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  • 2024年12月1日
  • 2025年1月31日

かんたんな数学・哲学・論理学の基礎、存在と可能からの視点

かんたんな数学・哲学・論理学の基礎、存在と可能からの視点

数学は数の学問ではない

数学の語源はギリシア語で「学ぶべきもの」です。

時代や場所が変わったからと言って数学が語源は語源の意味を失っていません。

むしろ数学は「数の学問ではなく単に学ぶべきことである」というのが時代や場所が変わっても変わっていない点は強調すべきだと思います。

中世の基本教養の7つのうち幾何学、音楽、天文学は数や量にかんするものとみられていた節があります。

幾何学は空間に関する数、音楽は時間に関する数、天文学は時間と空間療法に関する数の学問といった具合です。

それにルネサンス期のイスラム世界からの代数学の流入や解析学の発展と相まって数学は数に関する学問と思われてしまった節があります。

日本でもmathematicsを「数学」と訳しています。

これは輸出元の欧米の誤解を引き継いだか、輸入先の私たち自体がかんちがいしてしまったのか、そのどちらなのかはわかりません。

数学と論理学

数学と論理学の関係はいろいろな見方ができますが、「論理学が数学を含む」とみるのがわかりやすいと思います。これは哲学と倫理学の関係にも似ています。

多少定義をいじっても高校では哲学は倫理学の中に含まれていますし、それは悪くない見方です。

論理学と命題と真偽

論理学は、前提が真なら結論も真であるようなルールに関する学問です。

数学もそうです。

現代の論理学は、極端に言えばルールを扱うのであって命題が真か偽かを争うものではありません。

あえて言うなら命題が真の場合はどうなるか、偽の場合はどうなるかを療法等しく研究しますが命題自体が正しいかとか間違っているかを扱いません。

内容より形式を研究する学問と言えると思います。

実は数学もそうです。

数学の場合は最初に与えられる前提を公理といいます。

現代数学の原点は間違っているか正しいかを議論するものではありません。

その公理を採用したときにどのような結論が得られるのかを問題にします。

その公理に反する別の公理についてもやはり同じように研究します。

どっちの公理が正しいとか間違っているとかを議論するものではありません。

どんな公理にせよそれを採用したときにどのような結論が出るのかを導くために論理学を使います。

ですから数学は論理学の一分野とみることができます。


オリンピックみたいなもの

科学はときおり宗教ともめます。

これは前提が、真か偽かということでもめます。

前提が正しいのか間違っているのかでもめたりします。また結論の審議でもめる場合もあります。

前提や結論がよいのか悪いのか、善なのか悪なのかでもめたりします。

論理学ではこういうもめ方はないセンスです。

秦の場合も偽の場合も議論しつくすために、真偽表や命題計算などいろんな方法を使うことからも興味や目的が科学や宗教とはずれているのがわかります。

よいことやわるいこと、正しいことや間違っていること、善や悪を論理学的に定義できるのならそのすべての場合を議論すればいいだけの話です。

そういう意味では論理学は宗教に対して中立的な立場をとります。

思想や信条を問わない」というキャッチフレーズはスポーツやオリンピックのものですが論理学も同様です。

論理学がそうなのですから論理学の一分野である数学も同様です。

「ある」「ない」

論理学の初歩は命題論理と述語論理の命題計算です。

学んでいけば、もっといろんな変項を導入した論理学を学ぶのかもしれませんが、ふつうはこの2つを学ぶと大学の教養レベルと言えると思います。

論理や弁償、あわせて論証の形式の正しさ、あるいは妥当性、正確さなどを扱うのは論理や数学も変わりませんが、数学はさらに何かが「ある」「ない」などの存在を扱います。

よく「存在証明」「存在しないことの証明」「悪魔の証明」などの言葉を聞いたことがあるでしょう。

存在の証明は数学の特徴です。

数学が科学に近く見えるのもこのせいかもしれません。

科学は理論系と実験系に分けたりしますが、実験系などはよく何かの実在を示すために行われますし、理論系もやはり何かの実在を仮定したり、すでに実在されていると前提や仮定されている事実から何かを導き出そうとする行為です。

数学がある前提において何かが存在するかしないかを証明するのは数学の定理の多くの部分を占めています。

可能

存在とともに、またそれにも深くかかわることとして、数学は何が可能かを扱います。

古い数学、特にユークリッド幾何学では定義、公理、公準というのが数学の基礎に置かれていました。

ユークリッド幾何学は古代以降近代まで、場合や人によっては現代まで論証のお手本のように扱われてきたからそういう思考だけでやっている人もまだまだ多いと思います。

現代数学や現代哲学・思想は形式主義や構造主義の発想で考えるので公理だけです。

定義というものは現代数学の場合はむしろそれを捨て去ることからスタートしているような感じになっています。

無定義語、無定義概念などの言葉を聞いたことがあるかもしれません。

公準というものも公理に入れてしまったりします。

ユークリッド幾何学の公準はできることを規約にしたものです。

ある一点を中心とする円が描ける」とか「異なる二点の間にただ一つの直線が引ける」とかそういったものです。

幾何学ではどんな操作が可能なのかを表したものです。

一応、公理の例を挙げてみましょう。

部分は全体より小さい」みたいなことが書かれています。

操作ではありませんし可能とも違います。

存在とも違うかもしれません。


ZFC公理系

現代数学では例えばZFCの公理系のようなものを数学の基礎においてみたりします。

同じ公理系をおそらく別の公理群を使って表せるのでZFC公理系は一例です。

これはツェツメロ-フランケル-選択公理のそれぞれの頭文字をとって略した名称です。

選択公理は存在を表していますが「何々を選択できる」という可能の形で表されていたりします。

可能を表すものを公準と言っていいなら公準です。

と、同時に存在を保証するものとして用いることもできます。

内容と形式

数学の論理学との違いはやはり内容を扱いたいという点でしょう。

自然科学などの科学は数学よりさらに内容を扱いたい人向けです。

形式よりは象、抽象と具象を扱いたいのが数学でしょう。

形而上学と言っても形式主義や構造主義に比べればはるかに実在論的な考え方です。

実数」という言葉がよい例かもしれません。

実数は実在しているぞ」ということを強調したいために「」という言葉を使ったのでしょうか。

実数実在論が近代数学だといえるかもしれません。

現代数学では実数も公理により定められた、あるいは作られたものです。

大乗仏教でいえば「」で構造あるいは形式から作るもので現代数学の父ヒルベルトの言うまさに無定義語、無定義概念です。

ちなみに仏教の「」は「」や「」や「」や「」や「」とは違うものです。

現代数学と近代までの数学は違うことをしているように見えるかもしれませんが実は同じことをやっていることも多いです。例えば、ユークリッド幾何学(と非ユークリッド幾何学)とヒルベルトの現代数学の幾何学は違う部分はあまりないのではないのでしょうか。

前者が具体的、後者は抽象的、というより形式的です。

変な話ですが物事はいろんな見方ができます。

具体的(具象的)、抽象的、形式主義的(記号主義的)といった感じでグラデーションあるいはスペクトラムのような形を成して試行しているのが我々の頭の中ではないでしょうか。

抽象的なものをイメージで肉付けして具体的な実例で理解したりします。

あるいは、現実を捨象して抽象化するだけでは飽き足らず更に捨象して形式化(記号化)します。

一方の端には現実、もう一方の端には記号、その間くらいには表象、あるいは想像というように考えると現代思想家のジャック・ラカンのボルメオの輪とだいぶ似た形になります。

現代の電子計算機や、デジタルと生の私たちや社会の関係も、これと似たものがあるかもしれません。