HOME 記事一覧 未分類 かんたんな実在論(realism)と現代思想の構造主義と仏教の空論
  • 2025年8月3日

かんたんな実在論(realism)と現代思想の構造主義と仏教の空論

かんたんな実在論(realism)と現代思想の構造主義と仏教の空論

・はじめに

 私のライフワークは現代哲学を世の中に広めることです。

 その視点で世の中を見ると世界中で特別な国が2か国あります。

 フランスと日本です。

 フランスはフランス現代思想と呼ばれるように近代哲学を大成、完成させた国ですが、フランスのすごいところはバカロレアの必修試験科目に哲学が入っていることでデリダやフーコーが普通に問題に出てくるところです。

 『二十一世紀の資本』の著者のトマ・ピケティの東大での講演の日本論が構造主義を知っている風だったので調べてみるとフランスでは哲学が高校必修でデリダとかフーコーとかの現代哲学までしっかり勉強しているという事でした。

 これは他の国もそうだというわけではないのでフランスの特殊性です。

 学制は日仏で違いますが高校生に現代哲学を教えている国はフランスだけのようです。

 他のヨーロッパの国も例えばドイツならハイデガーとか自国の哲学者を教えるようなところがあるようですが哲学を勉強するなら構造主義とポスト構造主義まで勉強しなければ意味が薄いです。

 なぜかというと近代哲学までの哲学は自然に感じやすく直感的に理解しやすいからです。

 あまり経験的に違和感があるように感じる学問、例えば物理学なら量子論みたいなのが教育を高等教育と初等教育に分けるのなら高等教育と言えるかもしれません。

 10代でははっきりわからなくても人生の早い時期にそういう高い山、自分の自然で直観的な理解方法では理解できない非経験的で非直感的に学ぶ学問もあるのだなというのを知るだけで十分価値があると思います。

 いまアニメなどを通じて日本のいろいろな物が海外ではやっているのですがだいたい日本ブームが一番早くから怒るのがフランスです。

 日本の大陸文化の受容は歴史の初めから仏教で日本の歴史は大乗仏教の歴史です。

 他方で西洋哲学の終着点は現代哲学でこれは大乗仏教と同じものです。

 始めと終わりの違いはありますが到達点は一緒でいったん到達してしまえば同じ価値観を共有できます。

 という事なので構造主義やポスト構造主義の解説や大乗仏教中観派の空論や中観論、天台宗の三諦論など解説する際にはフランス語でも記事発信していきたいと考えています。

・はじめに全体のまとめ

 現代哲学のポイントは構造主義を理解することです。

 構造主義は大乗仏教の空論と同じもので核心概念は「空」の理解になります。

 構造主義や空とは何かを分かりやすく説明してみます。

 西洋哲学の歴史は中心にある実在論(リアリズム)とそれに対抗する考え方が織りなす歴史です。

 西洋哲学の歴史の最終局面では構造主義という実在論に対する有力なアンチテーゼとなる対抗勢力が確立してそれらを止揚して一段階高いレベルでまとめる考え方としてポスト構造主義に発展するという流れです。

 実在論で主張しているのは「実体がある」「何かが実際に存在する」という事ですが、構造主義では実在論の主張する「実体」や「実際に存在する何か」に相当するものを実在論と違う形で用意する必要があります。

 これは現代思想でも仏教でもいろんな言い方がされますが一番よさそうなネーミングと思われる仏教側からとった「空」という概念で構造主義が表そうとしたものを説明していきます。

