- 2026年2月10日
「検査は異常なし」の正体
——機能性疾患の歴史と、書き換えられる医学の地図
「検査は異常なし」の正体
——機能性疾患の歴史と、書き換えられる医学の地図
「MRIも血液検査も正常です。医学的には問題ありません」
「でも、こんなに痛いんです。動かないんです。めまいがするんです」
診察室で繰り返されてきたこのやり取りは、長らく医学の“空白地帯”でした。
しかし今、2020年代半ばを迎え、この領域は**「機能性疾患(Functional Disorders)」**として劇的なパラダイムシフトの最中にあります。
かつての「気のせい」や「除外診断(他ではないからこれ)」という消極的な扱いから、「脳と身体の通信エラー」として積極的に診断し、治療する時代へ。
今回は、ヒステリーと呼ばれた過去から、最新の脳科学・認知科学が解き明かす「痛みの正体」まで、書き換えられつつある医学の地図を紐解きます。
1. 【歴史】「名前のない苦しみ」の変遷
医学は長い間、「目に見える壊れた部品(がんや骨折)」を探すことに注力してきました。そのため、「部品は壊れていないが、動かない」状態に対する解釈は二転三転してきました。
- 19世紀〜:ヒステリーと転換(Conversion)
- フロイトの時代。原因不明の麻痺や失声は、抑圧された心理的葛藤が身体症状に「転換」されたものと考えられました。ここで「心の問題」という強烈なレッテルが貼られます。
- 20世紀後半:除外診断とMUSの限界
- 検査技術が進化し、**「医学的に説明できない症状(MUS: Medically Unexplained Symptoms)」**という言葉が生まれました。「異常がない」ことを証明する診断法ですが、患者さんにとっては「原因不明=見放された」という不安を招く副作用がありました。
- 日本では「自律神経失調症」という言葉が、この受け皿として広く使われました。
2. 【現在】「ハードウェア」から「ソフトウェア」の医学へ
いま起きている最大の変化は、「機能性」という言葉の再定義です。
これは「ニセモノ」や「サボり」ではありません。
- 器質的疾患(ハードウェアの問題): 臓器そのものに炎症や腫瘍がある。
- 機能性疾患(ソフトウェアの問題): 臓器は綺麗だが、それを制御する神経回路、感度調整、予測プログラムにバグ(誤作動)が生じている。
最新の医学は、「異常がないから機能性」ではなく、**「特有の誤作動パターンがあるから機能性」**と、肯定的に診断(ポジティブ診断)する方向へ動いています。
3. 【最新理論】なぜ脳は「痛み」を作り出すのか
なぜ、体は壊れていないのに痛むのでしょうか? ここ数年で提唱された革新的な理論がいくつかあります。
① 脳の「予測」エラー(Predictive Processing)
最新の認知科学では、脳は単に感覚を受け取るだけでなく、「次に何が起きるか」を常に予測しているとされます。
機能性疾患では、この「予測」が過剰に強固になり、実際の身体からの信号を無視して**「痛いはずだ」「動かないはずだ」という脳内の予測(思い込みではなく、神経的な演算)を現実として知覚してしまう**エラーと考えられています。
② 痛みの第3の分類:トータルの変調(Nociplastic Pain)
2017年、国際疼痛学会(IASP)は痛みの定義に新しいカテゴリーを加えました。
- 侵害受容性疼痛(怪我など)
- 神経障害性疼痛(神経の損傷)
- 痛覚変調性疼痛(Nociplastic Pain): 組織も神経も損傷していないが、痛みの信号処理システムそのものが過敏になり(感作)、ノイズを痛みとして増幅してしまう状態。線維筋痛症などがこれにあたります。
③ 脳腸相関とDGBI(Rome Vへの道)
胃腸の分野では、過敏性腸症候群などが**「脳腸相関障害(DGBI)」**と再定義されました。現在、国際基準である「Rome IV」からさらに進んだ「Rome V」への改訂作業が進んでおり、腸だけでなく、脳のストレス応答や免疫系を含めた「ネットワークの障害」として捉え直されています。
4. 【新語辞典】あなたの症状には「名前」がある
「原因不明」とされていた症状の多くに、近年、明確な病名とメカニズムが与えられています。
| 新しい病名・概念 | どんな症状? | かつての呼び方 |
| PPPD (持続性知覚性姿勢誘発めまい) | 検査は正常だが、雲の上を歩くような揺れが続く。「脳が揺れを学習してしまった」状態。 | 心因性めまい 自律神経失調症 |
| FND (機能性神経障害) | 手足の麻痺、脱力、けいれん等。脳のハードウェアは正常だが、運動プログラムへのアクセス権限エラーが起きている。 | ヒステリー 転換性障害 |
| BDS / BDD (身体苦痛症候群など) | 複数の臓器にまたがる不調。「あちこち悪い」のではなく、全身の感覚フィルターが一斉に過敏になっている状態。 | 身体表現性障害 |
| 微細炎症 (Micro-inflammation) | 通常の血液検査では出ないレベルの炎症。うつや倦怠感の背景に、免疫系の暴走(進化的ミスマッチ)が関与しているという説。 | 慢性疲労 |
5. 治療のパラダイムシフト:脳のリハビリテーション
診断が変われば、治療も変わります。
「どこも悪くないから様子を見ましょう」でも、「薬で散らしましょう」でもなく、**「脳と身体の再学習(リハビリ)」**が治療の中心になります。
- 病態説明(教育): 「気のせい」ではなく「回路の混線」であることを理解するだけで、脳の過剰な警戒レベル(恐怖)が下がります。
- 認知行動療法・リハビリ: 誤って学習された「痛みの回路」や「不動の回路」を、少しずつ正常な回路に書き換えていく訓練です。
- 環境調整: 現代社会特有の「進化的ミスマッチ(過度なストレス、概日リズムの乱れ)」を修正し、過敏になった免疫や自律神経を鎮めます。
おわりに:「異常なし」は「ゴール」ではなく「スタート」
もしあなたが「検査で異常なし」と言われて途方に暮れているなら、それは終わりではありません。そこからが**「機能性疾患」という、現代医学がようやく光を当て始めた領域のスタート**です。
あなたの苦しみは、幻ではありません。
それは、複雑に進化した人間のシステムが、現代環境の中で必死に適応しようとして起こした「バグ(エラー)」です。
ハードウェアの修理ではなく、ソフトウェアのアップデートへ。医学は今、新しい答えを用意してあなたを待っています。

【付録:さらに理解を深めるためのQ&A】
- Q. 「機能性」とは「精神的なもの」という意味ですか?
- A. いいえ、違います。「精神(心)」と「身体」を分ける古い考え方ではなく、**「脳という臓器のシステムエラー」**と考えます。結果として不安やうつを伴うことはありますが、それは原因というよりは「共犯関係」にある症状の一部です。
- Q. 治療すれば治りますか?
- A. 「部品交換」のようにスパッと治るわけではありませんが、脳には**可塑性(かそせい:変わりうる性質)**があります。リハビリや認知行動療法を通じて、誤った回路を書き換えることで、症状を大幅に改善・寛解させることは十分に可能です。