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  • 2025年8月18日

かんたんな哲学史、現代哲学の構造主義とプラトン、ギリシア哲学と数学の例

かんたんな哲学史、現代哲学の構造主義とプラトン、ギリシア哲学と数学の例

・プラトンの葛藤、例でみる現代哲学

 西洋哲学史、古代ギリシア哲学を眺めてみると現代哲学を理解するよい例があります。

 プラトンのイデア論です。

 なぜイデア論みたいなのが必要だったのかを考えることで西洋哲学の歴史と抱えてきた問題、そして現代哲学のその問題の解決方法が大雑把に分かります。

 現代哲学を勉強する方法として、古代哲学から近代哲学に至る西洋哲学の歴史だけでなく西洋人の深層心理や精神構造、その変化を学んでいくとなるほどと納得しやすい部分も多いと思いますので分かりやすく説明してみたいと思います。

・古代ギリシア哲学

 古代ギリシア哲学の初期の特徴は自然哲学(自然科学的)で万物の根源を探求したことです。

 根源、言い換えれば本質ともいえるかもしれません。

 この「本質主義」というのは西洋思想史を通底して流れる通奏低音のようなものです。

 「本質主義」はまた「真理主義」でもあります。

 本質とか真理というのがあるというのが西洋哲学の基本テーマです。

 イオニアの自然哲学以外のところでポリスと民主制による弁論の文化、制度があります。

 自然科学も合理性や論理と相性がよさそうですが、社会科学的な政治や法律、行政なども合理性と論理性と関係が深いです。

 両者の合理性と論理性はちょっと違いがあるようで何にせよギリシア人の気質や社会性を規定する因子になったようです。

 両者の違いはのちに哲学者対ソフィストの対立みたいになってソクラテスが処刑される原因になります。

 ギリシアには「コスモス」「ノモス」「ロゴス」という言葉があってコスモスは秩序、ノモスは社会的規範、ロゴスは人間の理性みたいなものになります。

ロゴスは現在のロジックの語源です。

 他に「レートリーケー」というのがあり修辞みたいな意味です。

レートリケーは現在のレトリックの語源です。

 またソフィストという人たちもいて現在の「ソフィスティケイト(洗練する)」の語源です。

 哲学・自然科学・数学と政治・制度・法律はどっちも合理的、論理的っぽい顔をしていますが時に対立するような違いがあります。

 どっちもコスモス(秩序)を志向するかもしれませんが前者がいわゆるロジック的、哲学者的で後者がレトリック的、ソフィスト的です。

 前者が無矛盾性、整合性を志向し後者はポピュリズム的、詭弁的な政治性、プラグマティズム的実利主性があります。

 前者が学問、研究者的心理追求型で後者が大衆迎合的、ポピュリズム的、プロパガンダ的な感じになります。

 両者は水と油のように見えますが現代ではどちらも論理性を強調するのが面白い感じです。

 論理は正義みたいな感じなのですね。

・簡単な西洋哲学史

 何か世の中には原理や法則のようなものがあってそれに従って自然も社会も人間も動いているみたいな感覚が最初からあったのか醸成されていったのでしょう。

 ソクラテスやプラトンやアリストテレス、そしてヘレニズム期のストア派で洗練されていきます。

 西洋哲学史全体からみるとプラトンの功績は現実界とイデア界を分けたことです。

 これが西洋哲学全体の骨格になります。

 別れるべきではないので一致させる理屈を考えるみたいなのが西洋哲学のメインテーマになります。

 本当に「分けるべきではない」のかどうかは実際は不明なはずですが何かそういう強迫観念みたいな意識が西洋哲学のある面の歴史です。

 結論から言うと現代哲学やそのちょっと前の現象学や実存主義のあたりで「それらは分かれていてもいいんだ」という感じになりました。

 そのちょっと手前のドイツ観念論のヘーゲルが現実界とイデア界を一致させる理論を大成したのが近代哲学の一つの完成形みたいなものだったのかもしれません。

 アリストテレスは万学の祖とか言われます。

 まさに知識人で彼以前や同時代の知識を網羅した上で彼独自なものも加えています。

 論理学の祖とも言われていてオルガノンという著書?があります。

 中世の時代は三段論法論理学がメインだったようですが三段論法と言えばアリストテレスな感じです。

 その後ヘレニズム時代のストア派が現在の論理計算の論理学のはしりのような発展を論理学にもたらしましたがやや限定的で不完全でした。

 しかし論理が計算のように形式的なアルゴリズムで行えるという考え方が特徴的です。

 その前提として世界はコスモスだというものがあります。

 世界は秩序、調和、機械的、整合性、一貫性、無矛盾なシステム、構造として設計されているというものです。

 そのような全体をうまいアプローチによって法則性を見出したりします。

