- 2025年2月1日
- 2025年2月2日
やさしい、倫理、道徳、哲学の関係
まずは語源から
私たちは近代西洋文明の影響をものすごく受けているので哲学や倫理や道徳もやはり西洋近代文明の圧倒的な影響を受けています。
そもそもが江戸時代に日本にあったり使われたりしていた言葉ではなく西洋語の翻訳だったりします。とすると語源で考えると分かりやすいので語源を見ます。
哲学は倫理は「ethics」、道徳は「moral」、哲学は「philosophy」になります。
Ethicsやmoralは慣習や風習を表すものになります。
この中で道徳は小学校で学科として授業に組み入れられています。
戦前は修身といいました。
修身斉家治国平天下という言葉が中国古典にありそこからとられたものかもしれません。
これは人間の行動のありようを教えるものです。
それが戦後に道徳に変わったものです。
戦前は修身の教科書や教育勅語など教えることがはっきりしていましたが、戦後は何を教えていいのかわからず教師の裁量的な強化になりました。
小学校の強化としての道徳はともかく、普通道徳という言葉を使う際の意味は比較的はっきりしていて「正しい行動の規範」みたいな感じです。
philosophyは本来単純なはずだった
哲学のphilosophyは直訳すれば「知を愛する」「知を好む」でなんでも知ろうとすることで方向性にかかわらず好奇心からの研究や向学心全般でした。
知的探求、新規性探求、好奇心からの研究、勉強という意味で言えば非常に広いもので大学で博士号をとるとdoctor of philosophy、Ph.D.などの称号を得ることができます。
法学は知りませんが医学では医学博士、メディカルドクターというものもあって大学を卒業すればだれでも取れるので医者かどうかを判別するだけのもので、持っていても特に医者からリスペクトされることはありません。
リスペクトどころか別にPh.D.も持っていないと大学の助教になれても講師以上にはなれません。
時代が下ると哲学は自然の研究は自然科学にとられ、社会の研究は社会科学にとられて人文科学系の、しかもその中の一分野になってしまいました。
扱うものは様々です。
その扱うものの中には倫理や道徳が含まれる場合があります。
哲学から倫理へ
道徳が小学校の教科にあるように、倫理も高校の教科に入っています。
社会科の中の倫理がそれです。
この高校倫理で教えられることの中には哲学も含まれています。
先ほど昔の哲学は、すべての学問を指すみたいなことを書きました。
現在は、倫理学はすべての思想を対象に含むような感じになっています。だから各種宗教も含まれますし、哲学も含まれます。
そうすると倫理というのは慣習や風習、善悪の価値体系という道徳と同じような狭い意味と、それを含めて宗教や哲学を含む人間の思いなし全般を含む広い意味があるようです。
哲学は道徳を扱っていた
比較的最近、特に近代は哲学は道徳を研究分野としていました。
カントの3部作と呼ばれる著作は近代哲学を網羅的に論じていますが、『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』のうち後者の2冊は道徳に関係します。
実践理性批判では「当為」という「~はどうすべきか」「~はどうあるべきか」という「べきか問題」を扱っています。
判断力批判ではやはり道徳的な「真善美とは何か」を扱っています。
実存哲学も道徳的な感じがあります。
近代哲学は「~とは何か」を主に扱っていましたが実存哲学は何かを問題とするのではなく「~はどんなんか」や「~はどうあるべきか」に問題意識の持ち方を転換しています。
現象学は行動の是非については関係ないはずですが現象学と実存主義のハイブリッドのようなハイデガーは特に根拠不明ですが「うちなる声」みたいな感じで道徳っぽいことを書いているようです。
サルトルあたりになると吹っ切れています。
自由の哲学なので当たり前かもしれませんが基本人間は自由でどんな行動も自分の主体性で行えばありとなります。
哲学と道徳は独立事象で関係ないものとみています。
サルトル自体は世俗的というか社会的な思想としては共産主義者だったので共産主義の活動を積極的にしていますがサルトル自体の哲学とは全く関係ありません。
構造主義以降の哲学は積極的にではないにしても哲学は道徳ではないとして哲学を道徳から切り離しているように見えます。
サルトルと同じくドゥルーズやガタリは主体性と自由は認めますが外部の規範からそれをいいとか悪いとか決める考え方にむしろ反対します。
日本語の良いと悪い
日本語の良いと悪いは多面性を持ちます。
ですから外国語と対応されるといろんな形に変化します。例えば合法なのをよい、違法なのを悪いとします。
別に道徳的、あるいは宗教な善をよい、悪を悪いと言ったりします。
能力が優れているのをよい、低いのを悪いと言ったりします。
正しいことをよい、間違っていることを悪いと言ったりします。
地位や評判や見栄えのいいものをよい、そうでないものを悪いと言ったりします。
いろいろごちゃごちゃになっているので誤解が生じることが多くあります。
「いじめられる方にも悪いところがある」みたいなよい、悪いの定義や意味をまぜこぜになって使われることが多いです。
哲学は終った学問に・・・?!
哲学は守備対象を削られて最後は存在とは何かを研究する「存在論」と認識とは何かを研究する「認識論」だけになってしまいそれも構造主義とポスト構造主義で解決してしまったので新規の哲学探究というのは行われないという意味で終わった学問です。
一方哲学を基礎科学とするとあとの発展性はそこからの応用で道徳論や狭い意味での善悪などを扱う倫理学です。
「哲学」とだけかくと歴史的経緯とか、philosophyを色濃く残すすべての学問・研究を含む場合もあるので倫理学が哲学に含まれるように感じる場合もあるでしょう。
現実の歴史は広い意味の倫理学が哲学を含むような形で発展しているようです。
現代哲学の道徳論
現代哲学は構造主義もポスト構造主義も道徳と全く関係ありません。
ただ哲学者によって道徳論を説く人もいます。
広い意味での現代哲学者のニーチェは超人思想を唱えています。
強者の余裕、貴族主義というより帝王主義のいいところを持てみたいな感じです。
ドゥルーズ=ガタリは自由に生きる生き方を唱えます。
自由に構築や脱構築を自由にするという意味が含まれるのでサルトルとちょっと違ったイメージになるかもしれません。
そちらも生き方の規範ですが個人的な規範であって社会的な規範ではありません。
他者との付き合い方とか調和とかを考えたものではありません。
そういう意味では構造主義やポスト構造主義を使って道徳を作ろうとすると、主体性と自主性を重視し、自分で考えたり感じたりし、判断し、行動し、責任を取る、というより結果を受け入れるという考え方になります。
いったん他者や社会の適応や配慮を欠いた形になります。
社会と折り合いをつけるには自分で別の原理原則を構造主義的に構築してそれに従うか、内在的な直観的なものにゆだねても大丈夫であることです。
後者は自然法や慣習法的なものが内在する場合でそれを生かす形となります。
前者はイデオロギー的になり後者は保守的に見える感じになります。
主体が絶対上位なのでその都度の判断は両者を混在させたものでも構いませんし、他者や外部に配慮しないのも一つの生き方になります。
ニーチェがまだ理解されえたのでは絶対強者は強制されることなしに自主的に社会や他者と調和を保って秩序を維持するという考え方があったからでしょう。
現代思想では主体性を磨くということはメタ認知能力を鍛えるのと同じ意味になります。