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  • 2025年10月12日

仏教で一番大切なのは空ではなく中道、哲学で一番大切なのは構造主義でなくポスト構造主義

仏教で一番大切なのは空ではなく中道、哲学で一番大切なのは構造主義でなくポスト構造主義

・誤解がある

 仏教で大切なのは一に「中(中道、中観)」、2に「空(縁起)」です。

 これは誤解されやすい部分です。

 般若心経解説のYouTube見ていたら「全ては空」みたいな解説をしていました。

 般若心境は仏教のエッセンスをまとめたものとか言われます。

 とすれば般若心経にも空のことを書いているはずでこれは書いていると言えますが般若心経も悪いです。

 中とか中観とか中道という言葉が書いていません。

 確認してみると経典中1字だけ「中」という言葉が使われていました。

 「好是空中」です。

 ただこの言葉の中は中道や中観論の中ではありません。

 「これ故に空の中には」と空の中身や性質を伝えるためのものです。

 「色不異空 空不異色 色即是空 空即是色」とか中観とか中道の考え方は含まれていますが読み直してみると非常に誤解を受けやすい書き方をしています。

 最初はいいのですが中盤かあら後半にかけては誤解の多いことやどうでもいいことが書かれています。

 ちょっとかんがみるに般若心経と作った人は仏教をよくわかっていなかったのではないでしょうか?

 仏教は非常に誤解を受けやすい面があります。

 前に現代哲学や仏教をブランディングできないかなとブランディング会社の人に仏教のことを聞かれました。

何か心に問題があってカソリックだかプロテスタントのクリスチャンになったとかいう話でした。

その時に仏教は空を唱えているが本当かとか尋ねられて、まあそうだ、みたいに答えると怒られた記憶があります。

何かよく分かりませんでしたが空なら神はいないということになってしまうということになるということで何かそういったことが気に障ったのかもしれません。

まあ確かに彼の懸念はそうです。

クリスチャンとしては仏教なんか広がってしまったら困るでしょう。

彼は空は無と同じで神は存在しないという風に思ったのではないでしょうか。

それはまあそうです。

 空論を神に適用すれば神は存在する必要がなくなります。

 神ではありませんが釈迦が悟った時も悟った内容は空で空をそのように使いました。

 お釈迦様の使い方は般若心経にもあるように五蘊皆空で人間が五蘊にすぎずに五蘊の構成要素も空であれば輪廻転生もないという結論になります。

 お釈迦様の実存的悩みは人生には苦しみがあるということではなく世界と人間などの存在が輪廻転生するのであれば死んでも生まれ変わってまた苦しむ可能性があるということでした。

 有限の苦しみや死ねば解決する苦しみならお釈迦様にはまあ苦しいのは嫌でしょうけども問題はなかったはずです。

 問題なのはもっと一般的な問題で死んだ後も生まれかわって生まれ変わって苦しむ可能性があるということです。

 こういう意味では仏教は宗教であり既存のインドの仏教に対する新しい宗教の誕生でもあります。

 見方によっては新しい哲学の存在論や認識論の理論の創造とも言えるのでどっちの見方もできますしどっちを取り上げるかはその時々で変えればいいでしょう。

 ただ空は仏教の核心ではありません。

 お釈迦様も龍樹も天台智顗も大乗仏教系では仏教の最も大切な考え方は中道であり中観であり中です。

・空は道具に過ぎない

 「空はただの道具に過ぎない」ということを空論を作った大乗仏教の創始者龍樹(ナーガールジュナ)は言っています。

 「空は薬である」ということも龍樹は言っています。

 「空にこだわる人は手に負えない」みたいなことも言っています。

 これを仏教では空執や空見と言います。

 空を知らない人が空を知ると絶対化したくなるようなインパクトと感動がある考え方です。

 ただ仏教には空以上の上位概念があります。

 それが中、中観、中道とよばれるものです。

 

・そもそも空は何のために作ったのか?

 空を作ったのはある程度たまたまではないでしょうか。

あるいは当時の思想状況や出家直後に修業したところの影響があるのかもしれません。

お釈迦様の目標は苦痛から永遠に離れることです。

多分ですが短期的に苦痛から逃れる方法を求めていたわけではないと思います。

そもそも死ねばおしまいみたいな思想を持っていた文化圏はあまりないのではないでしょうか。

若干日本の侍や世界の知識階級の一部には「死ねばおしまい」という考え方を一部に持っていた可能性があると思いますがかと言っても周囲の文化圏とのそれとは異なる思想に対する意識や時に対立や緊張の感覚があったのではないかと思います。

当時も今でもインドでは輪廻転生です。

ですからお釈迦様が解決をはかるなら2つ、①輪廻転生しながら永遠に苦痛がない、②輪廻転生というものがそもそもない、かつできれば輪廻転生がないならかわりにあるのは死んだら終わり、のどちらかを達成することです。

