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  • 2025年4月14日

中高生にもわかるデカルトと哲学の枠組み

中高生にもわかるデカルトと哲学の枠組み

・近代哲学の祖

 デカルトは近代哲学の祖ともよばれます。

 哲学史を大まかに見通すと中世は神学の唯名論と実在論の論争が重要です。

ルネサンス期を経て大陸合理論とイギリス経験論というのが重要でこれは上の神学論争を引き継いでいますが近代哲学の萌芽です。

それをいったんまとめたのがデカルトです。

それをカントが洗練させ、さらにそれをヘーゲルが洗練させたというよりはもはやフィクションのようなものにしてしまいました。

これで近代哲学はいったん終了であとは現代哲学の移行期間に入ります。

・デカルトの業績

 デカルトはモダニズムの父とも言われます。

 一つは要素還元的方法論です。

 どんな複雑なものでも理解できる細かい要素で分解してここの要素を理解してからそれらを再び総合して元の形に戻せば全体も理解できるという考え方です。

 ここの要素を理解するためにいろいろな学問領域が進歩しました。

 哲学だけではなく数学でも代数幾何学、あるいは座標幾何学の創始者とも言われます。

 要するに中学で習う中枢額です。

X―Y座標を使って方程式で図形を示して幾何学をといたり形を方程式にして代数学で幾何学を解く数学です。

 古典的な物理学の空間概念や存在概念もデカルトです。

 元素論や量子力学のようではなく空間は連続で物も剛体のように扱います。

・コギト エルゴ スム

 哲学や文学のような人文科学系の教養を持ち上げる風潮のあった1990年代ごろまでは「コギト エルゴ スム」「我考える、ゆえに我あり」というのは有名な言葉でした。

 ラテン語ですがコギトは英語でいうと認知を表すcognitionや認識を表すrecognitionとしていまもいろんな領域で使われています。

 エルゴは「ゆえに」という接続語です。

 「sum」は英語でいうと一人称単数の「am」と一緒でこの場合は「存在する」の方の意味です。

 ラテン語も英語も同じ言語グループなので似ています。

 主語がないのはラテン語は屈折語で格変化をしっかりするので主語を省くことができるからです。

 コギトとスムから近代哲学は認識や存在が大事な概念とわかります。

 はっきり言って近代哲学以降は哲学の主役は「認識論」と「存在論」になります。

 「我考える」と「我あり」には現代では中心の形式論理学的には何の関係もありません。

 独立な考え方です。

 これをエルゴ、言い換えれば「ならば」ということですが、含意、すなわち⊃、→で結ぶのがデカルトや近代哲学のポイントです。

 デカルトの時代は17世紀ですからブールやフレーゲのような形式主義記号論理学の前なのでおそらくデカルトが勉強した論理学は中世の三段論法論理学やアリストテレスの古代論理学だったと思います。

 つまり「我考える」と「我あり」は独立ではなく関係があると言っています。

 こういった面からのちに発展するポスト構造主義のメタ認知的側面もあるということです。

 この2つの命題を関係づけることはデカルトは自分で作ったルールというよりは神様の誠実さと考えてしました。

 つまり自分で世界を作る、言い換えると理論を作ってそれがたまたま現実と一致しているという考え方でなく世界の真実の在り方を発見したと主張するような態度になっています。

 「我考える」と「我あり」を関係づけるだけでなく我のことが他人にも当てはまるという考え方もうかがえるのでこういうところでもメタ認知的であり、これも神の誠実の保証ないでしょう。

・現代の我々とモダニズム

 上のデカルトの考え方は当たり前ではないかと思えるかもしれません。

 まったくその通りでこれを当たり前と思える感性を現代の我々も持つべきでしょう。

 近代やモダンではなく現代とポストモダンとかコンテンポラリーと言いますが現代のポストモダンでコンテンポラリーに生きている我々も普通にモダニズム的な感性は持っておいた方がいいのではないでしょうか。

 歴史的な見方ができると便利です。

 その割には上述ではモダニズムやデカルトに批判的に感じられる向きもあるかもしれません。

 ポストモダンはまあある意味の批判もあるかもしれませんし、歴史は新しいものが出てきたとき闘争とか政治的とか感情的な要素などが入ってきて他方に対して排他的な論争や物理的な戦いが行われる場合もありますがこの場合は落ち着いてみれば両社落ち着いて共存して一段上の目から比較する視角を獲得したり必要において新旧の見方を同時に、あるいは切り替えてできるようになればベストではないでしょうか。

・学校教育との関係

 高校で量子力学や今では情報科学を習う時代になりました。

 大まかにみて大学より前は初等教育でモダニズムを刷り込みます。

 大学に上がるとモダニズムへの懐疑を植え込むか、うまく言えばモダニズムに大体できる考え方を学べます。

 物理学なら量子力学ですし数学なら集合論や圏論があるということが分かればいいでしょう。

 そのうえ最近はITコンサルタントが爆発的に増えましたので量子やら論理やらシステムやら情報やらを少しは知っているふりをしないといけないといけません。

 こういうのはモダニズムは通用しませんしモダニズムだけではプロっぽくなく見られてしまいます。

 ポストモダニズム的な見方が教養というか手習いとしてふりだけでも必要な時代ではないでしょうか。