・構造主義は西洋社会の中心である実在論批判のために作られた

 構造主義の説明のためには構造主義が何を説明しようとしてなぜできたのかを念頭に置いておくといいと思います。

 西洋哲学の主流派は実在論です。

 特にキリスト教が入ってから顕著です。

 聖書的には神もその被造物である世の中も実在してないと困ります。

 近代哲学もそこまでキリスト教から離れられなくて吹っ切れたニーチェが「神は死んだ」と言ったところでようやく神から離れて哲学できるようになった感じかもしれません。

 世の中を実在や実体で説明するのは比較的簡単だし自然だし直観的です。

 自然科学にしても古典物理学は分かりやすくて量子論が分かりにくいのと一緒です。

 我々が反復して感覚できる感覚の再現性のあり、かつそのことを言葉で他人と共有できる物事が存在しないかもしれない、というのは素直ではなくひねくれた見方とも言えます。

 その上宗教的に異端で主張したら拷問や処刑されて死体も残らず火あぶりになるかもしれないとなればあえてそういう主張をするメリットがありません。

 古代ギリシアでは比較的自由に百家争鳴の様々な説が出ていたのが中世になってピタ―と止まってしまったのはそういう事情もあるでしょう。

 ただ物理的で感覚的に存在する物体などは実在論があっていますが、頭の中で思い浮かべる抽象概念や観念、想像、象徴は頭の中から取り出して物体化することができませんし他人と言葉などの表現手段で共有できるかというとできないことも多いでしょう。

 頭の中にあることは存在を実証できないし証拠を示すこともできません。

 そういうものに実体があるのか、実際に存在するのかというと立証が困難です。

 そういった頭の中にだけで思い浮かべられる事物もイデア(アイデア)界というところに本体が存在するといったのがプラトンで中世神学はプラトンと相性が良かった感じです。

 基本的に物事には両面があって実体として実際に存在する面と、頭の中で脳やら精神やら心みたいなものでとらえる面が同時にある、と考えてもよいのですが西洋哲学では西洋人の思考の癖か何か分かりませんが物事を極論化させてとんがらせて戦うみたいなところがありますので一方の極は実在論でそれを中心にそれに対抗する別の考え方が対立、論争を繰り返す形で思想史が進みます。

・実在論の実体の代わりになるのは何か?

 常識や社会通念で考えると普通はまるまる実在論を否定するのは非常識な感じに思えるかもしれません。

 でも心の中に浮かぶいろいろな想像やイメージ、そういうものは感覚的に感じられる目の前の物体よりいきいきとリアリティを感じられることはたくさんあります。

 でも「それが実体なのか?」というと意見がわれてみんなが同意するわけではないのでいろいろな説が提案される、というのが大まかな西洋哲学史とも言えます。

 実在論の実体があるというのは分かりやすい考え方ですが、実在論に反対するような考え方、実体がないとか実体と思えるものは実は実体とは別の物だとかいうのはよく言えば持って回った考え方ですし、悪く言うとひねくれていますし、では実体でないなら我々の心に浮かぶリアリティや確信や存在感、臨在感をもって浮かぶ想像力、インスピレーション、観念、アイデアは一体何なんだという事になります。

 それらは実際の主観的な感覚として例えば目の米に提示された感覚的に見たり触ったりできる物体のようなものより実在感(リアリティ)も存在感も強いように感じられることは頻繁にあります。

 それをどう説明してどう表現するのかが西洋哲学の歴史です。

 これは東洋思想の歴史も同じです。

・東洋思想の場合

 東洋思想の場合は2600年ほど前にお釈迦様が画期的な理論を提唱し、それが東洋全域に広まったという西洋哲学、西洋思想とは別の歴史を取ったという事があります。

 そもそも仏教には神がありません。

 この段階で「これは宗教と言えるのか」という疑問が浮かぶのが西洋人の感覚かもしれません。

 仏典では神様が出てくることはあるのですが脇役です。

 いてもいなくてもいい存在です。

 ポイントはいなくてもいい存在ですがいてもいい存在という事です。

 これは何を意味するか、というと仏教では神様はいてもいなくてもどっちでもいいという存在だという事です。

 例えばお釈迦様が悟ったときに梵天様(ブラフマン、現在のヒンドゥー教の三大神の一人)が登場します。

 これはお釈迦様が悟るのに手を貸したとかそういうわけではなく、悟った後に問題が解決したからそのまま死んでしまおうかとお釈迦様が考えた時に「死なないで生きて悟りや教えを世の中にひろめよう」と説得する役目として出てきます。