 そしてやはり上手なアプローチによって形式的に、直線的な言葉(記号)によって表現できる、という考えが育まれていきます。

 世界を機械、システム、構造として考える、これは別に西欧の近代や現代の思想ではありません。

 セム系の聖書でもないでしょう。

 むしろユダヤ教やキリスト教はヘレニズム、すなわちギリシア文明の影響を受けて現在の形になったと言えます。

 ローマでもないしケルト人やゲルマン人の考えともいえないでしょう。

 オリエントの影響は?で知りません。

 ギリシアはインドや中国の並んでやはり特別です。

その他いろいろ人類の知性の進化をもたらした紀元前800年から紀元後200年くらいまでを精神医学者から哲学者になったヤスパースは枢軸時代と名付けましたが特にこの3地域は特別です。

 キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の世界観、神が作った世界もギリシアの影響と受けています。

 ということは神が作った世界はコスモス的なものです。

 というわけでギリシアは早々に現代数学の元を作ります。

 ピタゴラス学派、ユークリッド、ディオファントス、アルキメデス、みんな数学の数論、幾何学、代数学、解析学の代表者のようなものです。

 このような有名な組織や人だけでなくても名もなき多くな人々がいたのでしょう。

 コンピュータや機械は別に近代だけのものではありません。

アンティオキアの機械、これは天体観測の為の機械で古代にすでに機械が作られています。

中世にも神学的結論を演算機で出す構想を神学者が行っています。

近代になればパスカルが現存最古の計算機、すなわち数値演算機を作っていますしそれをライプニッツもそれを改良しつつさらに現在のコンピュータの原型の構想をしています。

近代に論理学と数学が行き着いた場所、そこにプラトンの2つの世界を分けて考える発想が生まれます。

それも1つではなく最低2つは生まれます。

・神ではなく人間が無理数を作った

 古代ギリシアでは実数について有名な話がいくつかあります。

 世界の本質で根源で世界を作っているのは数であるといったピタゴラス学派が有理数ではない数、無理数を見つけた人を殺したという伝説は有名です。

 またゼノンのパラドクスも有名です。

 アキレスはカメに追いつけないとか動いている矢は止まっているという無限分割の話を聞いたことがある人は多いでしょう。

 ユダヤ人でもあったクロネッカーのデルタのクロネッカーが「神は自然数を作った。あとは人間のわざである」と言ったのは有名です。

 ちなみに現代数学では「自然数も数も人間が作った」となります。

 自然数を作るのはペアノの公理系というもので作ります。

 現代数学の形式主義や功利主義、現代思想の構造主義や現代の心理学などの人文科学や社会科学でも使われる「現代」という言葉が付く場合、「作る」という観点が必要です。

 「発見する」ではなく「発明する」になります。

 自然科学では理論系と実験系・実証系に分かれますが理論は作るものです。

 実験・実証・観測、測定などは発見するという言葉を使ってもいいかもしれません。

 クロネッカーの時代、コーシーやワイエルシュトラウスは解析学の問題を解決するため、言い換えると無限を操作するために実数や関数の連続性というものを使って解析学の基礎づけを行いました。

 古典的な見方では実数の連続性は自明です。

 しかし無限を古典的に扱うとゼノンのパラドクスを含めたおかしなものが生じます。

 例えば面積のない点がいくつ繋がってもやはり長さにはなりえないということです。

 ついでに面積のない点をいくら沢山敷いてもやはり面にはなりえないということになります。

実数を数直線で表して数直線に切れ目がないというのが古典的な幾何学の発想であり直感的、自然的な感覚に叶って自明であるとされます。

 

 しかし自明ではなく、そうであると決める、というのが現代的な発想です。

 数直線上には断点がない、というのが一つの表現になります。

 すなわち数直線を刃物か何かで2つに切ろうとしてもどこを切るとしても必ず何かの数に当たる、その当たる数が有理数の場合の無理数の場合があると考えます。

 実は有理数だけの数直線では刃物で2つの半直線に何の数に当たらず分割することができます。

 それを禁じるために有理数だけの数直線の隙間を埋めるために作られたもの、それを無理数と名付けます。

 これはデデキントという実数の連続性を規定する公理の表現の一つです。

 もし無理数というものがもともと存在するならそれは実在で本質です。

 しかしもともと存在するとかそういう考え方をもう無視してしまってそこに無理数というものがあるとすると決めてしまえばそれはクロネッカーの言う「人間のわざ」になります。

