大まかなドメイン分けができているかもしれません。

 しかしバグやショートカットやバイパスやいろいろややこしくなっているかもしれませんが大まかな見取り図を持っておくと便利でしょう。

 ちなみに脳科学では大脳を前後、左右上下、表深などの軸やレイヤーで見ると便利です。

・マクロはドメインのネットワーク、ミクロは細胞のネットワーク

 とすると精神は大きく見ると複数のドメインで出来ています。

 ドメイン同士もネットワークをなしています。

 そしてドメインを形成するミクロな視点でもやっぱりネットワークで出来ています。

 これがフロイトからラカンに至る精神の構造論、構造主義化と言えるでしょう。

・表層は実在論、深層は構造論

 脳科学の醍醐味は解剖学的な形態学的構造と大脳生理学的な機能的構造の間にある程度相関関係がみられる点です。

 大脳皮質の表層は灰白質とよばれ神経細胞(とグリア細胞)の細胞本体が密集しています。

 灰白質の下の大きな体積は白質とよばれここは神経細胞本体から出る軸索(と樹状突起)からなるネットワークをなしています。

 アガサクリスティーの名探偵エルキュール・ポアロのセリフに「灰色の脳細胞」という言葉が出てきますが脳が灰色に見えるのは表面の大脳皮質部分です。

 そもそも細胞というのは透明です。

 色があるのはそれなりの理由があるので筋肉や血はミオグロビンやヘモグロビンの鉄の色だったりしますし、肌に色があるのはメラニンの黒だった、骨はカルシウム塩というミネラルの細胞間質のせいだったりします。

 脳細胞と皮膚やメラニン産生細胞は外肺葉由来の兄弟です。

 ミカンやノリを食べ過ぎると肌が黄色くなるのは緑黄色色素は芳香族環や共役二重結合があり量子論的に可視光を放出しやすいからです。

 特殊な理由がなければ細胞は透明です。

 だから理科の授業では染色して顕微鏡で細胞を見ます。

 つまり脳は表面だけ見えて中身は見えないけど中身は機能してます。

 

・形態的にも機能的にも表面しか見えない

 つまり多くの物事は形態的にも機能的にも表面が邪魔をして中身は見えないし意識されない、ということになります。

・例として現代哲学で精神を再構成してみる

 ざっくりと現代哲学哲学を使って精神を再構成してみます。

 分かりやすいので目に見える、意識できる表層は言語としてみましょう。

 ソシュールは大乗仏教文化圏にとっては当たり前すぎて何が斬新か分かりにくいほどですから説明は略します。

 ただ言語というものが構造主義的にできているという見解と実在論的にできているという見解を持っていただければ十分です。

 言語を表層とみると西洋的には古典的な言語観、「言語は実在論的なもの」というのが我々の日常実感です。

 しかしひとたび深く考えだすと言語は構造主義的なものになります。

 そこで西洋では記号論やテクスト論が現代思想で重点的に研究されました。

 ただ書き言葉にせよ話し言葉にせよテクストで多くを表現する言語ならいいですが世の中には言葉の情報量が少なく見える言葉があります。

 例えば日本語がローコンテクスト言語としてよく取り上げられます。

 言葉の間や何も語らない時間が意味を持ったりします。

 こういう場合はテキストで表されない部分は「行間を読む」とか「文脈を読む」とか「空気を読む」とか言われてテキストとは別の構造で説明されることが多かったですが、むしろこの間や語らない時間自体を一つの言葉、区、文、文章と考えて間や語らないことも一つの言葉として同じ構造で考えてしまった方がきれいでしょう。

 もちろんそれ単独で言葉は成り立つわけではなく他の構造の干渉は考えます。

 これの利点はきれいなことです。

 ローコンテクスト言語もハイコンテクスト言語も程度の差はあれ行間や文脈や空気に依存している面があるからです。

 表層をこれとしてその内部にこれ以外に目に見えないけど人間がよって立つ構造を入れていきましょう。

 例えば人間はそれぞで固有の神話を持っておりそういう文化人類学的な構造をレヴィ=ストロースから借りてきましょう。

 人間にも社会にも経済が必要なのでそういうのはアルチュセールのマルクス主義の構造主義でも借りてきましょう。

 政治も必要なのでリオタールのメタナラティブでもって人々を統べていくのもいいかもしれません。

 歴史も必要なのでフーコーの片々していく構造の歴史観を持てばいいかもしれません。

 文学も必要なのでロラン・バルトのテキスト論でも借りてきましょう。

 メディアも必要なのでボードリヤールのシミュレーション、シミュラークルのメディア論でも借用しましょう。

 人間の生き方も必要なのでドゥルーズ=ガタリのポストモダンの生き方を借りましょう。

 人間消費もしないと経済が回らないのでバタイユの蕩尽論でもいれてもいいかもしれません。

 フェミニズムも必要な世の中かもしれませんのでクリステッヴァのフェミニズム論も採用してもいいでしょう。

 科学技術も必要なら例えば数学は現代思想の前からヒルベルトやブルバキによって構造主義化しており理論系は全て現代学問の基礎は「知の技法」として構造主義が基礎づけています。

 基本数学、論理学、物理学は応用化学にすぎないので現在の科学技術工業の基盤は構造主義です。

 ストレス社会ですのでメンタルの健康も必要ですからラカンの構造主義的精神分析でも採用しましょう。

 といった感じでこう言ったものすべてが言語に目に見えなくても言語に影響をあたeるわけですから言語の実在論の表層の内側は全部こう像主義、みたいにしてもいいかもしれません。

・まとめ

 我々が目に見える、意識できる部分はちっぽけだということをメタ認知的に理解・納得しつつ、謙虚で寛容に生きていくのがいいのかもしれませんし、浅田彰の「逃避論」みたいに自分の主義かがを貫いて生きていくのも自由です。

 現代哲学はメタ認知が原則なので人間は自由なのです。

 それこそサルトルやニーチェレベルで自由です。

 彼らほど陰気臭くないかもしれませんが。

 だから自分のポリシーを自分で決めて考えて判断して決断して行動するいきかたが基本でそれにけつをとる(責任をとるみたいな関西弁)か自覚するしないも自由です。

 自由ですが自由であるからこそ外部条件をよく考えなきゃいけませんので失ってしまうと不可逆な古いものや自然を大切にして次の時代の地球や人類を引き継いでいくようにするのが大切なのかもしれません。