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  • 2025年10月8日

統計学とパラダイムシフト、真理と真実の扱い方、アナログとデジタル、実在論と構造主義、正確性と精密性、妥当性と信頼性、工学と解析学

統計学とパラダイムシフト、真理と真実の扱い方、アナログとデジタル、実在論と構造主義、正確性と精密性、妥当性と信頼性、工学と解析学

・統計学というパラダイムシフト

 19世紀の科学は有名な「ラプラスの悪魔」で決定論的な世界です。

 そこでは誤差は脇役です。

 近似も必要悪です。

 現代ではいろんな科学で統計学で論文書かないと通用しない世の中ですが現代的な統計学の適用は科学技術史を通して遅れています。

 現代的な統計学の推定論や検定論が作られたのは20世紀でそれで実証しないと論文もアクセプトされないみたいなのが当たり前になったのは20世紀も半ばを過ぎて、場合によっては後半じゃないでしょうか。

 いつのころからか社会学や人文系の人でさえ統計学使って論文出さないといけないようになってきているはずです。

 年配者はそういう変化を覚えているかもしれません。

 誤差は脇役や悪役どころかむしろ中心です。

 確率、統計の分野では「分散」などの言葉が使われます。

 正規分布でも何でもいいですので分布曲線を描いてみましょう。

 離散的な分布グラフではなく連続的な分布曲線ではあることに気づくはずです。

 特定の値を出す確率は0です。

 正規分布なら0、あるいは平均をピンポイントで出す確率は0です。

 分布曲線で求められるのはある範囲内の値が出る確率であって、ピンポイントで出る確率は0というかそういう概念がありません。

 わかるのは与えられた範囲に入る確率までです。

 誤差というか分散しているのが本質的、というのは決定論的近代的科学観からのパラダイムシフトでした。

 

・真理、真実という言葉はもう古いが…

 ウクライナ戦争で聞くロシア語新聞のプラウダというのは真理という意味です。

 旧ソ連の時代から代表的な新聞で今もそうでそれゆえに国に結びついているのでプロパガンダメディアでもあります。

 現代思想的に言えば全てのメディアも私たちの認識もプロパガンダと真実は切り離せません。

 芥川龍之介と黒澤明の藪の中みたいなものの中に、ヴァーチャルなシミュレーション、シミュラークルな空間、社会、世界の中で我々は生きているのでオールドメディアの衰退とともに情報リテラシーが大切と叫ばれ始めている段階です。

 そういう中で「真理」「真実」ははやらない言葉になってきました。

 客観的な意味での真理や真実はなくても主観的な意味での真理や真実、というか我々はシステムや意志の力でそういったものを到達目標として設定します。

 それは道徳みたいな分野でもいいし、製造業で設計図を完成させる技術の分野でもそうです。

・正しい値のも古い

 真理、真実があるなら、真値というものもあるかもしれません。

 正しい値と言い換えられます。

 これは理論上はいいかもしれませんがいざ実務処理の段階になると正しい値を測定するのも作るのも不可能です。

 長さ1の直線を全くの誤差なく計るのは不可能ですし、誤差なく描くのも不可能です。

 近似的なものしか達成できません。

 そしてそれは脇役でも悪役でもなくそれ自体が本質なことだという事が近代に対する現代のパラダイムシフトです。

・製造業での設計図と完成品の関係

 製造業では完成製品がどれだけ当初の目標に近づけたかが大切です。

 設計図や目標のようにいかなくても味のあるいい作品がたまたまできる場合もありますがもうちょっと複雑な車や飛行機や宇宙船や衛星や半導体や機械式時計を作る場合には、特に量産する場合には設計図通りにピタッと作る必要があります。