 これは無理数というものを有理数の数直線の隙間を埋めるために人間が作ったと言えます。

 こういう作るという見方を強調すると「コーシー列は収束する」という完備性の考え方でもいいことになります。

 コーシー列の収束ならそれは「完備」と言います。

 つまり隙間を無理数というのを作って埋めることで隙間のない完全な直線にするといううニュアンスを完備という言葉は持ちます。

 ちなみに収束するということは極限値があるということです。

 有理数の数列がどんどん狭くなっていく場合それだけではいくら近づいても隙間がないとは古典的には、あるいは直感的か自然な感覚か先天的か教育によって刷り込まれるものかはともかく隙間のない数直線というのははっきり言うことはできません。

 はっきり言えないのであればそう決めてしまえばいいのです。

 コーシー列の言い換えは極限値が存在するかどうかが分からないのではなく極限値が存在するものと人間が決める、ということになります。

 言い換えるとコーシー列が収束するために無理数という数を人間が作るということになります。

 ワイエルシュトラースの定理を見てみましょう。

「上界を持つ単調増加列は上限を持つ」になります。

デデキント切断のように端っこの端点問題です。

同時にコーシー列のように数列を使った表現でもあります。

これは表現を変えた方が現代数学の、そして現代数学を1つのプロトタイプとして成り立ったかもしれない構造主義というものを理解するのに便利です。

言い換えはこうです。

「上に有界な単調増加列は上限を持つように決める」というとわかりやすくなります。

最初からそうなのではなくわからないけど人間がそう決める、上限の点を作って置いて多くということになります。

3つの表現で表しましたがこれらはいくつかの要素に分かれます。

一つは順序集合であることです。

 有理数を基地なものとして有理数を使って無理数を規定する、あるいは作るのであれば有理数は加減乗除の成り立つ体ですので有理数体ということになります。

 またこれらはアルキメデス性があります。

 アルキメデス性はいくつかの意味を持ちますが「無限小という数はない」とか「無限大という数もない」とか「稠密である」とかそういういくつかの意味を含みます。

 稠密とは簡単に言えばある数とある数の2つの数の間に必ず第3の別の数があるということです。

 そういうことが成り立つ上に「完備である」という性質を付け加えます。

 人間が意図的にそうするという意味を強調するのであれば「完備であるとする」と書くとわかるでしょう。

 無理数を存在させる、あるいは実数の連続性はこのようないくつかのルールを組み合わせて人工的に、そして操作的、構成的に作られるものです。

 これは実数が連続というのはもともと自然に決まっているというプラトンのイデア的な考え方やユークリッドの「点とは面積がないものである」「線とは幅のないものである」といった素朴な実数のイメージ、実数の連続性のイメージとは異なるものです。

 しかしこうした操作的、構成的、構築的、形式的なものでないと古典的な数学はともかく現代数学のような厳密さを突き詰めた数学では使えません。

 現代数学に限らず現代とつくとこうした人工的、操作的、構成的、構築的、形式的ものになっていきます。

 これは構造主義のいい例です。

 「稠密性がある」「完備である」「順序がある」「体である」というルールを決めて無理数というものを構成したり実数を連続なものにします。

実数というものは古典数学のようにイデア界に本質的に実態として実在しても実在しなくてもいいのです。

 こういったルールを公理と言ったりします。

 また公理を組み合わせて導き出されるもの全体からある数学分野はできています。

 これは人間は必要なく機械や演算装置、計算装置が形式的な操作をすることで自動化できます。

 自動化できるものは簡単に言えばコンピュータやAIがあればいいということになります。

 むしろ人間が頭を使ってやるよりもコンピュータの方が正確かもしれません。

哲学的な意味でいうとプラトンのいうようにイデア界の有無に関係なく本質が実在しようが実在しまいが人間は実数も作成できるし数学もできてしまいます。

プラトンは彼の学校アカデメイアの門に「幾何学を知らないものは入るべからず」みたいなものを掲げていたほど数学を重視していました。

皮肉を言うわけではなくプラトンは彼の死後2000年後に数学が自分の哲学を否定的というよりは相対的、あるいは独立的、中立的解消のような形であったとはいえ解消してしまうとは喜んでいいのかと複雑な気持ちかもしれません。

