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  • 2025年11月20日

「笑い」の研究、祭りとカーニバル、哲学との接点、現代哲学と脱構築の視点から

「笑い」の研究、祭りとカーニバル、哲学との接点、現代哲学と脱構築の視点から

笑いの研究、現代哲学的なアプローチで知的な笑いに絞ってズレ、戯れ、脱構築まで考える


・笑いと笑みは違う

 手前味噌な話で恐縮ですが「笑いとは何か」を考えるのが自分のワイフワークの一つでした。

 何がきっかけか忘れましたが多少覚えているのは多分「笑いと微笑や笑顔は違う」というのに気づいたのがきっかけの1つです。

 「笑い」と「ほほ笑み」「笑顔」は同じ「笑」という感じを使いますが違うものを指しています。

 後者は楽な感じや幸福感やリラックス感を表していると思われますが「笑い」は突発的な発作のようなものでもあり感情でもあると思いますが笑いの前後で心の状態を切り替えます。

 また笑いは「おかしい」とか「変」とか何か差異がある場合に生じます。

 多分正統というかオーソリティーのあるものとそこからずれたものの違いがある場合に生ずるのだと思います。

 そんなことを考えていると「笑い」というのは知的に分析できるのではないか、感情という知的、思考で理解したり理論化したり体系化するきっかけになればいいなと思っていましたが今に至るまでできていません。

 勉強が趣味でいろんな思考パターンや理論や構造を収集するのが趣味なのですがそういうことをしていると考え方や物の見方、情報処理方法や知的なもの、理性的なものにはどんどん慣れ親しんでいきますが感情や意欲はブラックボックスのままです。

 ただ笑いは知と感情をつなげる何かのヒントになるのではないかと思い何となく思うところがたまってきましたので文章化して見ようと思います。

・感情は哲学で扱いにくいが「笑い」は扱える可能性があるように見える

 哲学、特に近現代哲学の中核部分は認識論と存在論です。
 倫理や道徳、真善美、感情的な価値や判断力については、どうしても扱いが難しくなります。

 カントの三部作は『純粋理性批判』『実践理性批判』『判断力批判』ですが、
 『純粋理性批判』はまさに存在論と認識論を扱っており、知・情・意のうち「知」に対応する部分を徹底的に扱っているので、今読んでも「読みごたえ」があります。

 一方、『実践理性批判』や『判断力批判』は、現代の非西洋中心主義的な、多元化した世界から見ると、
 「そういう立場・価値観の提示としては理解できるが、絶対的なものとは言いにくい」
 という印象になりやすく、「歴史的な意味」は大きくても、そのまま現代の規範として読むのは難しいところがあります。

 もちろん『純粋理性批判』のカントの議論も、「そういう考え方もあるね」で済ませてしまうこともできるでしょう。しかし哲学史全体の文脈の中では、ある種の必然的な到達点であり、現代でも無視しがたい説得力を持った理論である、という位置づけが定着しています。

 これに対して、感情や意欲――知・情・意のうちの「情意」――は、そもそも哲学的な形式化・理論化が難しい領域です。
 その中で、感情の一部としての「笑い」だけは、比較的哲学が扱いやすい例外的な感情に見える、というのがここでの出発点です。

・昔から哲学者は結構「笑い」を研究している

 実際、「笑い」については古典的な哲学者もそれなりに論じてきました。

 さきほど挙げたカントやショーペンハウアーのような哲学者も、笑いについて短いながら考察を残しています。
 ベルクソンは、まさに『笑い』というタイトルの本で、人間社会における笑いのメカニズムをかなり本格的に論じています(日本語訳もいくつか出ています)。

 ウンベルト・エーコは、小説『薔薇の名前』のラスト近くで、
 修道院内部で起きた一連の事件が、アリストテレスの『詩学』の「笑い」に関する部分を封印するためだった、という設定を用いています。
 つまり「笑い」が禁じられた知であり、権威にとって危険なものとして扱われているわけです。
 このモチーフ自体が、「笑い」が単なる感情ではなく、知性と権力と信仰の交点に位置する現象だということを示唆しています。

