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  • 2026年1月14日

天安門事件とは何か

天安門事件とは何か

現代中国を理解する上で最も重要な事件であり現代共産中国の歴史の転機は『64天安門事件』です。

中国では天安門事件は文革の時など他にもあるので1989年の天安門事件は日付をとって64天安門事件と呼ばせてもらいます。

中国側、中国人の視点になって現代(共産)中国はどこで間違えたかについて考えてみましょう。

現代中国のアノミーと迷走の始まり

共産中国はどこで間違ってしまったのでしょう。

大躍進政策も間違いだったでしょう。

でも悪意はなかったかもしれません。

文化大革命も権力争いではあったかもしれませんが悪意は共産主義(マルクス主義)という名においては悪意はなかったかもしれません。

多分ソ連における悪意の発生がスターリンではなくハンガリー動乱やプラハの春で純粋な社会主義を追求した人々を戦車で踏みつぶしたことにより共産主義の正統性を失ったのと同じように現在共産中国の最大の罪であり正統性を失った瞬間は64天安門事件でしょう。

1989年に中国で何が起きたか?

1989年の天安門事件における学生たちの要求は、西側諸国が当時期待したような「共産党独裁の打倒」や「資本主義・自由主義への転換(脱社会主義)」ではありませんでした。むしろ彼らは、「社会主義の理想に立ち返れ」と訴えていた側面が強かったのです。

以下の3つの点から、当時の彼らのスタンスが明確になります。

1. 歌われていたのは『インターナショナル』

デモ隊の学生たちが広場で最も頻繁に、涙を流しながら合唱していたのは、共産主義革命歌である『インターナショナル』でした。 もし彼らが「脱共産主義」を目指していたなら、この歌を歌うはずがありません。彼らは「党よ、本来の労働者や人民のための姿に戻ってくれ」という、ある種の「愛党精神」や「愛国心」**に基づいて、腐敗した現状(官倒:役人の不正蓄財)を批判していたのです。

2. 具体的な要求内容(七項目)

彼らが掲げた「七つの要求」を見ても、体制転覆を狙うものはありませんでした。

  • 胡耀邦(改革派)の名誉回復
  • 指導者やその家族の資産公開(腐敗防止)
  • 報道の自由
  • デモの権利の保障

これらはすべて、「中華人民共和国憲法の枠内」で実現可能なものであり、共産党統治そのものを否定するものではありませんでした。「共産党を倒せ」というスローガンが出てきたのは、戒厳令が敷かれ、運動が絶望的になってからのごく一部の過激化した局面だけです。

3. 東欧革命との違い

同時代(1989年後半)に起きた東欧の革命(ポーランドやベルリンの壁崩壊など)は、明確に「ソ連式社会主義からの離脱」でした。しかし、天安門の学生たちは、あくまで「体制内改革(インサイダーによる是正)」を求めていました。 彼らは、自分たちこそが国の未来を担うエリートであるという自負があり、「父(党)」に対して「息子(学生)」が諫言(かんげん)をしている、という儒教的な構図すらあったと言われています。

4. プラハの春との類似

1989年の天安門事件と、1968年のチェコスロバキアの「プラハの春」は、「社会主義体制の中での改革を目指した(脱社会主義ではなかった)」という点で、非常に性質が似ています。

歴史的にもよく比較されるこの二つの共通点と、少しの違いを整理します。

a. 共通点:「人間の顔をした社会主義」

「プラハの春」のスローガンは、当時のドゥプチェク第一書記が掲げた「人間の顔をした社会主義」でした。 彼らが目指したのは、共産主義を捨てて資本主義になることではなく、検閲の廃止や言論の自由を認め、「抑圧的な社会主義を、もっと人間的で民主的な社会主義に作り変えよう」という試みでした。

これは、天安門の学生たちが『インターナショナル』を歌いながら、党の腐敗を正し、言論の自由を求めた姿勢と完全に重なります。どちらも「社会主義の理想を信じているからこそ、現状の堕落や抑圧を許せなかった」という、体制内改革(修正主義)の運動でした。

b. 結末の類似:戦車による粉砕

そして悲劇的な結末も同じです。

  • プラハの春: ソ連を中心とするワルシャワ条約機構軍が戦車で侵攻し、改革を「反革命」として武力で潰しました。
  • 天安門事件: 中国人民解放軍が戦車で広場を制圧し、学生たちの要求を「動乱」として武力で潰しました。

どちらも、当時の権力者(ブレジネフや鄧小平たち)が、「少しでもガス抜き(自由化)を許せば、共産党の支配そのものが崩れる」というドミノ理論を極度に恐れた結果、過剰な暴力で蓋をした事例です。

c. 少しの違い:誰が主導したか

一つだけ大きな違いがあるとすれば、改革の主導者です。

  • プラハの春: 共産党のトップ(ドゥプチェク)自身が先頭に立って改革を進めました。
  • 天安門: 学生や知識人が下から突き上げ、党内の改革派(趙紫陽など)がそれに理解を示しましたが、最終的に党の主流派に潰されました。

もし天安門で趙紫陽が勝っていれば、中国版「プラハの春」が成就していたかもしれませんが、歴史にifはありませんね。


結論として 彼らは脱社会主義を求めてはいませんでした。 悲劇だったのは、当時の党指導部(特に保守派)が、その「諫言」を「体制転覆の陰謀(動乱)」と意図的に、あるいは恐怖心から読み間違え(あるいはそう定義し)、武力で排除してしまったことです。これにより、中国は「政治改革(ソフトウェアのアップデート)」のチャンスを完全に失い、現在の「経済はすごいが政治は硬直的」という歪な構造へ進んでいくことになりました。