彼の哲学は真面目過ぎるというか優等生過というか生堅な感じです。

師匠のソクラテスをあんな形で殺されたので本質、真理みたいなものにすがりたかったのでしょうか。

あるいは意固地になってこじらせてしまったのかもしれません。

ですからプラトンの影響を受けた西洋思想史というのは非常に生真面目でエリート主義優等生主義なものになってしまっています。

実数についてはもっと連続を補強するような付け加えも可能です。

例えばこれまでは集合論を使ってきましたが位相論的にも連続性を表現するルールを付け加えたらいいのです。

もっと滑らかなイメージ、言い換えれば直感性を付け加えたければ、「連結性のある開集合である」という位相の考え方をルールとして持ってきて付け加えてもいいでしょう。

こうした現代数学や現代哲学、もっと言えば構造主義の出現によって現代○○という現代の付くものは古典的なものとは性質が変わりました。

物理学では数学が重要と言いますが、数学というよりは理論系と実験系にわかれます。

実験系は観測、測定、実証などで新しい事実を発見したりすでにある理論を裏付けたりします。

自然の実在性とは直接関係ないですが自然からデータを拾う係です。

他方で理論系は理論を作る方です。

さっき書いたことの結論として理論は理論として完結していればいいのであってその理論を実現したような実際の自然があるかどうかは理論の素晴らしさとは時に別問題です。

ただ物理学者は数学者ではなく自然科学者であるのですでに自然から拾われてきているデータと矛盾しないように理論を設計します。

その理論がよくできたもので既存のデータを矛盾なく説明し、かつ新たな自然現象、自然の中から新しいデータを拾える可能性があるのであればその理論が自然現象の説明体系として妥当なものかどうかのストレスチェックをするために理論が予想するデータを自然、現象から拾って実証しようとします。

自然科学というのはこの繰り返しです。

この繰り返し時代は現代自然科学でなくても近代自然科学も同じことをしています。

ただプラトンの影響を受けている近代まではこの2つを一致したものとしてみようとします。

ソクラテスの呪いかプラトンの強迫観念でしょうか。

粘着質と言っていいほどにくっつけようとします。

キリスト教、ユダヤ教、イスラム教などの宗教の影響もあるのかもしれません。

現代以降はこの2つは1つにくっつけようと努力する必要がなくなっただけです。

 

・現象学という鬼子

 もう一つの流れとして減少額があります。

 ワイエルシュトラウスとクロネッカーの弟子で数学者であったフッサールは最初は数学の基礎を追求する研究をしていましたがそういうのを研究するなら対象は数学でなくてもいいとでも思ったのか哲学の分野に移って何か物事全体の基礎を探求する方向に分野を移籍しました。

 ここで彼は非常に論理的なことを考えます。

 我々は我々の内側の世界、こころか頭か精神の内界かわかりませんがいろんなものが現前、現象します。

 ノエシス、ノエマと言って意識を向けたてリアリティを感じたら現前、意識を向けてなくてもいろんなものが浮かんでいますが意識を向けたら現前になる、そういった意識の前景と後景の総体を現象と仮に呼びましょう。

 現前や現象があるからと言って、外の世界というのがあるのかも、またその世界に現前と現象の元となる何かがあるかはわからないのが本質であるということをフッサールははっきり認めます。

 ここまでは物自体とそれに到達できないジレンマを考えたカントと同じような感じです。

 フッサールはあるかどうかも分からない不確実な外界のことを考えるのは止めて(留保して=エポケーして)現象や現前の仕組みだけを考えるのが厳密な学問と言えるのでそれについて考えていこうと提案します。

 まあ時代の心理学的影響もあったのでしょう。

 あるいは精神分析的影響もあったのでしょう。

 学問とは方法の精神なので哲学する新たな方法論を編み出したわけです。

 ですから何とか主義とかではなく現象学と呼びます。

 ではなぜ我々の精神の内界にいろんなものが現前、現象するのかとか現前、現象する者同士、あるいは自分との関係はどういったものかとかの探求を推し進めたのがハイデガーになりフランスのサルトルがそれに20世紀半ばの殺伐とした時世の雰囲気を加えてサルトル的な実存主義風に味付けしてフランスで流行らせました。

 これもプラトンのイデア界の本質とその影としての目の前の事物を分けて考えるという考え方からそれらを分けて考える方向に哲学の方向性を進めることになります。

 しかし現代哲学は近代哲学批判から生まれたという側面がありますが近代哲学の中から生まれたという側面はあまり強くありません。

 構造主義が生まれたのは数学であり言語学であり西洋文明と未開の野性的原始的文化の関係を研究した文化人類学者のような研究分野から生まれたという意味では実の子ではなく養子みたいなものです。

