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  • 2026年2月26日

実体主義と関係主義――「構造主義」と「実在論」の先へ

実体主義と関係主義

― 算数から行列まで、数学の二つの見方 ―

はじめに――「構造主義」と「実在論」の先へ

哲学や科学の議論でよく登場する「構造主義」と「実在論」という言葉がある。しかし、これらの用語には歴史的な文脈が縡みつき、意味が拡散している。「構造」という言葉は部品も含意してしまうため、純粋に関係だけを取り出そうとする立場とはズレが生じる。

そこで本稿では、より明快な二項対立を提案する。

実体主義(substantialism)関係主義(relationalism)
「それ自体が何であるか」を問う「他とどう関わるか」を問う
中身・要素・構成を見る対応・変換・振る舞いを見る
「本当の姿」があると考える表現は仮、関係だけが本質
集合論・位相論的な数学観圏論的な数学観

この対立は抽象的な哲学の話ではない。小学校の分数から高校の行列まで、誰もが経験する数学の中に、この二つの見方は既に埋め込まれている。以下、算数・中学数学・高校数学の三段階で、同じパターンが繰り返される様子を見ていこう。

第1章 分数――算数の中の実体主義と関係主義

小学校で最初に分数を習うとき、私たちは自然と実体主義的な見方をしている。

実体主義的な分数観――「本当の姿」を探す

1/2、2/4、3/6――これらは「見た目の違うもの」であり、約分という操作を通じて「本当の姿」である1/2にたどり着く。ここには、裏側に「正体」が隠れていて、それを発見するのが算数だ、という感覚がある。既約分数こそが分数の「実体」であり、他の表現はその仮の姿に過ぎない。

関係主義的な分数観――「振る舞い」がすべて

しかし別の見方がある。1/2も、そして2/4も、そして3/6も、足し算・掛け算・大小比較といったあらゆる演算においてまったく同じように振る舞う。関係主義的には、「同じ振る舞いをするものは同じである」というただそれだけのことだ。「本当の姿」など存在しない。1/2が1/2であるのは、それが「既約」だからではなく、他の数との関係のネットワークの中で特定の位置を占めているからである。

実体主義的な分数関係主義的な分数
1/2が「本当の姿」1/2はただのラベルの一つ
約分で正体を暴く演算の振る舞いで同一性を判定
既約分数が特権的どの表現も対等
「中身」に注目「関係」に注目

この対比は小学生でも体験している話であり、実体主義と関係主義の導入として最も強力な出発点になる。

第2章 座標と関数――中学数学の中の二つの世界

中学で座標平面と関数を習うとき、ほとんどの人は無意識に「デカルト座標が正義」という前提を受け入れている。これが実体主義の典型であり、同時に、そこからの離脱が関係主義への最大の教育的ハードル――そして最大のブレイクスルーでもある。

実体主義的な座標観――「点(3, 4)は(3, 4)である」

実体主義的に見ると、平面上の点(3, 4)はその数の組そのものである。原点があり、x軸とy軸があり、その上に点が「載っている」。y = 2x + 3という式がその関数そのものである。座標軸は世界の骨格であり、それなしには何も語れない。

この見方は直感的で分かりやすい。しかし、「その座標系でたまたま(3, 4)と呼ばれているだけ」という事実を見落としてしまう。

関係主義的な座標観――「座標はラベルに過ぎない」

関係主義的に見ると、点(3, 4)はたまたまある座標系で(3, 4)と呼ばれているだけだ。別の座標系では(5, 53.1°)かもしれないし、軸を回転させればまったく別の数の組になる。その点が他の点とどういう距離・角度関係にあるかだけが本質であり、座標はただのラベルに過ぎない。

関数も同様だ。y = 2x + 3という式は「その座標系でのたまたまの表現」に過ぎない。原点をずらせば式は変わるが、直線そのものは変わらない。関数とは「xを入れてyが出る箱」ではなく、二つの量の間の対応関係そのものなのだ。

具体例:原点をずらしてみる

直線 y = 2x + 3 を考えよう。これは原点を通り、x軸とy軸が置かれた特定の座標系での表現である。ここで原点を右に1、上に2だけずらした新しい座標系を作ると、同じ直線は y’ = 2x’ + 3 ではなく、別の式で表される。式が変わったのに、直線は同じ。この単純な体験が、「式は座標系に依存する仮の表現であり、直線そのものは座標系に依存しない」という関係主義の核心を体感させる。