 「笑い」が哲学的に扱いやすいのは、おそらく笑いの中に知的な笑いという領域がはっきり存在するからでしょう。

 赤ちゃんがくすぐられて笑うような、生理的な笑いもあります。
 最近の研究では、動物にも「笑い」に相当する反応があるらしいことが分かってきています。
 しかし、明らかに**「知性がないと笑えない笑い」**というものが存在します。
 会話の文脈、複数のコード、多重の意味を同時に把握しないと成立しないような笑いです。

 思考や対話から笑いが生まれる――
 むしろ思考や対話が「笑い」へと変換される瞬間がある。
 この「変換」の部分にこそ、哲学・現代思想・構造主義やポスト構造主義、さらには大乗仏教や現代数学(特に構造を扱う数学)がアクセスできる入り口があるように見えます。

 逆に言えば、これらの理論は、感情一般や「感情論」をうまく扱う道具立てを持っていなかった。
 しかし、知性に媒介された「知的な笑い」だけは、感情の中でも例外的に、理論に乗せられる部分だった――という仮説を立てることができます。

・知的な笑いの基本的な考え方

 知的な笑いについては、哲学者や心理学者、社会学者などによる多くの議論がありますが、
 おおざっぱに見れば、だいたい同じ方向の結論に収束しているように見えます。

 小生自身も「笑い」というものを、長年の思索テーマのひとつとして考えてきました。
 その中で、かなり素朴にまとめるなら、知的な笑いが生じるのは「おかしい」「変だ」という感覚が生じたときだと整理できます。

 ここでいう「おかしい」「変」は、単なる好みの問題ではありません。
 何か「正しい」「普通」「当たり前」とされている基準があり、そこからのズレや外れが知覚されたときに、そのズレが笑いとして立ち上がってくる、という構図です。

 - 暗黙の規則・期待・コード
 - そこからの逸脱・反転・過剰・不足

 この二つの組み合わせが、「知的な笑い」の最低限の条件だと言えます。


・従来の「笑いの理論」と知的な笑い

「何がおかしいのか?」理論的な整理

哲学・心理学では、「何が面白さを生むのか?」はいくつかの理論で説明されてきまし

 従来的に有名なのは、いわゆる「笑いの三大理論」です。

  1. 優越(優越感)理論
    • プラトンやホッブズあたりからよく言われるタイプの理論。
    • 誰か他者の欠点・失敗・滑稽さを見て、そこに自分との優越関係を感じるときに笑いが生じるという説明。
    • ベルクソンの「機械的なものが生命的なものに貼りつく」といった分析も、この系統に近い部分があります。
    • 『北斗の拳』という漫画で雲のジュウザという人物が適役のラオウと戦いますが戦いに敗れてもやられる前に笑い名が死んでいくシーンが象徴的です。他者の失敗・すべり・勘違いを見て「自分の方がマシだ」と感じるときの笑い
    • スリップ、コントのドジ、漫才のボケなど
  2. 不一致(不調和)(incongruity)理論
    • カントは「期待された緊張の急激な解消」として笑いを説明しました。
    • ショーペンハウアーは、概念と直観の不一致――頭での理解と目の前の現実のズレ――から笑いが生じると述べます。
    • 現代の「インコンギュイティ理論(不一致理論)」の多くは、この流れに属します。
    • 関西のお笑いの漫才ブームで有名となったボケと突っ込みが有名でしょう。
    • 予想していた展開と、実際の展開がずれる
    • ただし、そのズレが「理解できる範囲」で起こる

例:
真面目な顔でとんでもないことを言う、
日常語と専門語をずらして使う、など。

  1. 解放(緊張解放)(superiority)理論
    • フロイトなどが代表。
    • 心理的に抑圧されていた欲望や不安が、「冗談」や「機知」を介して解放されるときに笑いが起こる、という説明です。
    • 社会的タブーをギャグにするブラックジョークなどは、典型的な例です。
    • 桂米朝の弟子桂枝雀は笑いの研究を大学などとしていましたがこの理論を芯に据えていました。
    • 禁欲・緊張・抑圧していた感情が緩む瞬間の笑い
    • ブラックジョーク、下ネタ、戦争中/災害時の自虐的なユーモアなど

