HOME 記事一覧 未分類 哲学のパラドックスの解決法ー「自分は何も知らないことを知っている」「真理というものはないのが真理である」
  • 2024年9月2日

哲学のパラドックスの解決法ー「自分は何も知らないことを知っている」「真理というものはないのが真理である」

日本人と哲学の関わり

私たちは明治以降に真理や真実を探究し始めました。

それ以前にも真理や真実を探究する活動はあったかもしれません。

 

明治以前と以後の大きな違いはその方法として近代西洋哲学を使うようになったことです。

それ以前の日本にも真理や真実の探究活動はあったかもしれません。

朱子学や陽明学などの宋学はそういう匂いがします。

 

我々が普段使う「真理」の「理」は宋学の影響を受けています。

西洋哲学の最終的なゴールは仏教でも答えが出ています。

仏教で悟る内容もまた哲学と同じ結論になります。

 

ただそれはたまたまです。

本来仏教の目的は人間が苦悩から逃れることですが偶然哲学と同じ結論を得ることになりました。

 

真理や真実の探究はそれなりにいつでもどこまでも行われます。

ただその探究の結論が学問、あるいは科学として結論が出たのは現代哲学によってです。

 

みんななんとなく分かってた

「真理や真実を知ることはない」ということに昔から人類は何となく気づいていたのではないでしょうか。

 

哲学の領域ではまずソクラテスが無知の知を唱えています。

デカルトも最終的に真理や真実を知ることの保証は神以外できないとしてましたし、カントもたとえ真理や真実があってもそこに至ることはできないというジレンマ論を述べています。

 

「私は知らないことを知っている」、結局真理や真実には個々人がリアリティを感じたり、信じ込むば愛以外には理性、認知、あるいはメタ認知というものでは結論を出せないのが哲学の出した答えです。

 

みんな何となく分かっていないと哲学というものが存在し得ないので不思議はありません。

 

むしろ現代哲学のポスト構造主義でなぜ「分からない」ことの受容に成功したかの方が歴史的にみると珍しいことですし、「やっとか」「遂にか」「ようやくか」といった感じでしょう。

 

人間には精神があるから無理

そもそも人間には精神があるので精神の中以外で起こった出来事にとやかく言っても結論は出ません。

 

精神の中では何でも可能な可能性があります。

 

だから唯心論というのがあって、全ての世の中の森羅万象は自分の精神の拡張だという説はちょくちょく現れます。

ただその説も精神が仕立て上げたものですし、精神以外の何かはないのかという疑問には答えられません。

 

鉄学の結論を間違えないためのパラドックスの処理

「真理がないことは真理である」は有名なパラドックスです。

 

パラドックスは矛盾があるということで、そうである事とそうでないことが同時に導かれることです。

もし前提として真理がないとするならこの命題は真理なので、真理があるという結論になり真理がないという結論に矛盾します。

また別の前提として真理があるとするなら上の命題は前提が真理がないと2つの矛盾前提ができてしまい、結論の真偽がどうであれ、無矛盾でなくなってしまうということになります。

 

論理学や数学では集合の集合というものを考える場合があり、この種のパラドクスを形成する事があります。

論理学や数学どころか聖書や文学作品さえ見かけます。

現代数学ではこのパラドクスを避けるように公理系を設定しています。

 

哲学の結論は「真理や真実があるかないかは分からない」「あるならどんなものかは分からない」と表現できます。

 

なぜこんな持って回った表現になるのでしょう?

真理や真実について語る場合にはパラドックスが生じることがあるからです。

しかし「私は自分が何も知らないことを知っている」というのはパラドックスになり得ます。

「自分が何もしらない」のにそれを知っているということは「自分が何かを知っている」ことになるので2つの相反する結論が得られて矛盾です。

「自分が何かを知っている」ならば「自分は何も知らない」と照らして2つの相反する結論が出ているので矛盾です。

 

ですから「私は自分が何も知らないことを知っている」という文章自体が矛盾です。

それを勘違いしなければ自然言語は変な部分も多いですから哲学の結論として、「真理や真実といったものは存在しない」というのも間違いではないでしょう。

 

ただ突っ込まれた場合に訂正して正確な表現を示すのがいいでしょう。

正しい言い方は往々にして煩雑で持って回ったものになります。

「真理とは何か?」「真理とはどんなものか?」という質問に「真理は存在しない」とか答えると誤りになります。

 

一つにはまず真理や真実の定義とか何についての真理とかを聞いてみましょう。

その場合には真理があり、それが何かを説明できる場合があります。

 

「真理や真実が存在するかのかは分からないものだ」「あったとしてもどんなものか分からないし一つとも限らない」みたいな答え方は哲学の最終的なコンセンサスと思っていいと思います。

 

私たちが論理的思考をする場は公理系である

私たちはZFC公理系の下で論理的な思考をしています。

ZFCのZ、F、Cはそれぞれツェルメロ、フランケル、選択公理です。

それ以外の公理系もあると思いますし、作ろうと思えば作れると思いますが今の所はこれが学習する立場として見ると一般的です。

 

このZFC公理系の無矛盾性は証明されてないと検索すると書かれていました。

というわけで分からないことはまだまだあります。

 

ただ論理的な話をするなら共通のコミュニケーションのリテラシーが必要です。

数学のmathematicsの原義は「学ぶべきもの」という意味ですが現代のソフトウェアもやはり論理の言語で書かれています。

論理についてはまた別のところで説明します。

 

まとめ

哲学する時に出くわす「パラドックス」に焦点を当てて解説しました。

この自己言及のパラドックスや集合を元とした場合に生じうるパラドックスはやはり哲学でも出現します。

最初に変な疑問を持ってしまうと勉強が進まなくなってしまうのでここで解説させて頂きました。