- 2025年2月12日
- 2025年2月21日
かんたんな現代思想の倫理・道徳、近代までとの違い
現代思想は古い意味での倫理道徳はない
現代思想のポスト構造主義では昔ながらの道徳というものはありません。
あるとするとそれは昔ながらのものと違ったものになります。
昔ながらの道徳は勧善懲悪であったり、善悪であったり、こうした方がいい、こうしない方がいい、であったりこれはダメでこうしなくてはいけないというものです。
これは現代の我々も普通に持っている感覚です。
それに対して現代哲学がもし道徳を持ち得るならざっと2つの形があります。
意志の道徳とすべてを考えつくす道徳です。
あくまで中立的
現代哲学のポスト構造主義はいろいろな考え方を提起することを志向します。
できれば全ての考え方を網羅できればいいのですがすべては無限に通じ無限の処理には制約が必要ですので現実的には考えられる限りすべての考えを出し尽くすことを志向します。
そしてそのすべてに対して、その成否や善悪、真偽という考え方を排除してメタ認知的に中立で気に見ます。
これ自体が実は道徳的とみることができます。
今はやりのダイバーシティ、多様性の尊重というものと重なるかもしれません。
それは同時に謙虚さに重なるものでもあると思います。
仮に何かをしなければいけない、してはいけない、また、した方がいい、しない方がいいという見方をしたときにそれとは全然別の角度からの見方もしますし、その反対の見方もします。
した方がいい、しない方がいいとか、しなければいけない、してはいけないと内面に生じる感情のようなものを疑ったり解体したりします。
感情や感覚が自然に生じるものは仕方がありません。
それ自体を抑圧して自分の中でなかったことにするということともちょっと違うものです。
そういう感情や感覚もあってもいいしあるべきです。
ただそれにカウンターを当てるような考え方も同時に提案すべきだということを自然に推奨することになります。
仏教でいうと中観や中道の考え方になります。
この考え方は仏教の大乗仏教では中核です。またこういう考え方自体徐々に現代を通して一般人の我々にさえ浸透してきていると思います。
これは換言するとメタ認知を持つべきだという倫理になります。
これはだいぶ頭を使います。
頭の中でも知能を使います。
意志の道徳
「力への意志」「権力への意志」この言葉はニーチェなどかじっている人には有名ではないでしょうか。ニーチェは現代哲学の走りです。
ニーチェの哲学、というか思想に超人思想というのがあります。
一言でいえば自主性、主体性を固めて思考、行動を自分の意志で決めて実行しろというものです。
ポスト構造主義や中道や中観の考え方では自分以外の外部から、他人がこうしなさい、こうしたらだめだという働きかけに乗せられることに抵抗します。
何かを決断して行動するときは全て自分の意志です。思考して、判断して、選択して、決断して、実行して、結果に対して欠を持つのは全て自分です。
これをするのが超人です。
「力への意志」「権力への意志」というと「力」とか「権力」の方に注意をとられがちです。
独裁者や独善主義のように感じて反感を感じてしまう場合もあるのではないでしょうか。
しかし主眼は「意志」の方に置く見方が大切です。
先ほど、思考、判断、選択、決断、実行、けつもちが大切だと書きました。
ニーチェのこの言い方だとこの選択をする基準が「力」や「権力」、もっと広くとれば欲求や欲望、意欲にあると読み解くことができます。
そういったものはどちらかと言えば個人の内面に根差したものでざっくり行ってしまえばその人の好き嫌いともいえます。
フロイト流に言えばリビドーだったりイドだったりするのかもしれません。
仏教でいえば「随処に主となれ」、孟宗でいえば「百万人といえども我ゆかん」みたいな絶対的に自分の自主性や主体性に道徳をゆだねる考え方です。
他方で古い道徳論ではもうちょっと外部から規定される、あるいは強制される道徳を重視します。
その外部のどう特に従う根拠はなんらかの思想に基づいてそうあるのが正しいとかそうでないことは禁止されているとかそういうものが根拠になります。
現代思想は仏教ではそういった外在的な正しさや禁止の根拠の絶対性を認めません。
よるべきものは自分のみです。
それをニーチェなら「意志」や「超人」と呼びますし、サルトルであれば「自由」と呼びます。