最近よく引用されるのが、これらを統合したような

「Benign violation theory(無害な違反理論)」

で、

  • ある種の「タブーやルール違反」が
  • 「でも本当に傷つけるほどではない」「遊びとして許容できる」範囲で起こったとき
  • 人は笑う傾向がある
  • という考え方です。
  • 何らかの規範違反(violation)がある
  • しかし、それが「致命的ではない」「遊びとして処理できる」と感じられる
  • その二つが同時に成り立つとき、人は笑う

構造主義的に言うなら、

社会規範や意味構造の「ズレ」や「境界侵犯」が、
完全な破壊ではなく「遊び」の範囲で扱われるとき、
そのズレを受け止めるための「形式」として笑いが立ち上がる

と言えそうです。

 この三つは互いに排他的というより、同じ現象の違う側面を強調していると考えたほうが分かりやすいでしょう。

 ここで「知的な笑い」を考えると、

  • 「不一致理論」はほぼ必須条件
  • しばしば、そこに「優越感理論」的な要素も混ざる(状況や制度に対するメタ的な優位からの笑い)
  • さらに、社会的・心理的な「解放」の契機を含む場合も多い

という形で、三つの理論が重なり合う領域として捉えられます。

 ネットの「祭り」や大喜利的な笑いはその好例です。
 たとえば、ある国の外交官の発言や、軍事組織の公式サイトが、瞬時に「大喜利のお題」として機能しはじめる状況を考えてみると、

  • 公式の言説=「真剣さ」「威厳」というコード
  • それを茶化し、別の読み替えで上書きする二次創作=逸脱
  • 見ている側は「そんな読み替えありか」という不一致の快感
  • 同時に、権威への(ささやかな)優越感と、抑圧からの解放感

がひとまとめになって、「知的な笑い」が大量生産されていることが分かります。

・笑いの必要条件、十分条件?

 昔ファミコンに『タケシの名探偵』というシミュレーションゲームがありました。

 ビートたけしが政策に関わりつつ、ビートたけしが探偵役で殺人事件の謎を解いていく話です。

 その中で「幻のネタ本」というのが物語のキーアイテムで出てきます。

 そういうものがあったらお笑い芸人は絶対に欲しいでしょう。

 良質の笑いのネタ集みたいなものだったのかもしれませんが、必ず人を笑わせる、滑らないネタがあるならこれは芸人に限らずだれでも欲しいはずです。

 多分そういうものはないと思うのでお笑いの十分条件というものはないでしょう。

 

 それとは別に上のような理論における正規との偏倚、すなわちズレだけではお笑いの必要条件過ぎるでしょう。

 もうちょっと加えないといけないものがあると思われます。

 それをいくつか挙げてみましょう。

・安全性

 Benign violation理論というものがあります。

 何か変なことやおかしさがあった場合でもそれが危険や脅かすものではなく安心・安全でリラックスできるものであるのが必要という理論です。

 

