- 2024年11月25日
- 2025年1月31日
実数と神を例にして現代思想のポスト構造主義を理解する
現代思想のかんたんな理解
現代思想のかんたんな理解、哲学と数学の場合、連続な実数と神(ニーチェの)を例に・・・
ニーチェは神が実在しないことを仮定して神とは何かを考えた哲学者です。
現代数学では連続な実数があることを仮定して実数を使います。
どちらの場合も仮定です。
神がいるのもいないのも仮定ですし、実数が連続であることも仮定です。
ニーチェの場合は世の中の風潮がニーチェ以前いは「神がいる」ことが前提だったのであえてそれに疑義を唱えて「神はいない」ことを前提に哲学を見直しました。
現代数学の場合は「実数が連続である」ことはすでに世の中の風潮でしたが、それをただの仮定と考え、実数が連続でない場合もあることを考えつつ、実数が連続であることを仮定して実数というものを作っています。
この場合、「実数が連続である」というのは仮定ですから「実数が連続でない」仮定で実数の体系や数学の体系を作ることも可能です。
ニーチェのしたこと
ニーチェは神が存在しないと仮定した場合、なぜ一部の人間が神を作ってそれを維持しているのかを考えました。
神がいるのは自明でもないし確実でもありません。
一部の神の存在を感じたりできる人を除けば神の存在は五感などの感覚で捉えられません。
ですから、神学は自然科学では扱いません。
別の学問分野になっています。
なぜ人間の中には神を作り出したり、神がいることを自分の中にも他人にも継続的に維持させようとするのかを考えたのがニーチェの哲学の中身です。
数と実数
数というと自然数と整数と分数と少数と有理数と無理数などを習います。
実数といいます。
実数は数直線上の点としてイメージすることがあります。
そもそも数とは何かという定義によってはもっと色々なものが数になる可能性があります。
しかしここでは素朴な数直線を考えます。
この数直線上のあらゆるところに数があって数がないところ、隙間はないというのが実数の連続という概念です。
最初は実数の連続は前提として発展
近代の数学は実数が連続であるということを前提に発展しました。
これは哲学もそうです。
デカルトは物体というものは連続であると考えていました。
連続でない場合は例えば数直線から整数だけ省いた場合です。
あるいは数直線上の整数以外を省いた場合で離散的と言ってもいいかもしれません。
実数の連続性は解析学の発展には大変役に立ちました。
いろんな見方が大事
要するに昔は神や実数の連続は当たり前でした。
でも物事は別の見方が大切です。
時に上か俯瞰したり、下から見上げるのも大切です。
当たり前のことを否定の見方をするのも大切です。
「神はいない」「実数は連続でない」という前提で考えるのも有用です。
「神がいない」と仮定すればニーチェの哲学の様な考え方ができます。
「実数が連続でない」ならばその仮定を前提とした、言い換えるとルール、数学でいうと公理とした数学も作れるかもしれません。
大切なのは「神がいる」「神がいない」という2通りの見方を同時にすることです。
同じく「実数は連続である」「実数は連続でない」という反する仮定を同時に視野の中に入れて考えることです。
これは現代哲学のポスト構造主義の考え方ですし、認知科学などでいうメタ認知ですし、仏教でいう中観や中道という考え方になります。
ちょっと違いますがヘーゲルの弁証法の止揚の考え方でもあります。
全ては仮定
誤解を恐れずにはっきり言うと「神かいる」のも「神がいない」のも観察も観測も実証もできず人間には分かりません。
ですから、どちらもただの仮定です。
「実数の連続性」についても「神の存在」と同じことが言えます。
「実数が連続である」と言うことはただの仮定です。
現代思想や現代数学はちょっと別の方向性でこのことを捉えて扱います。
この「ちょっと別の方向性」は神や宗教についても既存の宗教ではなく新興宗教を興す、作る場合には言えるかもしれません。
「実数が連続である」も「実数が連続でない」も上から見下ろす、ある下から見上げるなら2つのただの命題です。
そのどちらかをルールとしてそれにあった数学を作ってしまうと言うのが現代数学の考え方です。
だから実数の連続性は色んな表現で表されますが「公理」とかたまに歴史上の経緯いから「原理」とかの言葉を使います。
「定理」という言葉は使いません。
数学で「定理」と言うものは「公理」や「原理」を定めた結果生成されるもので、作られるものです。
定理だけ与えられてこれを証明しなさいと言われる場合には公理や原理から導きます。
そして、その証明の過程を文字で示します。
言葉というものは記号の一種です。
だから証明とは、言葉と記号を使うことが多いと思いますが、言葉を記号に含めれば記号の列です。
もちろん数式や記号を使わず自然言語だけでふんわり証明できる場合もあります。