 ピタッと作る場合にはいろんな部品をピタッと設計図通りに作らないといけません。

 ただ人間には、というより原理的にピタッと作るのは実際には事実上不可能です。

 これは我々の努力が足りないというわけではなくて多分原理的にそういうものです。

 「必ず誤差が生じる」これは努力の問題ではなく原理と言えるかもしれません。

 部品がたくさんある場合には誤差が積もり積もると完成品が上手く働かなくなります。

 かといって誤差をなくすことはできませんので「誤差を制御する」ことが必要になります。

・制御できない正確さより制御できる正確さを

 大きくて複雑な機械を作る際の部品を作る際について考えてみましょう。

 大きくて複雑な機械はたくさんの部品から作られます。

工学では「正確さ(accuracy)」と「精密さ(precision)」という2つの考え方があります。

 正確さは設計図に対してどれだけ誤差が少ないかを追求します。

 精密さも設計図に対して誤差の少なさを追求しますが正確さとは考え方が異なります。

 正確さと精密さについての違いは誤差のばらつき、統計学で言う分散に対する考え方の違いです。

 性格はあくなき誤差の少なさを追求します。

 ただ何回も施行していると誤差がかなり大きい値が出ることもあります。

 ただそういうのは考えずひたすら誤差の少なさを追求するスタンスになります。

 精密の方はやはり誤差が少ない方がいいに決まっていますがやはり何回も施行していると大きな誤差値が出ることがあります。

 この大きな誤差値が出てしまうことを問題視します。

 この大きな誤差値を出さないためにたとえ誤差は大きくなっても大きな誤差値が出ることを0にするのを目標にします。

 つまり勝頼は負けない、成功するよりリスクを取らない戦略です。

 思考で出る値をある範囲を決めてその中に誤差が治まる確率を100%にするようにします。

 正確さと違って多くの施行で誤差は大きくなってしまいますが、そのかわり決めた範囲内に100%収まってそこからはみ出すことはありません。

 ちょっとうう額を知っている人なら「近傍」という言葉がなんとなく重なりがいいかもしれません。

 製造業と言っても何を作るかでいろいろあります。

 正確さを重視するか精密さを重視するかは製造に対する考え方や時と場合によって違います。

 大まかにいうと単純でコストがかからないものは正確さの追及でいいです。

 失敗しても返品したりやり直せばいいだけです。

 複雑で高コストな物は精密さが大切になります。

 システムが複雑だとたった一つの部品の誤差の大きい不良品が全体をダメにします。

 システムが複雑で大きくて高コストなものを作る場合は成功より、あるいは質を多少犠牲にしてもシステム全体が機能しないとかクラッシュしてしまうような失敗をなくすことが必要になります。

 「制御できない正確さよりも制御できる精密さ」が必要になります。

 与えられた誤差の上限は明確なのでその範囲内でできる完成品を作るのが複雑で大きくてたくさんの部品を使うものを作る際の工学でのコツというか考え方になります。

 そして精密で保障された誤差最大の場合を前提として設計図を作ってそれに従って製品を作ります。

 これで予期せぬ問題、リスクが生じなくなります。

 性能や品質は正確を追求してうまいこと大きな誤差がない部品だけで組み立てられた場合よりは下がりますが、品質を妥協しても製品そのものが不具合であるリスクがなくなります。

 この冗長性を保った設計、製造思想が製造業や工学では大切になります。

・ちなみに妥当性と信頼性とは

 ちょっと似た感じの言葉に妥当性と信頼性という言葉があります。

 正確性とか精密性とは意味が違いますが見ようによって重なる部分があるのでこっちを主に使う学問分野もあります。

 一応妥当性と信頼性について説明します。

 先ほどは製造業の話で説明しました。

 何かを作る際に設計図や数値をきちんと実現できるかという話です。

 もう一つ、工学にも製造業にもついでに科学にも測定の問題があります。

 そもそも「正しい値を求められるのか?」「正しい値からの測定誤差はどれくらいなのか?」という問題です。

 前提としてやはり誤差というか分散やばらつきがあるというのに加えて隠れた前提として(隠れてないかもしれないが)「正しい値が存在する」というものがあります。

 正しい値とばらつきという観点から見ると測定すると誤差が少なく正しい値の周辺をきちんと測定できているのが正確性です。

 ただ工学ではこれは確率分布のように見るので時々ポカというか分散がありひどい誤差が出る確率があります。

 他方で正しい値が正確に分からなくても正規分布や量子力学のようにとんでもない誤差が出ることを多少誤差が大きくなっても誤差の上限、境界をはっきりと定めるのが工学的な精密です。