お釈迦様が悟ったのは①でははく②で納得する思想を確立したためです。

そのための方法が空(お釈迦様の時代では縁起)の発明でした。

②のお釈迦様の戦略を達成するために問題になるのは西洋哲学でいう実在論です。

当時のインドでその考え方をどう言っていたのかは分かりません。

実在論は超重度知的障害(生まれたときから意識があるかどうかも分からないレベルで超重度心身障害とも言える、普通脳障害で動けないから)があるとかそういうのがなければ普通は勝手に身についてしまうものです。

私たちが人間性とか知性とか知能というものには意識しなくても勝手に普通に含まれてしまっているものです。

意識化しない、問題化しないとだれも意識も問題にもしないのでそれがあることに気が付かないかもしれないものです。

そこら辺を一番はっきりさせたのが西洋哲学ではプラトンかもしれません。

・お釈迦様の悟り

 お釈迦様の悟りは空(縁起)の発見、発明です。

 これは現代哲学においては脱構築とか形而上学批判とかポストモダニズムとかと構造主義と重なるものです。

 空なり構造主義なりを理解すればそれはうれしいものです。

 人間は何かを理解したり、何かを発見、発明すればうれしいものです。

 そして時にそれに執着します。

 しかし時間が経って冷静になって客観的にみることができるようになれば別のことに気付くことになります。

 それが中観でありポスト構造主義です。

 「空や構造主義を絶対化して実在論を排斥、排除する」それは机上の空論のようなものです。

 我々は実在論を持って生きています。

 悟ってからもそうです。

 空や構造主義を知っていても多分実在論を完全に捨てる生き方、考え方はできません。

 できるかもしれませんが無駄が多いです。

 発達主義心理学では知的発達はまず赤ん坊の感覚運動期、そのあとに直感的試行段階という時期があってその時期に物事を実在、実体として認識するような知的能力を発達させると思われます。

 そしてそういうものを土台にいろいろな知的能力、例えば抽象的思考のようなものを発達させていきます。

 基礎となる知的能力を排除して別の知的能力を作り直すのが単純に考えてもロスが大きいです。

 必要に応じて徹底的な構造主義や空の考え方を使う程度で、普段は物心つかない頃から身に着けている実在論的知的能力で生きていった方が感覚、感情的にも楽ですし、経済的というか認知的にも効率がいいです。

 そもそも実在論的知的能力を全否定して構造主義的知能システムなるものを作れればいいのですがそれに失敗するととんでもないことになります。

 実在論的知的能力もなく構造主義的知的能力もない状態になります。

 これを精神病の発症と呼ぶ人もいます。

 たとえて言えば外国に歩き方を学びに行って外国で新しい歩き方を身に着けられず、かといってもともと持っていた自分の歩き方も忘れてしまって這って帰国した人、のたとえのようになってしまいます。

・空は人間も輪廻転生も否定できるがそれが実在論の否定ということにはならない

 そもそも空や構造主義的な思考を徹底するとそれが自然に実在論の排除になるのでしょうか?

 そこがよく考えなければいけないところです。

 数学でいえば背反と独立という言葉で表されるもので、その概念を理解していないと背反と独立をごちゃごちゃにしてしまっている場合があります。

 別にお釈迦様が人間、というか輪廻転生をする主体としての魂のようなものや輪廻転生を否定する革新的な理論を考え付いたからと言ってそれで魂がないとか輪廻転生がないとかを実証するものではありません。

 近代科学の言葉で言い換えましょう。

お釈迦様が考え付いたのは理論であって別に何も実証していません。

かといって実在論もまた理論です。

実在論という理論があるからと言って構造主義という理論を否定するものでもありません。

別に両者はただの理論です。

かつ別に両者は背反しない理論です。

別の言葉でいえば独立した理論です。

だから両者は両立しえます。

そもそも実在論にせよ構造主義にせよ理論なので実証とは別の問題です。

両者ともに別に実証もされていません。

そういう意味ではどちらかを絶対化することもできないし両方とも絶対化することもできません。

 もしかしたら実在論とも構造主義とも違う全然別の理論があってそれが実証されてしまうかもしれません。

 とすると実在論が世界の真理だとか構造主義が世界の真理だとか言っていること自体がバカみたいな話になります。

 背反、とか独立とかは中道や中観、ポスト構造主義の相対主義の説明に少なくとも私はよく使いますがいろいろな思想や考え方や理論やイデオロギーの整理に必要な中心的な概念かもしれません。