・認知能力、知的に分かること

 いかに秀逸なジョークを放ったとしても聞き手にとって難し過ぎればそもそもジョークと認知されません。

 また内容が知的でなさ過ぎても相手に刺さらない場合もあります。

 「うんこ」といって笑ってくれるのは中学校の低学年くらいまでです。

 ジョークというのは分かっても大人は「うんこ」というだけでは笑ってくれません。

 ダジャレも注意が必要です。

 認知の問題ではないかもしれませんが単なる同音異義語であるだけでは笑いに十分ではないことが多いです。

・場と状況と時をわきまえる

 メタ認知というか場の問題、状況と空気を読むのも大切です。

 変な場面で変なジョークを言うと場が凍ります。

 天皇陛下への謁見の際におかしなジョークを言う人はあまりいないでしょう。

 TPOを理解する能力が必要です。

 ある種の国では笑いが場の空気自体に合いません。

 権威主義国とか冷戦時代の東側陣営の国々です。

 そういう国々ではジョークとなアネクドートはアングラのものでしまも逆に大変面白いジョークが多いです。

・ちょっと圏論的な見方

 笑いというのは感情であるとともにある状態を別の状態に変換させる操作のように見ることができます。

 感情の一種とみるといろんな感情の中の一つの感情として数学の圏論に当てはめてみると「対象」という事になります。

 いろんな感情(対象)間の関係を射で表すことができるかもしれません。

 他方で「笑い」「笑う」というのは操作のように見えるかもしれません。

 例えば「緊張」という対象を「リラックス」という対象に変換させる射として「笑い」を考えることができるかもしれません。

 なかなか感情全体的を体系的にシステマティックにとらえることは難しいのかもしれませんがそういう理論化ができれば面白いなとちょっと想像してみたくなります。

・一例:ポジティブな感情にはどういうものがあるか(笑い以外)?

「笑い」が知的な処理を要する特殊な感情であるのに対し、ポジティブな感情(陽性感情)全体を見渡すと、もっと本能的なものから、静謐(せいひつ)で哲学的なものまで、非常に多岐にわたります。

心理学や哲学(スピノザの情動分類など)の知見を統合し、これらを「エネルギーの高さ」と「持続性」で分類して整理すると、全体像が見えやすくなります。

1. 活力的・高揚的なもの(ハイ・アラウンド)

これらはエネルギーレベルが高く、短期的で爆発力のある情動(Affect)に近いものです。

  • 歓喜(Joy/Ecstasy): 全身が震えるような強い喜び。
  • 興奮(Excitement): これから起こることへの期待で心拍数が上がる状態。
  • 熱狂(Enthusiasm): 何かに没頭し、エネルギーが溢れ出る状態。
  • 爽快感(Exhilaration): スポーツの後や難問が解けた時のような、スカッとした気分。

2. 静謐・安定的・緩和的なもの(ロー・アラウンド)

エネルギーレベルは低いですが、持続的で、幸福感(Well-being)の土台となる気分(Mood)に近いものです。

  • 安らぎ(Serenity): 脅威がなく、守られている感覚。
  • 充足感(Contentment): 「これで十分だ」と感じる満ち足りた気持ち。足るを知る感覚。
  • 緩和(Relief): 緊張や苦痛から解放された時のホッとする感覚。
  • 平穏(Peace/Calmness): 心が波立っていない凪の状態。

3. 知的・超越的なもの

先ほどの「笑い」と同様、高度な精神活動を伴うものです。

  • 好奇心(Curiosity): 未知のものに惹かれ、知りたいと思う知的欲求。
  • 驚異・畏敬(Awe/Wonder): 圧倒的な大自然や深遠な真理に触れた時の、自分を小さく感じるような感動。
  • フロー(Flow): 没入。自我を忘れて活動と一体化している至福の状態。
  • 霊感(Inspiration): ひらめきや、何かに打たれたような高揚。

4. 社会的・関係的なもの

他者との関係性において生じる、温かい感情です。

  • 愛着(Affection): 対象を大切に思い、そばにいたい感覚。
  • 感謝(Gratitude): 他者からの恩恵を認識し、ありがたいと思う気持ち。
  • 敬意(Respect): 他者の価値や能力を認め、尊ぶ気持ち。
  • 信頼(Trust): 相手に委ねても大丈夫だという安心感。

・逆にネガティブな感情にはどういうものがあるか?

ネガティブな状態のカテゴリー分類

これらを性質ごとにグループ化すると、以下のようなスペクトルになります。

A. 【怒り・敵意系】(外に向かうエネルギー)

攻撃性や拒絶を伴う強い感情です。

  • 激怒 (Rage): 爆発的で制御困難な怒り。
  • 憤り (Resentment): 不当な扱いに対する持続的な怒り。
  • 軽蔑 (Contempt): 対象を自分より劣っているとみなす冷たい感情。
  • 嫌悪 (Disgust): 不快な対象を拒絶したいという強い生理的・心理的反応。
  • 嫉妬 (Jealousy/Envy): 他者の所有物や地位に対する羨望、あるいは自分のものを奪われることへの恐れ。