 妥当性はもうちょっとアバウトな感じであまり誤差の分散の大きさの事は考えません。

 ただ測定手段が正し値を図るための物であれば分散は大きくても測定を重ねれば測定誤差の平均は0になっていくので正しい値を測定するための妥当な方法だと確認することができます。

 妥当で分散が少ない場合にはだいたい測定結果は正しい値のすぐそばの測定値を出しますが妥当であっても分散が大きい場合は狙いはちゃんとつけられてもほとんど的の中心どころか的にも当たらない下手な鉄砲撃ち見たいなものかもしれません。

 全然的野中心から離れてはいますが測定をたくさん行えばその平均は的野中心に近くなっていきます。

 信頼性は測定手段のばらつきのなさを表します。

 ばらつきは少なくても正しい値を図っていない場合があります。

 測定するたびにだいたい同じような値が出るがそれが正しい値と全然ずれているという事があり得ます。

 さっき下手な鉄砲うちの例を上げましたが私は重火器の訓練をしたことがありますが的野上下左右にバラバラに当たってしまうというよりはいつも的の上か下のあたりに集中的に当たってしまっていました。

 正しい値からすれば的を外した射撃ですがだいたい同じところに飛んでいき射撃を重ねても再現性は高い感じです。

 実際はこういう的外れが鉄砲では多いのではないでしょうか。

 だから照準を合わすのが昔の軍隊では大切でした。

・誤差とアナログを飼いならす歴史

 誤差をいかに飼いならすか、これが人類の技術史というか科学誌というか産業史の大きなテーマでした。

 精魂込めて一所懸命に一つの製品を作り上げる職人魂みたいなのも素晴らしいですが、ある種の産業はそういうのに向いていません。

 「日本人は車までは作れるがそれより大きなものは苦手だ」と言ったのは堺屋太一氏です。

 かれは作家であり官僚であり田中角栄のブレーンで日本列島大改造計画を作った人物でもあり小泉内閣か誰かの内閣の時には閣僚かブレーンか何かを務め評論家であります。

 上記の言葉は氏の著書である「日本人とは何か」で書かれていた言葉です。

 彼は昔はやった日本人論の研究者でもありました。

 ある程度の規模の物なら部品数も少ないし、少数の人間で全体、あるいは多くの部分を把握できたり、あるいは試行錯誤でトライアンドエラーで洗練、ブラッシュアップしていけば何とかなります。

 むしろそういうアプローチの方がいいものができるかもしれません。

 でも旅客機や宇宙船などは人間の職人魂や根性だけでどうこうなるものではありません。

 精神主義だけではだめで専門特化やより大きなものをまとめて機能させる設計の考え方や上層部の作業に直接かかわらなくても全体工程を管理する機能や能力が必要になります。

 制御工学とでもいえばいいでしょうか。

 本田宗一郎氏のことは尊敬していますし悪く一定のではありませんが、自転車屋の親父が作れるのはオートバイや車まで、それも車でも本田宗一郎だからできたことで奇跡的な事だったのではないでしょうか。

 ホンダが飛行機作るには本田宗一郎の没後何十年もかかりました。

 まあホンダがただの飛行機なら作ろうと思えば作れていたと思えますが車で言えばF1相当の戦闘機を作ろうとしたら当時の国際情勢ではF2戦闘機のようにアメリカにつぶされていたでしょうけど。