変わらないもの(不変量)こそが本質であり、座標という実体は仮のものである。これが、分数で見た「表現は仮、関係は本質」とまったく同じパターンである。

第3章 行列――高校数学での離陸

高校で行列を習うとき、実体主義と関係主義の対立はいっそう髦明になる。

実体主義的な行列観――「数の並び」

実体主義的に見れば、行列は4つの数が並んだ「入れ物」である。二次元の行列 [[a, b], [c, d]] は、a, b, c, d という4つの数がその行列の正体である。行列の足し算や掛け算は、それらの数に対する操作として定義される。

関係主義的な行列観――「変換そのもの」

関係主義的に見ると、行列は変換そのものである。「点と点の関係をどう組み替えるか」を表す存在であり、a, b, c, d という数値はたまたま特定の座標系での表現に過ぎない。

具体例:回転と座標系

平面の90°回転を考えよう。標準的なx-y座標系では、この回転は行列 [[0, -1], [1, 0]] で表される。しかし、座標軸を別の方向に取れば、同じ回転が別の数値の行列で表される。行列の「中身」は変わったのに、回転という変換自体は何も変わっていない。

ここで「似た行列」という概念が登場する。ある行列Aを別の座標系で見たもの P⁻¹AP が「似た行列」である。実体主義的には A と P⁻¹AP は「別の行列」だが、関係主義的には「同じ変換の別の表現」に過ぎない。そして、座標系をどう変えても変わらないもの――固有値、トレース、行列式などの不変量――が、その変換の「本質」である。

実体主義的な行列関係主義的な行列
4つの数の並び = 行列の正体数値は座標依存のラベル
A と P⁻¹AP は「別の行列」A と P⁻¹AP は「同じ変換」
行列の演算は数の操作行列の積は変換の合成
対角化は「簡単な形」にすること対角化は本質的な不変量を抽出

第4章 一つのパターン――「表現は仮、関係は本質」

ここまで見てきた三つの段階を並べてみよう。

 分数(算数)座標・関数(中学)行列(高校)
「実体」1/2という既約形(3, 4)という数の組[[a, b], [c, d]]という数値
「仮の表現」2/4, 3/6など別の座標系での値P⁻¹AP
「本質(関係)」演算上の振る舞い点間の距離・角度固有値・トレース等の不変量
転換の核「約分で正体」→「振る舞いが同じ」「座標が正義」→「座標はラベル」「数値が実体」→「変換が本質」

すべてに共通するパターンは「表現は仮、関係は本質」である。分数の表記、座標の数値、行列の成分――いずれも特定の「見方」に依存する仮の表現であり、それらが変わっても保存される関係的構造こそが本質である。

第5章 なぜ「構造主義」ではなく「関係主義」なのか

ここで本稿の出発点に戻ろう。「構造主義」と「実在論」という従来の用語には問題がある。

「構造」という言葉は、部品とその組み合わせを含意する。建築物の構造と言えば、柱や梁といった部品(実体)とその配置(関係)の両方をイメージしてしまう。つまり「構造主義」という名前の中に実体主義が混入しており、純粋さが損なわれている。

一方「関係主義」と言えば、意味は明快だ。対象の中身ではなく、対象間の関係だけを見る。そしてこれは数学においては圏論の精神そのものである。圏論では、対象の内部構造は問わず、射(対象間の矢印)だけですべてを特徴づける。

同様に、「実在論」も曖昧だ。「実体主義」と言えば、「それ自体として存在する実体がある」という立場が直截に伝わる。集合論の精神――まず元(要素)があり、それを集めて集合を作り、その上に構造を載せる――とも自然に対応する。

実体主義と関係主義。この二項対立は、歴史的な文脈を引きずり、数学の具体例と直結し、そして技術用語ではなく日本語としての意味が明快である。

おわりに――デカルト座標からの解放

私たちは小学校で「既約分数が正しい形」と学び、中学で「デカルト座標が世界の枠組み」と学び、高校で「行列は数の並び」と学ぶ。これらはすべて実体主義的な理解であり、それ自体は誤りではない。実際、具体的な計算をする場面では実体主義的な見方が不可欠である。

しかし、そこに留まっていると、「分数の本当の姿」「座標の正しい値」「行列の中身」という幻想に囚われることになる。関係主義とは、その幻想からの解放である。表現は仮のものであり、変わらない関係だけが本質である。この視点の転換は、特殊な専門知識を必要としない。算数の分数を知っている人なら誰でも、その入口に立っているのである。