B. 【恐怖・不安系】(回避・警戒のエネルギー)

未来の脅威に対する反応です。

  • 恐怖 (Fear/Terror): 目前の明確な危険に対する反応。
  • 不安 (Anxiety): 対象が曖昧で、将来への漠然とした懸念。
  • 懸念 (Apprehension): 何か悪いことが起きる予感。
  • パニック (Panic): 圧倒的な恐怖による混乱状態。

C. 【悲しみ・抑うつ系】(エネルギーの低下・喪失)

喪失や無力感に関連します。

  • 悲嘆 (Grief): 大切なものを失った時の深い悲しみ。
  • 憂鬱 (Melancholy): 重苦しく、晴れない気分。
  • 絶望 (Despair): 希望が完全に断たれたと感じる状態。
  • 無気力 (Lethargy/Apathy): 感情すら湧かない、エネルギーが枯渇した状態。
  • 虚無感 (Emptiness): 意味や価値が感じられない空虚さ。

D. 【自己意識系】(内へ向かうエネルギー)

社会的基準や自己評価に関連する複雑な感情(情緒に近い)です。

  • 羞恥 (Shame): 自分自身全体がダメだと感じる、他者の視線を意識した苦痛。
  • 罪悪感 (Guilt): 自分の「行為」が誤っていたと感じる良心の痛み。
  • 当惑 (Embarrassment): 社会的ルールから外れた際の気まずさ。
  • 屈辱 (Humiliation): 他者によって尊厳を傷つけられた感覚。

3. 強度と持続性のマトリクス

モデル化を考える際、以下の表のように**「強度(Y軸)」「持続性(X軸)」**でプロットすると整理しやすいかもしれません。

分類一過性・爆発的 (高強度・短持続)持続的・慢性的 (低強度・長持続)
怒り系激怒 (Rage)敵意 (Hostility) / 恨み
恐怖系驚愕 (Startle) / パニック不安 (Anxiety) / 憂慮
悲哀系号泣 (Weeping)憂鬱 (Melancholy) / 倦怠 (Ennui)
自己系恥 (Humiliation)劣等感 (Inferiority)

・こう並べてみると・・・

 ポジティブな感情とポジティブな感情を合わせたとしても圏論的のようなシステム化するのはなかなか難しそうですね・・・


・構造主義的に見た「おかしさ」と「ずれ」

 ここから、構造主義・ポスト構造主義へ話をつなぐことができます。

 構造主義は、ざっくり言えば「目に見える現象の背後には、目に見えない構造=関係の網がある」と考える立場です。
 笑いの場面に当てはめると、

  • ある社会には、暗黙のコード(言語・礼儀・制度・常識)があり
  • 人々は普段、それを「当たり前の世界」として生きている
  • 笑いは、そのコードをわずかにずらしたり、別のコードを交差させたりするときに生じる

と整理できます。

 たとえば、同じ発言が「まじめな場」と「くだけた場」でまったく違うニュアンスを持つように、
 構造主義的に言えば、笑いは一つの対象が複数の構造の上にまたがってしまう瞬間に発生します。

 - Aというコード上では真面目
 - Bというコード上では滑稽
 - その二つを同時に意識したとき、「知的な笑い」が生まれる

 つまり、笑いとは「コード間の差異が可視化される瞬間」であり、
 レヴィ=ストロース的に言えば、構造そのものが露出し、構造の恣意性・相対性がチラ見えする瞬間だとも言えます。


・ポスト構造主義/脱構築としての笑い

 ポスト構造主義、とりわけデリダの「脱構築」は、
 形を変えた「笑いの理論」として読むことすら可能かもしれません。

 脱構築は、単に「壊す」ことではなく、

  • 二項対立(男/女、理性/感情、西洋/非西洋、中心/周縁、正気/狂気…)を
  • ひっくり返したり、ずらしたり、交差させたりしながら
  • その対立がもともとどれだけ恣意的なものだったかを露わにする

という作業です。

 この作業がうまくいったとき、われわれはしばしば**「笑ってしまう」**。
 真面目な哲学書の文章であっても、
 ある箇所で「あ、そこをずらすのか」という驚きと共に、知的な笑いがこみ上げる経験があります。