 つぶされていたというか戦後は実質的に航空産業に進出することをアメリカが禁止する流れがありました。

 話がそれましたが飛行機は作れても宇宙船を作ろうとなると制御工学が要ります。

 制御工学に必要なのは「制御できない正確さよりも制御できる精密さ」です。

 「正確」な部品で宇宙船を作ろうとすると部品の数が多いですから分散が大きい部品、すなわち不良品が混じる可能性が高まります。

 他方で「精密」な部品で宇宙船を作ろうとすれば部品は「正確」な部品ほど質は高くないかもしれませんが不良品率が0になります。

 正確な不良品がない部品だけで宇宙船を作れれば一番いいのですが、それは確率の神様が許してくれないかもしれませんし、許してくれて成功してもそれは単にラッキーだっただけです。

 確率的なラッキー、偶然に期待するのは小さなものを作るとき、失敗しても使用者が不具合のトラブルに巻き込まれでもやり直しもフォローも効くものを作るときにするのがいいでしょう。

 むしろ日本刀の作成にしてもモナ・リザのような絵画を描くにせよ分業は向いてません。

 ミケランジェロのピエタ像はミケランジェロの精神、ネオプラトニズムの権限みたいなものでミケランジェロだけに作ってもらった方がいいでしょう。

 ただ宇宙船を作るのに一人の天才だけでつくるのはいい悪いではなくてちょっと違います。

 現代は凡人の時代です。

 天才の役割もありますが秀才も含めた凡人が運営していけるのが大切です。

 誰にでもできる汎用性、凡庸性、再現性が大切でそれは正確と精密くらい違います。

 ここまではどちらかというと統計学の話になりますが次からは解析学の話に移ります。

・理想(イデア、実在)の追求との付き合い方、解析学編

 前回までは誤差の話で設計図通りには作れないとか正確な値は測定できないという話でした。

 それを統計学とか確率論の観点で説明しました。

 これからは解析学の話に移ります。

 解析学というと微分積分を思い浮かべてもらえばいいので実数の微分積分のイメージで考えてもらうことになります。

 円があったり放物線があったりいろいろな曲線や関数があります。

 人間は一応直線は自由に扱えるとしておきましょう。

 直線は作成もできるし図ることもできるとしておきましょう。

 円の円周の長さや円の体積を求める場合を考えてみましょう。

 誤解を恐れずに言えば正確な円周の長さや円の面積は求められません。

 これは先ほど説明した誤差の問題ではありません。

 誤差とは言い方を変えればばらつきで、分散です。

 これは統計学の考え方になります。

 ここでは幾何学や解析学の考え方で考えていきます。

 幾何学でも解析学でも円の周長や面積を求めるのは近似です。

 幾何学では円の正確な周の長さや面積は正確には求められません。

 古代ギリシアのアルキメデスが円の周長や面積を求めるために使った方法は円に内接や概説する正多角形を使う方法でした。

 正多角形の画数が多いほど正多角形の周長や面積は円の周長や面積のよりよい近似になります。

 解析学の方法はこの方法の延長です。

 別の求められる値を使って円の周の長さや面積の近似になるものを求めるところから始めます。

 この別の求められる値を細かくすればするほどより正確な誤差のない近似になりますのでここで一発「無限」という概念を登場させます。

 円の近似で言えば無限多角形があるものとしてその周長や面積を求めれば円の周長や面積をピンポイントで求められるという考え方です。

 円の場合はこの方法でピンポイントで具体的な数値を求めることができます。

 ただし周長にも面積にもπという

 解析学で微分や積分を使うと正確な円周の長さや円の面積を求められるように見えます。

 この方法で求められているのかというと実際はどうなのかよく分かりません。

 「じゃあ求めた値を見せて」と言われてもコンピューターが計算する小数点以下の値を延々と永久に書き続ける作業になります。

 代数的数のように「この有限の多項式の解になるよ」みたいな形で示すこともできません。

 πは超越数ですので代数的数や代数的操作を超越しています。

 解析学的には示せるように見えますが実際にできるのは「じゃあ小数点以下何桁まで教えて」という要請になら答えることができます。

 この相手が要求する範囲でいくらでもこたえられるというのがポイントになります。