 神(この場合はブラフマン)は仏教が誕生する契機として活躍しますが仏教自体の内容には関係しません。

 仏教の教えの内容自体は神様に無関心主義です。

 無関心ですが否定するわけではなく神様はよく登場しますし仏教とはフレンドリーです。

 神様の方もお釈迦様には終始フレンドリーです。

 両者は反するもの、敵対するものではなくむしろウィンウィンの関係を構築しています。

 むしろ仲良しすぎてのちの世には日本では密教と呼ばれる形で宗教混交(シンクレティズム)を起こしてしまいました。

 密教も初期密教、中期密教、後期密教といろいろありますが日本に入っているのはたしか初期密教と中期密教で後期密教も後醍醐天皇の立川流がそうなのではないかという説がありますがよくわかりません。

 ちなみに日本の宗教の多神教的な性格についてはレヴィ=ストロースのように古い時代のアニミズム的な物が現代文明と折衷して共存しているとか神道は多神教で八百万の神々がいるとか聖徳太子が神仏混交、本地垂迹論があるとかいろいろありますが、実は密教の影響もあると思います。

 山川草木悉皆仏性と言いますが密教では世界は仏、仏性の表れであり、仏、仏性が世界のいろいろな物の形をとって現れるというような曼荼羅的世界観を持っています。

 あらゆるものに仏性が宿っていると考えるのはアニミズムなり神道的多神教に近い感覚かもしれません。

 日本は中国文化圏なので道教の影響もあるかもしれませんが道教は中国の地上の人間の皇帝制や官僚制などの社会制度が天井でも同じ形で行われているという考え方で日本に影響があるかもしれませんがもう一つ日本社会に根付かなかったかもしれません。

 西洋思想では実在論とそれに対するカウンター勢力の闘争ともいえるものが西洋哲学史そのものと言えるようなところがありますが東洋の場合は実在論の実体に非実在論なのに実体のように見える物の表現やネーミングを2000年以上前に確立することに成功し、それが中央アジアから東アジアの思想の正統派になりメインストリームになりました。

 お釈迦様はそれを縁起、無常、無我、無法などと呼び、後年大乗仏教の開祖のナーガールジュナ(龍樹)がそれを空という概念でまとめました。

 重要なのはインドでもシルクロードでも中国でも仏教は長らく隆盛していた時期があったという事です。

 インドも中国も昔から超大国です。

 特に中国は超超大国で人類史で文明の重心を地図上に置くと中国の近くになるくらい長らく人類文明の巨大パワーでした。

インドも南アジア、東南アジア、中央アジア、中東、そしてアフリカなどにも特にイスラム教以前からビッグパワーです。

 東南アジアがインド文化圏であることからもわかるでしょう。

 北にも伝播してチベット、ネパール、ブータン、中央アジア、モンゴル、そして遊牧民などにも伝わっています。

 遊牧民にも伝わるというのはユーラシア大陸の北部にも伝わるという事なのでユーラシア大陸の半分側から島嶼部などふくめて仏教東洋全域に広がったとみてもいいかもしれません。

 歴史上で長らく広大な地域で人類の大多数にとって仏教=文明だった時代があったわけです。

 インド、中国、遊牧民などの力があったとはいえ歴史の一時期とはいえ仏教が広域に伝播できたのはやや不思議です。

 仏教が伝わった国が完全に仏教化したわけでもないとも思われ、おそらく多分イスラム教やキリスト教のような排他的不協力ではなく他文化、他宗教と共存できたのが良かったのかもしれません。