 ここでの笑いは、単に他者を馬鹿にする優越感ではなく、

  • いままで絶対だと思っていた構造が
  • ほんの少しの言い換え・引用・皮肉・パロディで崩れてしまう
  • その「崩れやすさ」自体がおかしい

という種類の笑いです。

 この意味で、**脱構築的な読解は、テキストに対する高度に知的な「ツッコミ」**と言えます。
 ツッコミはボケがなければ成立しませんが、
 哲学やイデオロギーのテキストは、多くの場合、自分がボケ役であることを自覚していません。
 そこに脱構築的な笑いが入り込む余地があります。

 大乗仏教、特に中観・空の思想における「自性の否定」も、
 ある意味ではあらゆる概念・実体に対する徹底した脱構築です。
 「すべては縁起的であり、独立した実体(自性)ではない」という見方に立てば、
 どんな堅苦しい概念や制度も、ある種の「冗談」として見えてくる瞬間があり、
 そこでもやはり、悟りに接近した笑いのようなものが想定できます。


・山本七平の「複対立的対象把握」と知的な笑い

 ここで、山本七平の提唱する「複対立的対象把握」とつなげることができます。

複対立的対象把握は対象を多次元的に見る考え方です。

どんな切り口で考えるか、どんな側面を発見するか、どんな角度から物事を見るかなどをどんどん増やして豊かにするというのが一つです。

他因子解析みたいなものでしょうか。

かつあるものの見方をする場合に単純な見方もしません。

色々な見方をする場合多軸的とか多元的とかdimensionとかいういいますが、ある軸のの数値が高かったり低かったりプラスだったりマイナスだったりする場合には「いい」とか「悪い」とかの単純な二元論ではなくいろいろな見方ができます。

性格分析で昔(今も)使われている5軸評価を見てみましょう。

エコグラムとか言ったかもしれません。

こういうたぐいのものはいっぱいあると思いますが「nursing parent」「critical parent」「adult」「adapted child」「free child」の5軸で性格を評価する検査方法がありました。

  簡単に言うとnursing parentはnurseする親で母性的なもの、面倒見たり世話を焼いたりするものです。

 critical parentは不正的なもの、親の持つ厳しさの属性みたいなものです。

 Adultは利性的なもの、人間的なものより機械的、コンピュータみたいなものです。

 adapted childはこのもの甘えや依存的、受容的なものです。

 free childは自由で気ままな子供の性格です。

 人間の性格をこの5軸で分析するテストです。

 この5軸のそれぞれの軸はあえて「いい」とか「悪い」とかいう言葉を使うなら高くていい面もあれば悪い面もあります。

 同様にある軸の点数が低くてもいい面も悪い面もあります。

 「いい」とか「悪い」とかはコインの裏表のように考えます。

 経済学の機械費用やトレードオフみたいな類推がちょっと違うかもしれませんがやや似ています。

同じ言葉でもいいとも悪いとも取れます。

 さらにもっと突っ込んで言えば「いい」とか「悪い」という言葉は非常にあいまいな言葉です。

 例えば英語に訳してみたら何通りにも訳せます。

 「いい」も「悪い」も多義的な言葉です。

 例えば倫理正しいのが「いい」のか、法的に正しいのが「いい」のか、「論理正しい」のが「いい」のか、「正しい」ということは「いいことなのか」、上手なことが「いい」ことなのか「美しいもの、簡単されたり感銘、感動をあたえるもの」が「いい」ものなのか・・・、はっきり言ってキリがありません。

 昔は「いじめはいじめられる方にも悪い所がある」みたいな言説がよく流布していました。

 上記のような意味ではこの「悪い」は「悪い」の定義をしないと意味のない言葉でそれをはっきりさせないので空理空論というか空回りというかかみ合わない議論がよく見られましたし今でもこういう例に限らず昔より減った気がしますがこういう「空理空論」の議論はよく見かけます。