「実数は連続である」を公理として例えば「だから数直線には隙間がない」みたいなことをいうのも広い意味では証明かもしれません。
ただ数学の場合は厳密性を尊ぶので上記の様な言葉に夜フワッとした証明はあまりしない様です。
フワッとしたのをなくすために公理自体を見た目特殊な形で表します。
仮定、前提、命題の違い
これらは数学では論理学から持ってきているので使い方が厳密です。
ざっくりいうと命題は真偽のある平叙文と思ってください。
前提は、結論とセットで使われます。
前提から結論を導き出すことやその際に使うルール全体が論理学です。
前提や家庭は現実とは違う場合もありますがきちんとルールに従って前提から結論を出せているかが論理学では大切です。
前提から現実をルールに則って導いでその結果が現実に合わなくても構いません。
ルールを間違った使い方をしていないかという妥当性を見ます。
仮定は命題ですが、論理学の仮定導出のルールというもので自由に導入できます。またルールに従ってその仮定を消してしまうこともできる場合があります。
証明の過程で前提以外に仮定を導入した場合結論で家庭が残ってしまっているかどうかが論理学では実用上大切です。また前提も仮定も命題です。
前提に仮定を使う事もできます。
そう言った場合には結論に家庭が残ることが多いでしょう。
それでもルールの仕様が問題なく形式的に証明が妥当なものであれば論理学上は論理的に正しいと言えます。
論理学とは前提が真出会った場合に必ず結論が真になるような論証、論理や弁証の研究です。
前提が偽で結論が真である場合はありますが、前提が真である時に結論が偽にならない様にルールが設定されています。
その様なルール=公理を作るのが現代数学の目標です。
新興宗教で言えば教祖や教義や経典を作る様なものでしょうか。
公理は人間が決めて良い
公理は自由に作ってもいいですが実用性がなかったり関心を惹かなければ過疎ったり使い道がなく研究が発展しないでしょう。
実数の連続性の公理は実数の他の公理の中の一つです。
そして色んな表現がされています。
それはともかく「実数が連続である」ということが正しいか正しくないかではなくそれは最初にそう決めます。
別に「実数が連続でない」公理に基づく数学を別口で作っても構いません。
2つの前提が異なる数学を作ることになるだけです。
自然科学の場合と違って数学は論証の必要もありません。
むしろ自然のデータに合うようい数学を作ったりする理論系や、作った数学が現実に合うか試してみる使い方、また工学的に実用の技術の開発のために数学を作ったりします。
公理の表現の仕方
「実数の連続性」の公理は「実数は連続である」という形をしていません。
数学の基礎である集合論や位相論、代数学と親和性が高い価値で表現されています。
「元が順序を持つ母集合の部分集合からなるコーシー列は収束する」とか 「母集団の部分集合が誘拐ならばその部分集合は母集合の中で上限を持つ」「母集合の部分集合の数列が単調増加で上に有界ならば極限を持つ、あるいは収束する」みたいな形をとっています。
一つの理由はやはり数学と相性がいいこと。
別の理由としては実数が連続でないことを含む間違った命題を証明に持ち込ませない、あるいは否定するためのロジックとして使いやすいからです。
実数は連続であると決めてあるのでこのことは反論の余地がありません。
それが気に食わなければ実数が連続でない数学を作ればいいだけです。
自然科学とは違います。
自分で前提もルールも作っても構いません。
しかしはやらなければ廃れます。
嫌な思いをする事もあるでしょう。
実数の連続性の公理ができる前後の創成期には嫌な思いをした有名数学者がたくさんいました。
反証と反例
実数が連続であることはそう最初から決めておけば前提です。
その上で反証しようとする場合に反例を出すという方法があります。
数直線上のここには「実数がないので実数は連続ではない」みたいなのが反例による反証です。
こちらはそれを否定する様に論を進めて向こうの反証に反証します。
ですから反証の仕方は相手が指摘したところにも実数は存在する、というの示す形になります。
すなわち存在証明の形になります。
実数が連続ではないと反論する人に対して「実数は連続と最初に決めてあるのでそれに従ってください」というのでも構わないと思いますがより相手に丁寧に反論します。
何せ相手は「実数は連続ではない」と主張するような前提やルールを無視したメチャクチャな主張ではなく、「実数は連続である」ということを受け入れてくれた上で丁寧に反例をしてくれたわけです。
誠意には誠意を持って誠実に、学問的に反証するのが良いでしょう。
反例を持って反証する場合には存在証明をしてそれに再反証することになりますが、それに便利なように実数の連続性の公理は存在証明をしやすい、存在証明をする様な形で表現されていることが多いです。