 少なくとも大乗仏教国の日本は仏教以外の様々な宗教が残っています。

 日本は特殊な文明圏と言われることがありますがこれは仏教の特殊さかもしれません。

 同じく日本人や日本人の特殊と言われる性格も仏教と関係するのかもしれません。

 あいまいさや物事をはっきり言わないところ、決めつけないことなどはある種の他の文明圏からは短所とされることもありますが実は長所ともいえると思います。

 このように東洋思想には仏教の影響が大きいですが特に大乗仏教は西洋哲学で言えば現代哲学と同じものという点が興味深いところです。

 現代哲学は西洋哲学と同じく実在論で表せないものをどう表すかの哲学です。

 仏教は現代哲学に比べて2600年のアドバンテージがあるので現代哲学より洗練されたネーミングと体系があります。

 それを名付けて空といいその説明理論を空論と言います。

 仏教のエッセンスをまとめていると言われる般若心経の最初の部分を以下に示します。

観自在菩薩行深般若波羅蜜多時。照見五蘊皆空。度一切苦厄。

舎利子。色不異空。空不異色。色即是空。空即是色。受想行識亦復如是。

舎利子。是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減。

 空という言葉がいっぱい出てきますね。

 有名な「色即是空 空即是色」という言葉も出てきます。

 色というのは実在論で言うところの実体になります。

 「実体は空であり、空は実体である」みたいないみにあります。

 ここでは実体と空を対立させるのではなく「物事には実体と空の両方の側面がある」「実体にも空の部分があり、空にも実体の部分がある」みたいな感じで解釈するとよいでしょう。

 般若心経のこの言葉は空の説明ではなく同じくナーガールジュナ(龍樹)によってつくられた中観と中観論の考え方も表現しています。

「照見五蘊皆空」や「色不異空。空不異色」、「是諸法空相。不生不滅。不垢不浄。不増不減。是故空中。」の部分が空や空論を表しています。

 ちなみに「舎利子」はサーリプッタのことで釈迦の教えを理解してお釈迦様の後継者になるはずだったのに早世してお釈迦様を嘆き悲しませた人物です。

 龍樹(ナーガールジュナ)は2世紀の人なので。お釈迦様の700年から800年くらいあとの人です。

 空を最初に考えたのは龍樹ではないのかもしれませんが思想の内容や用語が、成熟、洗練されるにはそれなりに時間がかかるのかもしれません。

 ちなみにさらに空は中国語に翻訳されて7世紀の天台智顗は中観=中、空、実体=色=仮=戯の関係を三諦論にまとめています。

 お釈迦様が紀元前500―600年の人だとするとそれだけとってみても仏教では空の概念を1000年以上教義はブラッシュアップしてきたことになります。

・実体のカウンターパートは空

 結論から書けば実在論の実体に対して非実在論で実体に当たるものとして一番適当なのは「空」という事になります。

 もっといい表現が今後発明されるかもしれませんが2000年近く使われてきたのでそれなりに重みがあります。

 まず東洋思想から見ていきます。

 お釈迦様の説いた仏教では実在論の実体と対応するものとしてその性質のいろいろな側面を取って「因縁(十二因縁生起)」「縁起」「無我」「無常」「無法」などの呼び方をします。

 「因縁をつける」「縁起がいい」などと使います。

 お釈迦様自体が上手く表現できなかったようです。

 これらはお釈迦様の本当に表したかったもののいろいろな角度から見た側面です。

 そのものずばりを表す言葉や概念がなかったので表したいものの持つ側面や特徴で名付けを行っています。

 お釈迦様が紀元前600年代の人だとすると紀元2世紀にナーガールジュナ(龍樹)という人が表れてそれまで部派仏教と言われるいろいろな宗派に分かれてお釈迦様の教えの解釈や議論を行っていた仏教の状況に革命を起こします。