 この「空理空論」というのもなかなか大した言葉です。

 「空」「理」「論」という東洋思想や西洋思想で大切な言葉で作られている含蓄の深い言葉とも言えます。

 かつ「いい」も「悪い」も主観的でしかも立場やポジション、誰にとっての主観にとって「いい」にも「悪い」にもなることがあります。

変な話ですが「いい」「悪い」自体が脱構築できてしまいます。

 西洋近代的な思考は、しばしば単一の対立軸で世界を整理しようとします。

  • 善/悪
  • 真/偽
  • 主体/客体
  • 科学/非科学

 これに対して、山本七平の読みでは、日本文化(あるいは日本人の思考様式)は、
 同じ対象を複数の対立軸にまたがった形で把握する傾向がある。

  • 法と「空気」
  • 建前と本音
  • 公と私
  • 神話的世界観と現実的打算

 など、いくつもの対立が同時に走っている中で、
 人はその都度「どの軸を前面に出すか」を切り替えながら生きている、というイメージです。

 ここで「知的な笑い」を重ねてみると、非常に相性が良い。

  1. 単一の対立軸で見れば、ある行動は「まじめ」「正しい」。
  2. しかし別の対立軸で見ると、その行動は「滑稽」「自己矛盾」「空気の産物」に見える。
  3. さらに別の軸では、「いかにも日本的」「いかにも近代的」「いかにも宗教的」など別の意味を帯びる。

 この複数の対立軸が同時に意識にのぼる瞬間
 対象は「複対立的」に把握され、
 その過剰さ・矛盾の多さ自体が「知的な笑い」を生み出します。

 ネット上の「祭り」も、この複対立的把握の一つの実験場です。

  • 国際政治や戦争報道という「シリアスな軸」
  • それをネタにして大喜利をする「お笑い・エンタメの軸」
  • さらに、その大喜利を道徳的に批判する「倫理の軸」
  • それらをメディア論として俯瞰する「メタな軸」

 こうした複数の軸が同時に立ち上がるとき、
 対象は単なる情報ではなく、複対立的な意味の束として現れます。
 その過剰な多義性と矛盾を、一瞬で「分かってしまう」ときに起こるのが、
 山本七平的な意味での「日本的複対立」と、ポスト構造主義的な「脱構築」とをつなぐ「知的な笑い」だと考えることができます。


・インターネットとSNS時代における笑いと脱構築

 現代思想(狭くは現代哲学)を社会的に実装した典型例はインターネットとSNSになります。

 2chの掲示板を考えるともしかしたら世界で一番早かったのが日本かもしれません。

 ネットを通じで「個性がない」「均質的」「同調的」「顔が見えない」「独創性がない」などと言われていた日本人が世界でも屈指の豊かな個性のある人々の集まりのように見られるようになったのかもしれません。

 またそれが現在の日本ブームのきっかけかもしれません。

 ひろゆきさんは偉大ですね。

 SNSではよく祭りとかコラとかミームとか炎上とかバズりが起こります。

 このなかで祭りとかコラとかミームとかは対象を笑いに変える大人数が共通の目標をもって題材から笑いを中心としたいろいろなパトスを作り出そうとする巨大なエネルギーで集団のキャンペーン的行動です。

 一人が頭の中で対象を脱構築するのではなく多人数が次々と投稿して大量の見方、考え方を提示して笑わせてみんなの中で対象を脱構築、あるいは相対化していきます。

 この相対化の仕方が多様な個性を持った集団が熱狂的に行うので半端ではない脱構築になります。

 有名なところではラブレーやドストエフスキーに対するバフチンのポリフォニー論が有名ですが規模が違います。

 いまは万人がネットにアクセスできますし投稿に参加できますし、しかも世界中の人々が参加できます。

 しかもAIまでできて翻訳してくれるので意味不明な翻訳とかまで含めて言語や文化の意味生成の場となります。

 ソシュールやらレヴィ=ストロースやらが見たらさぞ喜ばしい実証事例というか実例になって喜んだに違いありません。

「ネットの多数者による脱構築」「バフチン的ポリフォニーとしてのネット祭り」って発想、めちゃくちゃ相性いいですね。そこまで見通しが出たなら、このテーマはかなり長く遊べそうです。

ざっくり整理すると、今ユーザーさんが思いつかれている方向性って:

