- 2024年12月24日
- 2025年2月1日
かんたんな数と数学は何か
まず結論から
まず数学は数(だけ)を扱う学問でありません。
それは置いといて数をここでは実数とします。
数学では、まず実数を作ることから始めます。
実数を作るために公理というのを作ります。
作り方はいろいろあると思いますがここでは私たちが子供時代から習得する順番で、あるいはそれぞれの数学のサブスペシャリティの観点から3つの大きな公理群を説明します。
その3つは①順序の公理、②計算の公理、③連続性の公理となります。
数学とは受動的に何か実在するものについて考える学問ではなく、能動的にリアリティを作り上げる方向性の学問ということを説明します。
よくわからないうちに勉強させられる
どんな学問でも基礎が大切です。
基礎が大切ですのでちゃんと学問や研究は基礎を大事にします。
そこで問題なのが初等教育です。
小中高校では基礎を大切にしません。
なぜを追求しません。
反復反芻訓練を課されます。
小中学校では「勉強をする」「学習する」「教育を受ける」といいますが「学問をする」「研究をする」とは言いません。
小中高校は「勉強」「学習」「教育」をするところで「研究」「学問」をするところではありません。
そういうのは「大学」や「大学院」や「研究所」で行うことになっています。
基本小中高校では探究をしません。
個々の演習問題やテストの「問題」については探究するのかもしれませんが、「~とは何か」については勉強しない、というかさせません。
根本的に問いすぎると精神疾患発症の場合がある
上の文章は小中高校を下げて、大学、大学院を上げているように見えるかもしれませんがそういう意図はありません。
そもそも物事には、いい面と悪い面があるという見方を大人はした方がよいです。
小中高校のやり方の良さもありますし、大学、大学院のやり方の悪さもあります。
「根源的な問い」これは適当な力加減でやるのはいいのですが本気の大真面目で全力投球すると例えば思春期では精神疾患発症のリスクが高まります。
昔はそういうのをひっくるめて「考えすぎてノイローゼになる」みたいな言い方をしました。
ノイローゼはニューローシスのドイツ語読みで日本語は神経症と訳します。
実際にはノイローゼどころかサイコーシスを起こします。
サイコーシスは精神病で10台は統合失調症の減弱したもの(ATMSといいます)、20代前半は統合失調症の後発年齢なので注意が必要です。
最近は精神病から独立してしまいましたが昔は精神病だった気分障害(うつ病、躁うつ病)なども発症しやすいのでやはり注意が必要です。
数と何かから考える
「数学」というくらいですから数学の基礎を考えるのに『「数」とは何か』を考えてみましょう。
数学は多分mathematicsの翻訳語だと思います。
Mathematicsはギリシャ語で「学ぶべきもの」という意味です。
「数の学問」というわけではありません。
しかし、そういった事情は置いておいて数について考えましょう。
「数」の中でも「実数」に限定します。
小中高校までで実数については一通り習います。
「実数とは何か」ではなく実数の使い方です。
つまり、まず応用と実践を習います。
欧米では「教育とは社会に円滑に適応させるもの」という教育観があるので先に使い方を教えるのはそういう意味でも妥当かもしれません。
教育は英語ではeducationです。
ラテン語が語源ですが「外に導き出す」という意味です。
学生から社会人に導き出すという意味でぴったりな言葉かもしれません。
大学の教養では「数とは何か」を習いません。
下手すると専門の数学科に行っても「数とは何か」をあいまいなまま終わってしまうことも多いでしょう。
数学科も美大と同じく「100人いれば99人の犠牲と屍の上に1人が立つ」学問みたいなところがあるので才能と運任せみたいなところがあるのかもしれません。
ちなみに大学、大学院は小中高校と違って高等教育機関とされます。
教育の他に研究もします。
むしろ研究のために教育をすると言ってもいいかもしれません。
大学の教養で必修なのは理系では「微分・積分」と「線形代数」でした。
現在は違うかもしれません。
大学は、教養も専門も研究よりは教育のニュアンスが強い世の中になってきました。
研究は大学院でというのが世の中の流れです。
大学の数学科で習う実数
大学の数学ではきちんと数とは何かから教えます。
数学基礎論や数理論理学というのもあってそういうのも教わるでしょう。
現代の数学は形式主義、公理主義という名の構造主義を基盤に置いています。