 かれはお釈迦様の教えの核心を「空」と「中観」という概念と言葉で表し中観派という宗派を開きます。

 これが大乗仏教の起源です。

 ここで龍樹が「空」と言ったものが西洋の実在論の「実体」に対する非実在論での「実体」に代わるものです。

 これはお釈迦様が表現したかったものの側面や特徴による名付けではなく核心に対する直接的な名付けです。

 「空」は見た目は無や虚に似ています。

 日本語の訓読みで「から」と読めば無や虚と同じ意味に解釈することもできます。

 しかし「空」は無や虚の場合がありつつもむしろ「有」でありえることが無や虚との違いです。

 そして「空」という言葉の真価がはっきされるのは「有」であるときです。

 「有」ですからいろいろな側面や特徴を持っています。

 というより「空」はいろいろな側面や特徴から作る、あるいは作られるものです。

 「実体」というのは必ず「有」で二次的にいろいろな側面や特徴を持ちます。

 「空」というのはこれとは反対にいろいろな側面や特徴から二次的に作る、作ることができる、作られるものです。

 逆に仏教では西洋の実在論における実体を「戯」とか「仮」と言います。

 「色」や「実」と言ってもよかったのかもしれませんがあえて空に対するカウンターパートとしての意味を際立たせるために「戯」や「仮」を使っているものと考えられます。 

 ここで例としてレヴィ=ストロースの「エゴ(自分、私、自己)」に関する東西での違いの解説とトマ・ピケティの「平等」の東西での違いを例として紹介します。

 レヴィ=ストロースはデカルトのエゴ(「我考える、故に我あり」の我)を次のように説明します。

 西洋では我の存在は一次的なものです。

 その我の存在から遠心的に我に関するいろいろなものが二次的に考えられていくと考えます。

 日本は逆です。

 外側に外殻としての周囲の状況やいろいろな条件、事物などが一次的に存在します。

  それらの外側の条件、状況、事物の関係や構造のネットワーク、網の目、マトリックスの結節により求心的に我というものを作ります。

 我というものは二次的なものです。

 そして外側や周囲の状況、事物、条件との関係や構造のネットワークがなければエゴ(我)もありません。

 そういう意味で我というものは「空」ですし「在る」ものですが実体とは違う在り方です。

 これが「無我」です。

 我とは「実体」ではなく「空」という意味です。

 次にトマ・ピケティの東西での「平等」に対する考え方を例に挙げます。

 西洋では「平等」とは制度、倫理、法の前提としてまず一時的に問答無用に与えられたものです。

 押し付けられたものとさえ言えます。

 この前提としての「平等」が制度や倫理や法律の中に組み込まれてその結果としての人々の平等に対する考え方や社会の形を作っていきます。

 日本では逆です。

 人々の心の中にまず文化、倫理、精神性としての平等が初めから心理的に組み込まれています。

 文化の「文」とは日本ではマトリックスであったりテキストの意味であり、網やネットワークを意味します。

 その結果として人々はお互いに平等であろうとし平等な制度や法律の構築や結果として平等な社会を形成するような生成力となります。

 それが経済的な欲望を原理として作られている新自由主義、グローバリズム、経済、金銭第一主義、金融資本主義、市場競争社会の中において他の先進国と比べて日本が明らかに異質で平等性を説明するトマ・ピケティの考え方でした。

 この場合西洋において「平等」実在する実態です。

 日本においては文化、倫理・精神・真理構造の中で生み出された「空」です。

・西洋哲学のおける「空」にあたるもの

 西洋哲学に戻ってみると西洋哲学では実在論を中心に展開されてきて実体だけではうまく説明できないことがあります。

そのため実在論に対抗して実在論と異なる様々な説が展開されてきたというのが西洋哲学史の一側面です。

実在論が何の物事であれそれが実在と主張するのであれば、それに対抗するには物事は実在でない何かと主張することになります。

その何かを探求したり説を立てたり説明するのが西洋哲学の歴史と言えます。

何かを示すために代わりになるもの、それを作る部品、示す表現を探す歴史です。

 歴史的にみると中世神学の普遍論争では実在論に対し唯名論がその何かは「名前」であると主張しました。

ちなみに古代ではソクラテスより前は百家争鳴、ソクラテス自身はメタ認知や相対論を提唱したのでえらいかもしれませんが、基本実在論者でしょう。

プラトンのイデア論が実在論ならアリストテレスの質料形相論、デュナモス・エンテイレケイア(エネルゲイア)論はやや非実在論的(実体が変化するから)と見なせる面もあるかもしれませんがアリストテレス自体が実在論的です。