実例
「コーシー列は収束する」というのは一つの公理の形です。
これは実数集合の中から部分集合を選んでそれでコーシー列が作れた場合、それは必ず収束する実数が存在するということです。
ポイントは実数が存在するということです。
「コーシー列は収束しない場合がある」を公理とすればある点で連続ではない数直線がある世界、実数が連続とは言い切れない数学が作れるかもしれません。
いっそのこと「コーシー列は収束しない」という公理と作ればもっと違う数学が作れるかもしれません。
「上に有界な部分集合は上限を持つ」という公理は上限と言う元、この場合は数が存在するという意味です。
上限は上元と表記してもいいかなと時々考えることがあります。
これも上限という実数が存在することを主張する実数の存在を主張するものです。
少なくとも上界でも下界でも部分集合でもその境界点に実数が存在していることを主張しています。
「上に有界な部分集合は上限を持つとは言えない」と言うのを公理とすればやはり実数が全ての実数で連続とは限らない別の数学ができるかもしれません。
「上に有界な部分集合は上限を持たない」と言い切って仕舞えばこれまた別の数学ができるでしょう。
「上に有界な単調増加数列は収束する、あるいは極限を持つ」これはこの単調増加数列を集合としてみると上の端っこには実数が存在すると言うことです。
極限は極元と書いたらいいのではないかとたまに思います。
「上に有界な単調増加数列は収束するとは限らない」とすればまた別な数学が作れるでしょう。
さらに、「上に有界な単調増加数列は収束しない」とすれば全く違う数学になるかもしれません。
簡単なニーチェ入門
ニーチェの言いたいことを簡単に書くと「人間は自分の信じたいものしか信じない」みたいな形になります。
1行で書けてしまいます。
「人間は自分の信じたいことだけを信じる」でも良いでしょう。
神様に絡めて噛み砕いて言えば「人は神の存在を信じたいから信じる」「人は神がいない世界を信じたくないので神の存在を肯定する」みたいな表現になります。
ニーチェは古典のエキスパートなので現代数学の公理的、形式主義的な表現よりは自然言語的な表現で哲学が示されます。
実ということ
単に数というのではなく実数という言葉を使うのがポイントになります。
自然数、整数、少数、分数、有理数、無理数、虚数、複素数などが数の代表でしょう。
数学の基礎は集合や位相なので数は元に色々な特徴付したものになります。
実数もそうです。
実数も上で上げた連続性の公理の他に色々な公理により現に特別な特徴を付けたものです。
元は英語でelementです。
実数は英語でreal numberです。
虚数は英語でimaginary numberです。
imaginary numberは日本語に翻訳すれば想像数になりそうですが何故か虚数です。
実と虚は感じでは対で使われる場合があります。
東洋医学の中医学では実は「ある」ということ、虚は「ない」ということです。
肝陽実と言えば肝臓に陽の気があるということです。
腎陰虚と言えば腎臓に陰の気がないということです。
東洋医学で漢方では実証と虚証という言葉を使いますがこれは中医学と違ってフワッとした意味になっています。
実証の人、虚証の人という風に人の体質を表現するのに使います。
実は、哲学では実在とか実存とか実体とかいう風に使います。
そう見ると実数とは実在する数という意味になります。
近代までは実数の実在は当たり前でしたが、現代数学では当たり前のことではなくなります。
現代数学の実数は歴史的には近代まで使われたきた実数というものをあらゆる面から明確にしようとしたものです。
それと同時に現代数学の実数は人が人為的に作った実数というものを現実社会に応用する物とも言えます。
近代数学や近代哲学までは数というものが実際に現実に存在するのかということは重要なことですが、現代思想や現代数学にとっては数の実在というのはどうでも良いことです。
そもそも実在という概念すら重要ではないというか思弁の対象ではありません。
どちらかというと近代数学に合わせてあげている様な感じです。
近代数学的な数や実数の概念しか知らない人にとってみれば、現代数学の数や実数の見方や扱い方は訳の分からないものですが、両者が話をする際には話が噛み合わず珍紛漢紛にならない様に歴史的経緯を理解しやすい現代数学の人が近代数学しか知らない人に合わせる必要があります。
結論として
「神が存在する」も「神が存在しない」もそれぞれ別の仮定でそれぞれを前提として色々な宗教なり思想を作ることができます。
数についても「実数が連続である」も「実数が連続でない」もそれぞれ別の仮定ですがそのそれぞれ別の仮定を前提にして別の数学を作ることができますし、それぞれ一通りでなくいろんな数学を作ることができる可能性があります。