形式主義、公理主義の下では数を実在のものとして教えません。
別に現代数学でなくとも数というのは具象化されて存在していません。
我々の頭の中で観念や概念として存在するか、アラビア数字みたいな文字として存在するだけです。
アラビア数字を数の具象化と言えるかというとちょっと違います。
プラトンのイデア界みたいなところに行ければ実体として存在するのかもしれませんがイデア界に行ったことがある人はいないのではないでしょうか。また、現代数学の数の扱い方は大きく2つです。
まずは数は作るものとしてとらえることです。
もう一つは数以外の他のルールから導き出されるものとして扱うことです。
後者の他のルールというのは私たち人間が作るルールです。
現代より前の近代物理学が持っていた自然界から法則や原理や理論を抽出するという考え方ではありません。
自然界とかイデア界とかは置いといて我々が言葉であるいは記号で規約を作ります。
その規約から導き出されるという意味では後者もやはり数を作るという見方で前者と変わらないということになります。
数を構成するとか別の表現をされる場合もありますが同じことです。
別に観念的な、英語で言うとイデアルな数を否定しているわけではなくてそれがなくても別に小中高、あるいは大学の教養や数学科を含めて各学部各学科で行う数学は形式主義を基礎に同じように使えることがポイントです。
俺に加えて小中高で培った観念的でイデアルな数の概念は形式主義さえあれば必要ないことも意味しています。また、くりかえしますが形式主義や公理主義を知らなくても通常の応用的な数学の使用や現実への適用には問題ないことも強調しておきましょう。
実数作成のルールがある
現代数学は上で説明したように数学するための材料を作ることから始めます。
「数学」ですから数学するための材料として「数」を作ります。
数を作るには公理というルールを作ることと一緒です。
公理の作り方は現代数学の父ヒルベルトが教えてくれます。
ヒルベルトの場合は幾何学を公理化したのですがその例を見てみましょう。
ヒルベルトは『幾何学の基礎論』という本の中では最初の第一章から幾何学の公理が提示されます。
幾何学の公理は大きく分けて5つです。
Ⅰ.結合の公理
Ⅱ.順序の公理
Ⅲ.合同の公理
Ⅳ.平行の公理
Ⅴ.連続の公理
です。
Ⅰの結合の公理は8つの公理からなっています。
同じくⅡの順序の公理は4つ、Ⅲ合同の公理は5つ、Ⅳ平行の公理は1つ、Ⅴ連続の公理は2つの公理群からなっています。
ついでに第二章は無矛盾性や独立性の議論になっています。
公理は十分であればよいので公理に重複があってもいいかもしれません。
つまり同じことを言っている公理がいくつかあったり、他の公理から別の公理を導き出せてもよいかもしれませんが簡素化やおそらく一意性があった方が、証明や公理から作られる数学の体系がすっきりしやすいと思われるためか、同じことを表している公理を重複させない傾向にあるようです。
なので公理系は必要十分な形で作ります。
ルールから始まるのは昔から一緒
そもそもヒルベルトの現代数学以前から数学は最初に公理を書くのが習いです。
ユークリッドの原論がそうです。
最初に定義、公理、公準をかいてそこから数学を展開します。
現代数学では定義は無定義語や無定義概念という考え方から古典的な意味での定義というのはなくなり、公準は公理と一緒にしてもいいので一緒にしました。
これから説明する数というものはここでの「無定義語」や「無定義概念」になります。
定義はないといったが・・・
上では定義はないと書きましたが実はヒルベルトの幾何学基礎論は「定義」から始まっています。
冒頭第一章五つの公理群、の§1は「幾何学の構成元素と5つの公理群」からなっていて本文が「定義」というのから始まります。
ただこの「定義」がユークリッドのものと全く異なります。
ユークリッドの定義は「点とは面積がないもの」みたいな感じで点というものの実在を前提に書かれています。
ヒルベルトの場合はどうでしょうか。
本文を引用してみましょう。
『定義 我々は三種類の物の集まりを考える:第一の集まりに属するものを点と名付けA、B、C、・・・を持って表し;第二の集まりに属するものを直線と名づけa、b、c、・・・をもって表わし;第3の集まりに属するものを平面と名づけα、β、γ、・・・をもって表す:また点を直線幾何学の構成元素、点と直線を平面幾何学の構成元素、点、直線および平面を立体幾何学または立体の構成元素という。
われわれは点、直線、平面をある相互関係において考え、この関係を表すのに「横たわる」、「間」、「合同」、「平行」、「連続」などの言葉を用いる。そして幾何学の公理によってこれらの関係を正確に、かつ数学上の目的に対して完全に用いる』