古代においてはロジックを使った哲学者でなくレトリックを使ったソフィストの方が非実在論的だったかもしれません。

 イギリス経験論ではその何かを「タブララサ」としてそこに書き込まれる「経験」が実体の代わりになると説明しました。

 大陸合理論とイギリス経験論は実体を物自体と呼び、対抗するものを人間が感性、悟性、理性などで想像する「観念的産物」と考えました。

 ドイツ観念論では実在論の唱えるような感覚的で物体的な実体はなく本当にあるのは観念だけと考えました。

 現象学では実体の有無は分からないので留保して人間が学問的に研究できるのは「現象」と「現前」だけと考えました。

 ハイデガーは現象と現前がどのように生じるかを考えそれを「意味」「道具」と考えました。

 ニーチェは実体は「ない(nihil)」、実体とされているのは人間の精神がある種の欲求、欲望、ルサンチマンや権力への意志などを駆動力として精神力動が作る見かけ上の物と考えました。

 構造主義的な哲学では実体に対置するものを「構造」と呼んでもいいかもしれません。

 しかしそれぞれの思想家で独自の呼び方を考案しています。

 レヴィ=ストロースは「ブリコーラージュ」という言葉を使っています。

 これは本質が実体ではなく「空」であるということです。

 レヴィ=ストロースは「記号の国、日本」という著作か何かの中で日本の中心には皇室や皇居をさしたものだと思いますが巨大な「空」、「真空」、「空白」があるみたいなことを述べています。

 構造主義精神分析のラカンはそれを「大文字のA」と呼んでいます。

 また「想像界、象徴界、現実界の重なり」として表現しています。

 ボードリヤールは実態に対するものとして「シミュラークル」「シミュレーション」という言葉を使っています。

 これは面白いことに東洋哲学とは反対に「実体」に対するものであるはずだった「空」の方を「戯」や「仮」と言っています。

 それだけ実在論(リアリズム)の影響が強力だったのでしょう。

 ポスト構造主義の思想家たちは「空」に当たるものを実に様々な言葉で表現しています。

 デリダは「差延」と名付けたりしています。

実体の方は「現前の形而上学」として批判しています。

「実体」は形而上学(metaphysics)で「空」が「形而下学(physics)」的とみればこれまた東洋思想の「空」と「仮」「戯」との関係が反転しているように見えます。

 やはりそれだけ実在論(リアリズム)の実体(entity)の考え方が強力だったのでしょう。

 むしろ空の方がvirtual realityあるいはvirtual entityとして新参者のように扱われているように見えます。

 2600年前から「空」を重要視してきた仏教や東洋思想とは関係の逆転現象がみられます。

  ドゥルーズとガタリは「空」を「リゾーム」「ノマド」「機械」「粒子」、パラノに対する「スキゾ」のように多様な表現の仕方をしています。

 まとめると西洋哲学では実在論の実体に対する非実在論のそれに対応するもの、東洋哲学では「空」と呼ばれるものに対して「名」「名前」「経験」「タブララサ」「観念」「現象」「現前」「ない(nihil)」「意味」「道具」「ブリコーラージュ」「大文字のA」「象徴界、想像界、現実界のかさなり」「シミュラークル」「差延」「リゾーム」「ノマド」「身体なき機械」「粒子」などいろいろな名付け方をしています。

 これらは側面であり特徴でありプロファイルでありIDであり機能であるかもしれませんが必要十分な感じではありません。

 一面ととらえているだけであったり、余計な意味が含まれていたり、肝心な意味が抜けて解釈される可能性があります。

 ミニマリストの言うミニマルな感じがなく足るを知る感じや余計なものをそぎ落とした感じがありません。

 概念と名称への本質に対する指向性と洗練と歴史と伝統が欠けています。

 そういうわけで多分「空」が一番適した言葉です。

 これは別に西洋哲学がどうのとかいう問題ではなく東洋哲学でもお釈迦様がこの概念を最初に見出してから「空」という言葉を名前として持つまでに700~800年くらいかかっています。

