- 2025年4月28日
やさしい哲学史の中の実存主義
やさしい哲学史の中の実存主義
・転換期の哲学
近代哲学はヘーゲルで一服という感じでこれが19世紀前半です。
現代哲学ができるのは20世紀後半です。
とすると近代哲学と現代哲学の間には100年以上の間が空いてます。
その間に近代哲学から現代哲学へ変化を促すような思想がいくつか生まれますが実存主義もその一つです。
・近代哲学の特徴
近代哲学の目的は「真理を知る」です。
もっぱら存在や認識、行動規範の真理を探究します。
近代哲学はモダンフィロソフィーでデカルトからヘーゲルの哲学が典型です。
近代哲学はヘーゲルで終わったわけではないと思いますがヘーゲルで出し尽くし感というかマンネリ感や底つき感が発生してしまったようです。
結局家庭の前提を立てて理論を作ってこねくり回すだけなので何とでも言えます。
熱気が冷めて飽きられて白けられてブーム、トレンド、ムーブメントみたいなものは感情的に終わってしまいます。
今までの文脈に従って理論を作ろうとする情熱がなくなっても別な情熱が出る場合があるます。
例えば理論の現実への実践、応用で例えばヘーゲルの理論ならそれはマルクス主義になりました。
マルクス主義は古い経済学の剰余価値説みたいな主流派経済学から捨てられた仮定をずっと捨てなかったという意味でも面白い思想です。
また他方では従来の哲学に従わない思想に情熱が向かう場合があります。
その一つが実存主義です。
・実存主義の特徴
ヘーゲルまでの近代哲学をメインカルチャーとすると実存主義はサブカルチャー、カウンターカルチャーのような感じになります。
ヒッピー文化や音楽で言えばロックやパンク、ファッションのストリートファッション隆盛みたいな感じです。
実存主義がそれまでの近代哲学と違う点がいくつかあります。
1つは「みんなにとっての真理」という近代哲学の「みんなにとって」という集団主義的考え方をやめたこと。
2つ目は「真理」の重視が減ったこと。
ほかにもあるかと思いますがこの2つの視点を解説します。
そしてそれが現代哲学に発展するための因子になったことを説明します。
フランス革命では「自由、平等、博愛」と言いますが人間の平等については中世神学の唯名論でも近代哲学でも前提にしていた面があります。
それは「すべての人にとっての真理がある」という前提を仮定していたことです。
それに対して実存主義ではこの前提があいまいになります。
あいまいになるということは意識して否定したわけではなかった面もあったであろうからです。
否定するというよりは「そんなのどうでもいい」という姿勢です。
「だから何?」という姿勢でもあります。
さらには「あなたがそう思うならあなたの中ではそうなんだろう、ただしあなたの中だけではなあ」という姿勢です。
誰かある哲学者の思想はその哲学者にとっては問題であり意味があっても、「自分にとっては問題ではないし意味もない」という斜に構えたような見方、感じ方です。
これはまた「自分の考えは自分のためだけにあればよく他人に理解してもらう必要はない」あるいはもっと進めて「自分の考えは他人には理解できない可能性もある」「人間同士は理解しあえない可能性もある」ということにもなります。
これはなかなか画期的な考え方です。
デカルトやらヘーゲルやら権威のある偉い人がどういおうが自分には興味もないし関係ない、自分には自分の考えや意志があって他人にとやかく言われることもないし、人にとやかく言う必要もない」みたいなノリになります。
考えたというよりはフィーリングや感性、ムード的なものだと思いますがこれを進めて近代哲学に加え合わせると現代哲学の大まかな形が見えてきます。
個々人が同じではなく人間というくくりの中でまとめられないというのは近代哲学からすれば驚くべき斬新な考え方になります。
・真理なんかどうでもよい
実存主義の2つ目の革新性は「真理」に対する姿勢です。
「真理なんかどうでもよい」「真理なんて興味ない」といった姿勢です。
現代の日本の私たちには普通の姿勢ですし、日本に限らず昔から世俗の姿勢生活をしている人にはそうだったかもしれず、むしろ哲学者とか神学者の方が特殊だったのかもしれません。