 育ての親であっても血のつながっていない反抗期の養子みたいなものでしょうか。

 20世紀は素晴らしい発明、発見、成長、進歩もあれば戦争も虐殺もイデオロギー絶対主義も迫害もあった偉大と悲惨の世紀でした。

 20世紀に殺された人の数はそれまでの人類の歴史の中で殺された人の数よりけた違いに多かったです。

 ユダヤ人などは全ユダヤ人人口の1/2から1/3が殺されてしまいました。

 めちゃくちゃです。

 まあ外にも滅んだり消えたりしていった民族や文化や人間集団は西洋化の過程では多かったのですが。

・まとめ

西洋思想史にはギリシア哲学が埋め込まれて影響を与えていました。

キリスト教のせいで暗黒の中世になったと言いますしイスラム圏からアリストテレスが逆輸入していたとか、その影響でルネサンスから近代が起こったと言いますがそもそもキリスト教はめちゃめちゃギリシア哲学の影響を受けています。

ついでにユダヤ教もイスラム教もギリシア文明の影響を受けています。

ユダヤ教はバビロン捕囚の後から宗派によっては聖書に入ってないマカバイ記くらいまでのヘレニズム期の影響はやや空白と思っていたのですが結構資料は残っている様です。

そもそも新約聖書はギリシア語で書かれた書や手紙が編纂されているはずです。

そもそもユダヤ教、キリスト教のカソリック、プロテスタントの各派、イスラム教で聖書は共通部分もありますが編纂に際して採用している文書が違います。

ユダヤはヘレニズム時代にギリシアに占領されましたりギリシア文明を取り入れたローマ帝国にも編入されましたしそもそもバビロン捕囚以降もイスラエルだけに住んでいたわけではなく地中海世界にも広く住んでいて思想的に影響を受けています。

ギリシア哲学は現在の「哲学」という言葉が指し示すものだけではなくギリシア時代には全ての学問的な意味があります。

当然数学や論理学も含まれます。

論理、弁論、弁証、証明などがギリシア哲学では圧倒的に発展しました。

コスモス、ノモス、ロゴス、レトリック、弁証法や照明はギリシア語で何というのが分かりませんが、これらは世界には秩序、システム、構造、整合性があり、アプローチの仕方でそこから法則を取り出したり世界を説明出来たり論証出来たり、言語、記号を使って直線的に記述できる可能性があるということです。

この精神が西洋近代科学、技術を生みました。

その西欧人による人類の一つの黄金時代から現代文明が生まれました。

ただそこから出てきた最終結論は現代哲学、構造主義だったりポスト構造主義だったりしてこれは大乗仏教と同じところに収れん進化しました。

フランス現代思想後世界は冷戦終了もあり新自由主義やグローバリズムで現代にいたりますが新自由主義やグローバリズムは人類にとって持続可能ではない地球環境破壊や資源浪費や社会不安を返って進めてしまい現状保守反動を起こしています。

そういった中で新自由主義やグローバリズムに取り残された日本が最近はなぜか評価されていますが多分評価されている原因を考えるといろいろあると思いますが思想史的哲学的にみると多分2点ほどあります。

1つ目は西洋化しているのに民族というか国というか、日本は島国で単一民族的なのでこれらが重なるのですが、古い文物を残している点です。

人によっては縄文時代、それ以前の石器時代の何かを残しているという説があります。

一般的に近代化するとその国の古いものが失われてしまう傾向があります。

それが残っているのが日本の独自性です。

もう一つは古いものを残す仕組みがあるということです。

これは同じ島国のイギリスもそういう傾向がありますので地理的、地政学的なものがあるのかもしれません。

大体日本はあまり他民族からの侵略や支配を受けたことがないのも大きいでしょう。

一説では島しょ部、半島の先端、山の中などは古いものが残りやすいという説があります。

日本の場合はそれに加えて世界でほぼ唯一の大乗仏教国という特殊性があります。

大乗仏教は現代哲学と同じ思想なので歴史の最初、朝鮮列島から漢字や仏教などが最初に伝わったとありますが、文字と同時に大乗仏教が国のなれそめにある国です。

つまり歴史の最初から古くて新しい、先史時代の文物・精神性・王朝を残しながら西洋思想の最新・最先端を生きてきたという特別な国です。

いろいろな特徴はいい面も悪い面もあると思いますがこれからもこれも日本らしさである古きを温めて新しきを知る温故知新精神で生き残る・生き延びていきたいものです。