 その上「空」という言葉には使われ始めてからインドやらシルクロードやら中国やら各地を転々とし翻訳後もいろいろ考えられたと思いますし、使われだしてから2000年近く経過しています。

 2000年の間に「空」という言葉に合わせて社会が形成されたと考えた方がいいのかもしれません。

 特に日本のような歴史(文字で書かれた人間の営み)自体が仏教、すなわち「空」と一致しているような国では特にそうです。

 奈良京都の寺社仏閣から現代の漫画やアニメ、日本人の曖昧で断言しない性格まで空や中観の影響を受けています。

・まとめると非実在論は空の理論

  

 構造主義の問題はせっかく実在論の空に相当するものを発見して新しいイノベーションを起こしたのはいいのですがそれが上手く表現できていなかったりネーミングできていなかったりすることにあります。

 構造主義というからには「構造」が説明対象なのかもしれませんがそのアプローチだとよくわからなくなる場合があります。

 構造主義は実在論の「実体」「実際の存在」と対置するものを説明するものです。

 実体に対置するものとして現代思想の構造主義やポスト構造主義ではいろんな呼び方を考えました。

 「差延」「ブリコーラージュ」「現前」「シミュラークル」「リゾーム」「身体なき機械」「粒子」「ノマド」「大文字のA」など多種多様です。

 ただどれも直観的に分かりにくかったり、特定の面から見たニュアンスが付与されていたり、何かが欠けていたりとうまく言い表せていないようです。

 他方で現代思想の構造主義と同じ思想である仏教の空論ではそれを「空」という言葉で表しています。

 「空」はなかなか的を得た表現です。

 他の分野からとってきた言葉ではなく本質的な物を表現するために工夫された言葉なので余計なニュアンスや欠けた部分がありません。

 仏教ではもともと同じものを表すのに「縁起」「無我」「無常」「無法」などの言葉を使っていました。

 縁起は十二因縁生起の略でお釈迦様が悟った内容です。

 ただどの表現ももう一つ分かりにくいと思ったのかお釈迦様の数百年後に大乗仏教の開祖の中観派のナーガールジュナ(龍樹)が空論という理論でお釈迦様の教説をまとめて空という言葉と概念にまとめました。

 それ以降は中央アジアから東アジア全域に広まった仏教は大乗仏教で仏教教学の中心を龍樹の空論と中観論が担い続けます。

 中国仏教の中興の祖は天台宗の智顗ですが彼が大乗仏教の教えの核心を「中」「空」「戯(仮ともいう)」と3つ理論にまとめてそれらの関係を総合してまとめたものを三諦論といいます。

 この三つが溶け合う世界観が三諦円融でこれは東大寺の奈良の大仏様の宗派です。

 これはポスト構造主義の中核的な内容と同じですがそちらよりはるかにまとまっています。

 天台宗で修業をして日本の天台宗の創始者になったのが最澄ですがいろいろ悩み深そうな感じの人生を送っていますので三諦論はあまり理解してなかったかもしれません。

 同じく真言宗の空海も密教にこだわりすぎなのでちょっと怪しいかなと思っています。

 日蓮は「大切なのは三諦論と法華経だけ」と言っていたらしいので仏教の核心を分かっていた可能性がありますがいろいろ議論があるようです。

 ただ宗教はお釈迦様でさえ中核理論を語るだけすむものでなく教団運営や道徳も布教のためには必要なので実際のところはどうなのかは分かりません。

・おわりに

 大切なのは現代哲学を世の中に広めることだと思います。

 トマ・ピケティや人類の未来に悲観論しか持てなかったレヴィ=ストロースではありませんが現代哲学や大乗仏教の空論、中観論、三諦論は人類の希望となる可能性があります。

 聖書にいずれ文字として記すのではなくあなたたちの心に刻むという言葉があります。

 多分欲望肯定の経済主義、進歩主義、理性主義の土台にある実在論的な排他主義的イデオロギーやロゴス中心主義コントロールできないとこの先人類も地球も世界も環境もレヴィ=ストロースやトマ・ピケティが言うように明るくはないのではないでしょうか?

