- 2024年12月27日
- 2025年2月1日
かんたんな象と哲学、現象と現前、象徴界と想像界と現実界
重要なことば
人間の内面を探究する場合、非常によく使われることばというより字があります。
「象」です。
「現象」「表象」「象徴」「抽象」「具象」「捨象」「対象」「心象」などです。
試しに「象」の使用を禁止してみれば説明がしにくくなります。
人間の内面を表す学問はこの字を使わないと困るでしょう。
哲学、心理学、認知科学、精神医学などです。
似た字に人偏を付けた「像」があります。
こちらは「想像」「肖像」「石像」「彫像」「偶像」「写像」などで具体的な物を物で模造や模写したようなものを表します。
人偏がついてない「象」の方は人間の心の内面を表すのに使われるようです。
哲学では「現象学」とか「象徴界」とか重要な分野のタイトルやタームに「象」が用いられるので解説します。
現象学とは・・・
「現象学」は数学の基礎を研究していたフッサールが哲学に転身して開いた学問です。
数学の基礎をめぐってはいくつかの方向性がありました。
数学内部では論理主義や形式主義、直観主義などが論争の中心となりました。
フッサールは数学的対象とは何かを心理学的に追及していく過程で対象を数学に絞る必要がなくほかの物事全てに対象を広げられるためか哲学に転身したようです。
「現象」という言葉は広くとれば世の中のすべてです。
私たちにはいろんな物事が「現象」してきますがその中でどこまでを学問の範囲として扱うのかが現象学の焦点です。
ここから発展してなぜある物事が私たちに現象するのかを考えたりします。
そういう方向の発展として例えばフッサールの弟子のハイデガーなどが現象がなぜ生じるかなどの意味論の方で理論を作っています。
現前とは・・・
いろんなものが私たちに現象として現れますが特に私たちが現象の中で注意する対象を現前と言います。
現前はリアリティを持っていて実在するのが当然のように感じます。
私たちの外の世界、すなわち現実の中で私たちがそれを知覚すればリアリティがありますから現実に存在する実体と感じます。
我々の外の物事でなくても私たちが想像するときにリアリティのある思考対象はやはり実在する実体のように感じたりします。
そういうのを、ひっくるめて哲学では「現前」といいます。
現象は全て現前から成り立っているわけではないかもしれませんが、現象の中で注意を向ければ現前として感じられるものもあります。
見えていても見ているとは限らず注意や意識を強めることで厳然として強く意識されるようなものが現象の中にはあります。
多分現象の中にははっきり意識化できないものもあるとは思いますが現前はそれ以降の哲学の中心になるテーマとなります。
現代哲学のテーマは現前の脱構築と言ってもいいでしょう。
リアリティを感じるから存在するとは限らない
人間はリアリティを感じるものに引っ張られます。
リアリティを感じているからそれを実際に存在する根拠としたりします。また、そこまではいかなくてもリアリティを感じる以上はその背後に何らかの原因としての実体があるのではないかと考えがちです。
でもリアリティがあるから実在するわけではないのは個人の認識どころか最近は社会全体がそういう風になっています。
オールドメディアもネット情報もリアリティはあるのですが全く実体のない乗法であったりするのが驚くべきことにむしろ普通になってきました。
哲学的にはリアリティや実在なんて信じた方が負けというのが哲学的には当たり前だったのですが、私たちの日常生活のあらゆる情報が信じられないものになってきました。
しかもそれは普通に多くの人がそういうものだと認識するようになってきました。
健全な懐疑主義や主体性を持つのはいいことなので偽りであろうと偽りでなかろうとリアリティを事実や実在に直結しない人が増えることは多分いい傾向なのでしょう。
世界の3つの分け方
この文章では世界と現象を同一視したように書いているので「世界の3つの分け方」とは「現象の3つの分け方」と書いてもいいです。
昔「哲学は終わった学問」という文章を書きましたが見方によっては哲学はだいぶ早い段階に終わっています。
昔、哲学に進んだような才能がほかの分野に流れて現代哲学は他の分野からの新しい概念の取り込みで成り立っていたような感じです。
なんとなくサルトルは小粒な感じがするので、ハイデガーくらいが最後の大哲学者というような気がします。
間が空いてデリダが哲学を集大成したような感じですがこれは同時に哲学の終焉でもあったと思います。
哲学というのが流行らなくなりますが現代思想というものが流行るようになります。これは、いろんな学問分野からの混在です。
第二次世界大戦中は哲学どころではなかったためかニーチェやハイデガーが政治利用に利用されることもあったようですがもっと実学的な画期的な発明が多かったように思います。
戦後は、構造主義ブームが起こって、各分野の学問が構造主義化されてポスト構造主義に至るのが現代思想の流れだと思います。
哲学は認識論と存在論
昔は、いろいろなものが哲学に含まれていましたが、だんだん範囲が狭まってきて哲学の2本柱が認識論と存在論になります。
そのためか精神医学や心理学のような分野の成果が哲学に流入してきました。
その中で代表的な一人としてラカンが挙げられます。
ラカンは世界、あるいは現象界と現前を3つに分けています。
1つ目は「象」の字のつく象徴界、2つ目は「像」の字がつく想像界、3つめが「現実界」です。
象徴界は言葉や記号を含みます。
言葉は記号の一種なので広い意味では言語学は記号論の一分野と見ることもできます。
想像界が扱うのは頭の中で思い浮かべた想像、あるいは我々の外部ではなく内部から引っ張り出した、あるいは生じた表象です。
現実界が扱うのは我々の外部の世界プラスその世界を知覚している時に生じている我々の内面の表象です。
それぞれが現象と言えますし意識を志向すれば現前です。
意識を注ぐことをフッサールはノエシス、意識が注がれる対象をノエマということがありますが現代思想ブームのあとに一般に定着しなかったので専門用語になります。
具象、抽象、捨象
数学の基礎を探究するときフッサールは現象学の方向性に向かいましたが、数学の主流派は構造主義、数学的に言うと、形式主義の流れに行きました。これは、現前とは何かを哲学の存在論の中の実在論とは別の仕方で説明する流れです。
構造主義のレヴィ=ストロースも言語学のロシアンフォルマリズムなどの影響を受けています。
フォルマリズムは、形式主義と訳しても構わないかもしれません。
抽象化を突き詰めると論理主義、形式主義、構造主義みたいなものが出てくるようです。
抽象的過ぎて自動化できますので適切な道具、機械や電子回路があれば人間の代用すら可能です。
自然言語にせよ、プログラミングコードにせよ、HTMLみたいなものにせよ、人間が読み解いて具象化して肉付けしないと人間の心の内部では想像、空想、表象できないものです。
逆に自然や外界、現実を表現するために人間は言葉や象徴と使います。これは現実を捨象している面と、修辞的に飾って詩のように具象的な付加価値をつける場合もあります。
想像も同じです。
文字で書き表されたもの、言葉で発せられたものを頭の中で具象化してイメージすることで人は言葉を理解し納得した実感を得られます。
逆に想像を言葉にして文学作品を作ることができます。
韻を踏んだり字数を調整することもありますし、言葉を飾ることも多いでしょう。
逆に、より正確な描写や事実の陳述というのを言葉に求める場合もあります。
コンピュータのプログラミングコードと違ってこっちは一対一対応するものではありません。
自然言語は解釈の余地が生じえます。
解釈の余地なく正確な伝達を望むのであれば形式化した記号表現にする必要があります。
あいまいな部分は捨象して切り捨てることになります。