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  • 2025年1月4日
  • 2025年2月2日

かんたんな哲学の抽象と現実、想像、象徴

哲学の対象は時代で変わる

哲学の対象は時代とともに変わります。

哲学の語源は古代ギリシア語の「知を愛する、好む」philosophyですが元素論があったように自然科学が含まれていますし、哲人政治のような国家論もあったように社会科学も含まれています。

ざっと見、弁論家、ソフィスト批判があったように修辞、レートリケー(レトリック)的な物には批判的で、ロゴス、ロジカルさや論理的であることを後期というか、ソクラテス、プラトン、アリストテレスは重視しているので人文科学とはやや距離を取るようになっていったように見えます。

ただ批判しているのですから頭は突っ込んでいるので人文科学、つまり修辞のみならず倫理、道徳みたいなものも射程に入っています。


中世、キリスト教時代

神学も大学も修道院も神学が特別な地位を占めていきます。

中世大学の上級過程、中世専門4科は神学、法学、医学、哲学で哲学はその他みたいな感じになっています。

近代哲学でテーマとなる存在論や認識論は神学の方で行われていてしかも対象が聖書や神という宗教がらみな感じになっています。

歴史や伝統は大切でルネサンス初期から近代哲学でもそういう流れを引きずります。

近代哲学のチャンピオンぽいのはドイツ観念論のヘーゲルですがヘーゲル哲学は味方によっては宗教染みたイデオロギー的な物になっていてマルクス主義に引き継がれます。

変な話ですが20世紀に隆盛を極めたマルクス主義は現代より前の近代のいろんな学問のいいとこどりというか寄せ集めみたいなところがあります。

人口論や剰余説などの初期の経済学や、初期の社会主義や社会進化論、というより聖書の終末史観とヘーゲル哲学の組み合わせみたいなもので、現代から見れば20世紀には型落ちな科学から出ていましたが理想主義的というかお花畑適当いうか宗教的というよりイデオロギー的で信仰するかしないかの現実主義と対立的で各方面と対立する感じになります。

20世紀の特に日本の論壇などの思想状況は単純化すればマルクス的な社会主義、共産主義を信奉するかその他の2つでした。

理工系や産業界、与党の自民党などの実業、実学は現実的にならざるを得ないので後者のその他とみなされて主義者の人たちからは執拗に攻撃される感じでした。

近代哲学の応用系がマルクス主義とすると近代哲学の進化系が現代哲学で哲学の基礎を深堀りしたものです。

現象学や実存主義やニーチェみたいになって宗教や現実的でないものや厳密でないものを哲学からそぎ落としていった結果、現代哲学のテーマは認識論と存在論で特に「現前」というものの研究が焦点になります。


何が抽象化か

抽象化というのも意味があいまいな言葉です。

近代西洋科学では具体的な事物から法則や理論や原理を抽出する、演繹するのが抽象化ということでまとまっていたのかもしれません。

哲学が扱うものが「現前」が中心となってきたのが現代哲学みたいなことを書きましたが「現前」自体は抽象でも具象でもありません。

現代では抽象という言葉自体が近代ほど使われないようです。

そもそも近代以前はなんとなく抽象的な方が具象的より位が高いイメージがありましたが現代ではどちらが上下ということもなく平板に同じ地平で扱います。

現前」のまた別の分類はラカンの「現実」「想像」「象徴」という分け方があります。

発達心理学のピアジェなどの人間の知的発達論では前操作期、具体的操作期、形式的操作期と分けています。

前操作期が直観的な試行段階です。

形式的操作期はなんとなく抽象的な思考を連想させますがそういう名づけをあえてしていません。

多分「具体的操作」と「抽象的思考」が基本的に別のものだからでしょう。


抽象化でくくれない

例えば自然言語で書かれた物語を読むとしましょう。

言語は記号で、記号は象徴です。

自然言語はそれ単体で存在しているのではなく言語を取り巻くいろいろなこと、外部環境や読み書きする人の精神の形が関係するのでそれ単体で成立しにくいものでいろんなところに開いています、記号、特に論理や数学、コンピュータのコードみたいなものならだいぶ閉じています。

物語なり自然言語の文書を読む際にはイメージ化、肉付けが必要になります。

これを具象化と言ってよければ具象化です。

想像する」と言ってもいいかもしれません。

フィクションでもノンフィクションでも「現実的に思い浮かべる」ともいえるかもしれません。

逆に自分の頭の中の想像や現実的なことを言語化するのは抽象化と言えるでしょうか。

現実から理論や法則や原理を取り出すことが抽象的と言えるなら抽象的かもしれません。

ただ言葉にするということは逆に抽象、あるいは捨象ではなく肉付けするような具象的な作業である場合もあります。

現代思想の見方では演繹と機能とか抽象と具象とか認知とメタ認知という風に脳や精神や心をとらえません。そういうのは、構造主義の観点では同じ次元で同じ地平にあるものです。

認知を認知するからメタ認知でメタ認知の方が認知より上みたいに思うのは味方によってはありかもしれません。

ただ認知にせよ、メタ認知にせよただの構造でどっちが上とかそういう見方を付け加えたければ付け加えてもいいですが、付け加えずにただの構造としてみても構いません。

現実界と想像界の関係も同じようなものです。

現実を知覚してそのあと近く遮断して頭に思い浮かべればそれは想像と言えるかもしれません。これは特に抽象化とか具象化とは言わないと思います。

頭に思い浮かべる過程で意識的・無意識的に抽象化や具象化を行っている部分もあるかもしれませんがそれは置いておきます。

逆に想像を現実にするという方向性もあります。これは頭の中でするならよりリアルに想像するということかもしれません。

想像を外界に形にするのはこれは人類の技術革新とともにすごい勢いで進むようになってきました。

想像と現実を合わせたような言葉が流行ってきたりして、ヴァーチャルリアリティや仮想通貨などです。


現代的な抽象化

ヒルベルトの弟子の高木貞治が書いたような数学の古い本を読むと現代数学のことを「抽象数学」という言葉がよくつかわれています。

数学の形式主義化は数学の抽象化ととらえられたのでしょう。

逆に数学にとって抽象化とは現代においては形式主義化を指すとみることができます。

抽象化という言葉は近代にはよく使われたのでしょう。

近代は、抽象化の果てに世の中の真理に至るようなロマン主義や神秘主義があったのではないかと思います。

現実の現代は、そういうセンチメンタリズムを廃した難しいけど学習すれば理解できる形式や構造というものだけが残りました。

抽象、真理、ロマンとかを安易に使うと陳腐化してしまいますが、形式や構造もだいぶ古い言葉となってきてるのかもしれません。