 これを解析学的操作方法として認定します。

 「ある誤差の範囲を要求された場合にその誤差より少ない誤差になる近似がいくらでも可能である」これが解析学の答えになります。

 これは大学で微分積分学を習った人ならイプシロンデルタ論法として記憶にあるかもしれません。

 解析学の答えというよりこれが人間の「正しい値がある」というイデア論というか実在論的な考え方と現実的な実務をつなぐ方法になります。

 方法、ルール、手続きを決めることで「何かを正確に求める」とか「何かを正確に再現する」ということの実務上の橋渡しを行います。

 ここら辺が解析学の形式主義的、公理主義的、構造主義的基礎になります。

 ルールチェンジャーというかゲームチェンジャーというか正しい値を求めるという事の意味に対するパラダイムシフトです。

・解析学とテーラー展開

 数学において加減乗除の四則演算は特別です。

 多項式で関数を表すのが代数的構造の基本でそれに無限を組み込むと解析学になるイメージです。

 台数は有限の多項式とその解や数というものの構造を扱います。

 多項式の解で表せない代数的数は超越数と言って代数的な群、環、体などからはみ出してしまいます。

 解析学は無限の多項式を認めます。

 三角関数や指数関数、対数関数などは超越的関数と呼ばれます。

 しかしこれらの関数の定義は無限な項と次数をもつ多項式でなされます。

 とういうか超越関数とかに限らずあらゆる関数は関数自体を多項式近似ができます。

 テーラー展開などが有名です。

 ポイントは多項式近似ができることも大切なのですが、無限に続けてもらちが明かないので、しっぽの部分を丸めることができます。

 しっぽの部分とは一変数関数であればある次数以上の項をまとめてしまうのですがここが重要になります。

 実際に関数に値を入れて数値を計算する場合にこの丸めの部分が誤差になります。

 よりテーラー展開が長ければ長いほどこの誤差とみなせる丸めの範囲が小さくなります。

 かつ丸めの範囲がどれくらいの誤差息を取るかをテーラーの展開の長さを調節することで決めることができます。

 誤差論、近似論にとってはこれが大きいです。

 最初に説明した「正確」ではなく「精密」が可能になります。

 現実や実務の中では大きなシステムになるほど「制御できない性格さより制御できる精密さ」が大切になります。

 テーラー展開やその他のいろいろな近似法(フーリエ展開、フーリエ級数)などありますが関数自体が近似できるという事とともに誤差の上限をコントロールできるのが大切です。

・アナログとデジタル

 昔はアナログをデジタルを使ってどう飼いならすかというのが主流でした。

 ただアナログがデジタルより優位というのも実際はどうだかわかりません。

 アナログは完全なデジタル化はできないかもしれませんが、デジタルの完全なアナログ化もできません。

 両方向で不可逆です。

 アナログをデジタル化、デジタルをアナログ化したら完全には元に戻せません。

 現代社会はコンピュータが主役になりつつありますので言い換えればアナログとデジタルが逆転しつつあるともいえます。

 生成AIはアナログな人間より人間らしくなってきました。

 昔は面積を図る求積法で例えば日本地図の面積を求めるのに正方形のピクセルを使って細かくしていけばより正確な値になります。

 デジタルカメラでもピクセルが多ければそして細かくなれば人間の視覚や脳の認識閾値を超えるかもしれません。

 そもそもコンピュータやそれを使った機械で生成したものの方が世の中多くなる、あるいはすでになっている可能性もあります。

 今まではアナログの中で部分的にデジタルを使うイメージでしたが現代社会はデジタルの海の中に孤島のようにアナログが存在しているだけ、或いは将来そうなるかもしれません。

 両者は永遠に一致しないのかもしれませんが永遠かどうかは分かりませんが努力の限り知被けていくのは可能です。

 そもそも人類が言葉を使い始めてからデジタル化は始まっているとも言えます。

 最近は人類じゃなくても言葉のようなものを使っている生物やその様子が分かってきているみたいですが。

 そういう環境を所与のものとしてやっていくのもいいのかもしれませんが基礎は裏切りませんので仕組みの原点を知っておくことは大切なのかなと思います。