資源も無限ではないし自然環境なども一度壊したり失えば不可逆的に回復可能なものをあまりにも壊したり失いすぎていますしその自覚もあいまいですし現実はますます急進的にその過程が進行しています。

拙文では実在論と構造主義(=空論)について説明しました。

 実在論は実体があることで実際に存在することです。

 これは分かりやすいので哲学の中心軸の理論です。

 一方非実在論は西洋哲学では構造主義として結実しますがやや分かりにくく、東洋思想では縁起、無我、無常、無法、空として大昔から概念も名前も与えられていますがこれもちょっと分かりにくいので分かりやすく説明しました。

 お釈迦様が悟ったのは縁起、無常、無我、無法などと表現されていますがのちの世に大乗仏教としてまとめられた中では「空」という言葉と概念でまとめられています。

 空は無や虚ではないところがポイントです。

 空では何かが明確にあります。

 そして人はそれを感じます。

 リアリティすら感じる時もありますし、幽玄な感じで何となく感じる場合もあります。

 人が感じない場合もありますがそれはないという事ではなく感じない何かがあるというのが「空」のポイントです。

 無や虚はないというのがポイントですので空とは違うものです。

 では実体とは何が違うのかというと実体は示したり示されてわかったつもりになったりするのは簡単です。

 実体は感覚的に分かること、反復して示すことができるのがポイントです。

 観念的なことでも言葉で伝えてお互い分かった気になれます。

 モダニズム、近代の古典的哲学も古典的物理学もそういう前提に立っています。

 一方構造主義とか空はどうかというと実体と同じように感覚的に分からなかったり、反復して示せなかったり、言葉でお互い分かったりできるように感じる部分がありますがそうでない部分があるのが空の特徴になります。

 実は実体も感覚的に分からなかったり反復して示めせなかったり言葉で伝えてお互い分かった気になれない部分があったり、わざとそうすることが可能でこれを現代哲学ではよく「脱構築」と呼びます。

 空は実体っぽく見えたり実体っぽく見せかけたりすることができます。

 また実体のように感覚や反芻や言葉で簡単に分かったような感じにすることも可能ですが、ほとんど無限と言えるような多面性や複雑さをもって示す場合もありますし、その中間くらいで切り上げることもあります。

 空は無や虚と違ってないものではなく、存在として、あるいは認識の中にあるものなのであるものは人間は表現しようとしたり名前を付けようとします。

 仏教の場合はお釈迦様が縁起とか無我とか無常とか無法とか言ってから「空」に至るまで何百年かかかっています。

 一方西洋哲学の方は現代哲学のポスト構造主義で学問としては完成して終わってしまいましたが、まだ現代哲学の構造主義やポスト構造主義の表現方法やネーミングの仕方が粗くて洗練されてないと言えます。

 約2000年人類の広い領域で使用された実績のある西洋哲学に「空(kuu)」をそのまま取り入れてしまえばいいのではないかと思っています。

 空はもしかしたら歴史に記されないような古い時代や、世界の大文明から隔絶された閉鎖的な地域には今でもある考え方かもしれません。

 でもこれからはもしかしたら空論的世界、華厳経に記されているような三諦円融的世界が実現できるかもしれません。

 これは現代哲学の同じ遺伝子を持つ兄弟ともいえる現代数学から情報科学、情報工学的に社会が鳴ってきていてインターネットやAIは実は現代哲学的でそれゆえに大乗仏教的なものだからです。

東洋哲学は早い時期から、日本などは歴史の最初から「空」があって、西洋哲学ではその終着点が「空」で、結局同じ道に合流しています。

制度として現代哲学を教育しているフランス、歴史的に空と中観を組み込み続けた日本が世界にはあり、文化的な共鳴、共振を起こしていることは偶然ではないのではないかと思います。