・そもそも我々は何も分からないが豊かになれる

 結局我々は何が正しいとかこの考え方が正しく他方が間違っているとかいうのはルールがある場合はそれに準拠して判定できますがそもそもできません。

 そもそもルールがあるとしてもそのルール自体が我々が恣意的に設定しているものであってそれが真理であるからとかそういう理由ではありません。

 我々は結局何も分からないともいうことができます。

 他方で我々は分かることができるということもできます。

 心から何かを信じていればそれはその人にとっては分かっていることだし真実かもしれません。

 でも他の人にとっては「お前がそう思うならそれは正しいんだろう。ただしお前のなかだけではな」ということになります。

 ただ大切なのは我々はいろんな理論なり考え方なり思想なりイデオロギーをたくさん持っていてもいいのです。

 聖書みたいに他の思想の排除条項があるものがあるとややこしくなりますがそれはそれで聖書の安定性であるとともに脆弱性でもあるのかもしれません。

 聖書みたいに他の思想排除条項がなければ日本人みたいな大乗仏教とはあらゆる思考を受け入れることができます。

 これは豊かさです。

 我々はソクラテスの言うように本当のことは何一つ分からないのかもしれません。

 ヴィットゲンシュタインのいうように「知らないことは沈黙すべき」なのかもしれません。

 しかし本来それが正しいのかもしれません。

 何かをわかっている、何かが正しい、と主張する人は傲慢ですし謙虚さがないと見ることもできます。

 そもそも我々は高々考える葦であり何か心理を知っていたり心理を体現している存在ではないくらいに考えるのが常識的で良識的な見方ではないでしょうか。

 人類の歴史では時々イデオロギーの絶対化が流行って自分や自分たちの考え方が絶対に正しくて他の人も同じ考え方を絶対化するべきだし、社会もそう作り直すべきだ、みたいな考え方が吹き上げる場合があります。

 ただそういうのは後から見れば中二病的で思春期の黒歴史みたいなものです。

 今現在の文明も科学も技術も進んだ世の中でも時々そういう人たちを見かけます。

 しかししばらくすると黙ってしまい、そういう自分の過去をなかったことにするように見えます。

 このスパンは年々早くなっているようです。

 人間は空気と水がないと生きられませんが昔、特に20世紀ごろは空気の醸成が楽な時代で水を差すのが大変な時代でした。

 今は空気の醸成も難しいし水を差すのがいかに楽になっているかはユーチューバーになったりバズらそうとしたり、炎上を恐れたり炎上してひどい目に遭ったことがある人には痛いほどわかるでしょう。

・中観が大切

 実在論に執着するのも構造主義に執着するのもどちらも中学2年生的というか思春期の若者みたいな感じです。

 青いですし未熟で成熟していません。

 ある程度大人になったら恥ずかしい消してしまいたい自分が消えてしまいたい思い出になります。

 中観、中道、中、ポスト構造主義の相対主義はこういう大人の発想です。

 最初からこういう考え方を持てていれば空も構造主義も必要ありません。

 しかし人間は弱点があります。

 いい歳しても何かが正しいと神でもないのに主張してしまうことがあります。

 傲慢と独善の罪に人ははまりやすいのです。

 特にはまりやすいのは実在論に関係あるいろいろなことです。

 これは先ほども書いたように仕方ないことでもあります。

 生得的なものではないのかもしれませんが、実際にはプログラムされているかの如くほぼ生得的です。

 発達心理学で直感的認知や認識の段階に至れなければ知能障害、英語ではメンタルリタデーションで精神遅滞や遅れた子とみなされます。

 たぶん人類普遍的と言っていいものだと思いますが人類が文化や時代にかかわらず持っている人間の共通項で最小公約数といえるかもしれません。

 そういう人間の性質を自覚した上でいろいろな考え方や思想や理論を理解していく、これを教養主義といいってもいいですし知性そのものとも言えます。

 往々にして高学歴でスペックが高くても物の見方が単調で見透かしやすい人は多いです。

 頭の回転が速くて物覚えも知識も多いが情報処理方法が少ないので単調というパターンです。

 逆にハードウェアのスペックが貧弱でシンドウズなどとてものせられず、リナックス程度のOSしか入れられないハードウェアでもソフトウェアが素晴らしければスペックの低さをカバーできることも多いです。

・まとめ

 人間は中観、中、中道、ポスト構造主義の相対主義を持てればそれでいいというのが大乗仏教や現代哲学の結論です。

 ただそれを邪魔するものがあります。

 実在論です。

 実在論はほとんど生得的というか運命的にあらゆる人間が持ってそれに知らない間に支配されてしまう目に見えない構造です。

 目に見えない構造があるから構造を暴き出して脱構築する構造主義が必要です。

 その気があれば実在論を完全に排除して完全に実在論にとって代わりうる思想は東洋では大乗仏教の中(縁起)や西洋思想では構造主義しかありませんでした。

 これが空や構造主義が道具であり薬と言われる理由です。