と記載しています。
定義はこれだけです。
これだけ読んでも点や線や平面がどういうものかイメージはわきません。
むしろわかなくていいのです。
点や線や平面は幾何学の公理によってどんなものか表されると書いています。しかしそこで表されるものが中学の幾何学で習ったような図によるイメージである必要はありません。
そして、あわされるものがユークリッドのいう広さのない点や幅のない線である必要もありません。そういうイメージによる表象を捨象してAとかαとかでしか扱いません。
そして何かの低利の証明は図によりイメージ化される必要もありません。
むしろプログラミングのコードのように、代数的に文、広く言うと記号列で機械的に行っていきます。また、ポイントは点が何なのかは公理を決めることであとから決まるものであること。
つまり公理で点というものを作るということです。
ついでに言うと幾何学をするのに記号論理学や数学の証明のように記号列だけで定理の証明などができてしまうのがポイントです。
中高の数学で自然言語と記号(方程式や関数)を絡ませて証明を行いますがそれをさらに推し進めて自然言語部分を定型化して決まった表現の組み合わせにしてしまう感じです。
公理からの証明をすべて定型化、形式化してしまいます。
これを幾何学で例示して見せたのがヒルベルトです。
形式化
ある種の組織では形式化を積極的に進めます。
形式化、これを進めていくとその人でなくて良くなります。
さらに、そもそもだいたいの道具や機械があれば人でなくてもよくなったりします。
SF小説というジャンルが出てから、あるいは近代が順調に発展して人々が頭に思い浮かべるのは機械やコンピュータに人がとって変わられることです。
前節までの解説では形式は簡略化、汎用化をもたらすもので学問をシンプルにするイメージになっています。ただスピードと量が膨大になると意味が変わってきます。
膨大な量の情報をたくさんの情報処理の仕方で情報処理する。
これが可能になると形式というのは個々のパーツは単純でも全体として複雑化します。
簡単にいうとITからAIになります。
数とは何か
数の定義は実は簡単ではありません。
実はヒルベルトの幾何学と同じく現代数学では数を定義しません。
ヒルベルトの幾何学基礎論の冒頭で上げた定義のようなものをそれを定義と呼べるのならば冒頭でしてもいいかもしれません。ただ、やはりユークリッドの原論のような点や線の実在論に基づく定義ではありません。
公理から作られる、という宣言としての定義です。
数とは何かは公理とかいう面を離れてもいろいろ議論したいところはあるかもしれません。
そういうのは置いといて数とは小学校以来習った自然数や整数、有理数などの系列の実数と指すものとします。
幾何学の点や線や面のような要素と同じく、現代数学では実数も公理で作られたんのです。
実数の公理というもので規定されています。
実数の公理をまとめた本がないかググってみましたがざっと見てみましたが上位には出てきません。
実数もいくつかの公理で作ることができます。
実数の公理については誰かが決定版をだしたとか、この本が定番とかそういうものはないようです。
多分実数の公理もいろんな形で表すことができますが、大きく3つくらいに分けて考えるのがよさそうです。
1つ目は我々が誕生してから最初に習う数の在り方で「ものを数える」という性質です。
集合論の観点からこれを「順序の公理」としましょう。
2つ目はその次に数について習う計算の性質からの公理です。
これを代数学の観点から「計算の公理」としてみましょう。
四則演算だけでなくいろんな演算がありますがそういうのは全てで公理を作っといてもいいかもしれませんし、四則演算の公理でほかの演算も導き出せるかもしれません。
そもそも実数という観点で見れば加法と乗法があればよく、減法と除法はいらないかもしれません。
3つ目は連続性の公理です。
実数を座標系のx軸上のxの値としてみると実数というものは数直線上に隙間なく存在しているのが当たり前と思っています。
この「当たり前と思っている」のを保証するのがこの公理です。
逆に言えばこの公理がなければ実数は連続とは限りません。また、実数が連続でない公理をこの公理の代わりに付け加えて新しい数学を作るのも可能です。
実数の連続性は公理であるため他の公理から証明するものではありません。ですから「実数がなぜ連続といえるのか」と問われれば「公理でそう決まっているから」と答えればよく、逆にそれ以外の答えはありません。