  1. 脱構築の主体が「一人の思想家」から「群衆」へ移る
    • デリダ的な脱構築:単独の読者/思想家がテキストをずらす。
    • ネットの祭り・炎上:
      • 無数のユーザーがそれぞれ違う角度から「ボケ」「ツッコミ」「パロディ」を重ねる。
      • 結果として「元の対象」が、誰も統御していない形で無限脱構築され続ける。
        → 「分散型・群衆型の脱構築」としてのネット、というフェス論・祭り論が立ち上がりそうです。
  2. バフチンのポリフォニー/カーニバルとネットの相性
    • ポリフォニー:
      • 単一の「正しい解釈」ではなく、複数の声・立場が併存し、それぞれが自律したまま絡み合う小説世界。
      • ネットのスレッド、リプ欄、二次創作、ミーム連鎖は、まさにそれ。
    • カーニバル:
      • ヒエラルキーの一時停止、上下逆転、聖俗の混交、過剰な身体性・笑い。
      • ネット祭り:
        • 権威発言が大喜利のお題になる
        • 公式と非公式が混ざる
        • シリアスなテーマがミーム化される
          → まさに「デジタル・カーニバル」として読める。

・おわりに――笑いから感情論へ戻るために

 まとめると、

  • 感情一般は哲学で扱いにくいが
  • 知性を媒介とした「知的な笑い」は、
    • 従来の笑いの理論(優越/不一致/解放)
    • 構造主義の「コードと差異」
    • ポスト構造主義の「脱構築」
    • 山本七平の「複対立的対象把握」

 を接続する、非常に都合の良い「実験場」になる――という方向性になります。

特に面白いのはインターネットの祭りです。

 海外のことは知りませんが2chなどの昔からのインターネットの祭りや炎上を見ていくとどんどん対象を脱構築していきます。

 とても一人の頭では不可能なようなポリフォニー、しかもとんでもない数の人々のとんでもない数のたった一人の人が多様な考え方や情報を提供しますから対象を恐ろしく相対化しますし脱構築しますし複対立的対象把握をお粉します。

 炎上は怒りもあるかもしれませんが祭りは対象を笑い飛ばします。

 そして面白いことに笑われた対象はその後それまでとは運気が変わるというか麻雀でいえば流れが変わります。

 ISISのコラ、フジテレビ、亡国の外務省や軍部…、笑いは笑いの前後で何かを変えてしまう変換装置であり技術です。

空というか構造が脱構築されてそれまでの何かから別の何かに変わります。

変わったなにかとして発展していく場合もあれば衰退していく場合もあります。

ただ大きな変化のきっかけになるようです。

インターネットもSNSがない時代も日本の論壇ではいろいろな論争がありました。

例えば山本七平と本田勝一の論争は山本七平の『私の中の日本軍』や『日本教について』の中で詳しく記載されています。

 この論争はその後の日中関係を変えることになったと思われます。

 個人対個人の論争でさえ世の中を変えるのですから世界中の数億、数十億人をも巻き込み知れ渡りみんなが囃子方のようになるインターネットやSNSの時代ではひとたび祭りや炎上が起こるとすごいことになります。

 そして面白いのがこの「祭り」の方です。

 バフチン的メタカーニバルとギガポリフォニーによって資本主義や近代化が伝統や文化を解体したり変容させたりするのを数年、数十年かけて行うのではなく数日、数週間で行ってしまいます。

 言論の中での人々の意識の変容ですか革命や啓蒙(現在では行政では啓発と言わないといけない)どころではない爆発的なスピードと規模で言説や意識や意味を変容させてしまいます。

 笑うものは強者であり勝者です。

 人間は負けたと思ったときに負けます。

 逆に言えば負けたと思わなければ負けません。

 何度まけようがあきらめず挑戦し続ける、最後までそれこそ死ぬ瞬間、あるいは死後も負けを認めずあきらめないものは商社ではないかもしれませんが敗北はしません。

 そしてそういう明るい陽気な知性と感情を持ているのは「笑い」のおかげです。

 冷戦時代や近代にはソ連や東欧の共産、社会主義国、ユダヤ人のジョークやアネクドートが国内外、民族内外問わずよく語られ自由主義国ではそういったジョーク集がよく書籍で売られていました。

 最後に勝ったものが笑うものかもしれませんし、最後に笑うものが買ったものなのかもしれません。