近代哲学を見ると確かにデカルトやカントやヘーゲルの言う存在論や認識論、行動の指針は庶民にはどうでもいいやと思わせるようなところがあったのかもしれません。
何かかれらのいう真理は我々の生活に直接関係しなさそうな気がしたのでしょう。
目下の現実に目を向けて考えるなり行動した方がいいのではないか?というのが実存主義です。
近代哲学者の提案する心理は深遠な感じがします。
深遠すぎて私たちの生活や人生に直接関係しないような気を起させたのかもしれません。
直接関係ない哲学的な真理より直接関係する現実的存在について考えようぜ、というのが実存主義です。
実存とは日本語で現実存在の略で英語ではexistenceです。
ちなみに実在はrealityで実在主義はrealism、実存主義はexistentialismとなります。
どう違うのかと突っ込まれると困りますがそうなっています。
真理のことは無視して現実我々と関係があったり我々が直面する出来事、物事を思索の中心にしようというのが実存主義です。
・2つの特徴をあわせると…
まず人間誰にでも共通するかどうかなんてわからないし、個々人が考えるのはその人に関りがある現実な物事であって万人にとっての真理というものがあろうがなかろうが無視しようということになります。
現代の我々から見るとこういう風に当時考える傾向が出てきたのは多分に気分的なものに見えます。
ヘーゲルくらいで近代哲学に冷めて、しらけて、飽きてこういう風な考え方が出たのではないかという風にも見えます。
現代の我々は人間は結構感情的で論理や合理で考えているように見えてただ考えたいことを考えているだけのことが多いことを知っています。
熱量や情熱みたいなのが発生してそれがムーブメントやトレンドやブームを作って集団でそれに乗っているだけのことも多いという見方もします。
近代哲学という流行が下火になって実存主義が流行したという風にみていいかもしれません。
実際は流行したわけではなくあとで発見して取り上げられた面も多いかもしれません。
・実存主義から現代思想(現代哲学)が出てくる
英語では現代思想も現代哲学もcontemporary philosophyで同じ言葉ですが日本語ではcontemporary philosophyを現代哲学と言ったり現代思想と言ったりします。
というかphilosophyという言葉自体、思想と訳したり哲学と訳したりしますし、逆に思想や哲学をphilosophyと訳するときもあるでしょう。
ここでは現代哲学で統一します。
実存主義の気分は現代哲学では前提の仮説として論理的にきちんと取り扱われて扱われます。
すなわち「人間は全員違うかもしれない」「すべての人間に共通するものはないかもしれない」「人間共通の真理は存在しないかもしれない」「そもそも近代哲学で何となくイメージされていた真理というものは存在しないかもしれない」「近代哲学でイメージされていた真理というのはそれ以前の思想や宗教の名残でその先入観を受けけているのではないか?」などの考え方について現代哲学では正面から取り組みます。
そういう意味では実存主義はまさに近代哲学から現代哲学の移行期に位置する哲学として評価できるでしょう。
・実存主義はどんなものか
実存主義はとりあえず各自の哲学者が自分自身のテーマについて考えます。
自分が何か現実の出来事や事物の存在について感がる意欲がわいたり考えざるを得ない感じになっているのであれば、それはその哲学者にとってその事物や哲学は何か?というその哲学者の意味論になります。
またその哲学者が自分がどう行動するべきかを考える場合は、他人はどうだか知らないが、自分はどう行動するべきか、という自分にとっての行動規範だけについて考えるのであって、他人に自分の行動規範を押し付けるものではありません。
他人がどう行動するかはその人本人が考えろ、という感じになります。
人間はみな同じではないので現代の我々にとっては当然のように見えますね。
こういうことを現代哲学は「人間の終わり」という言い方で表現しました。
自分はいるかもしれないし、他人もいるかもしれないが、自分と他人が共通する何かを持っているかどうかはカントのいう物自体のように突立つできない、わからないことなのです。