- 2025年7月27日
現代思想と大乗仏教の対応、実在論(実、realism)と空論(空、kuu)、中観論とポスト構造主義の対比
現代思想と大乗仏教の対応、実在論(実、realism)と空論(空、kuu)、中観論とポスト構造主義の対比
・序論
現代哲学と大乗仏教は同じ思想です。
結論から書くと下のような対応関係になります。
この記事ではそれを説明させていただきます。
・現代哲学も仏教も結局は同じもの
最初に結論から書かせていただくと現代思想(現代哲学)と大乗仏教は同じものです。
もうちょっと詳しい言い方をすると現代哲学の構造主義と空論は同じものです。
また現代哲学のポスト構造主義の一部と仏教の中観論も同じものです。
厳密にいうと構造主義と空論は同じものでいいですがポスト構造主義から構造主義とその他もろもろをひいたものが中観論と一緒になります。
最近は「メタ認知」という便利な言葉ができているので一言でいうと中観論とポスト構造主義から構造主義とその他もろもろをひいたものは「メタ認知」ということになります。
メタ認知は認知を認知することです。
では何を認知するかというと一言でいえばいろいろな考え方です。
思想だったり理論だったり考え方だったり情報処理方法だったり道徳、つまり行動の指針だったりイデロギーだったりします。
高校の社会的な言い方をすれば倫理、宗教、哲学その他です。
もっと言えば国語数学理科社会や数学理科社会などの各単元やいろいろな化学などの理論で考え方で情報処理方法で思想でイデオロギーとも言えます。
ことばについても言葉をつかえない場合は分かりませんがある言語、国語の使用者、あるいは多言語話者ならその中のある言語を使っている時にはその認知構造に基づいた考え方をしているとも考えられます。
コンピュータで例えればメタ認知はOSになりますしその他の考え方や思考様式はアプリケーションです。
歴史的発見、発展の順序で行くとOSよりは先にアプリケーションが発見されました。
仏教ではお釈迦様が最初に悟ったのは空論(縁起、五蘊皆空)になります。
その後中道(中、中道)が結果としてある意味必然的に導かれました
現代哲学では最初に発見されたのは構造主義です。
その結果としてやっぱり導かれるして導かれるようにポスト構造主義が導かれました。
アプリケーションが先でOSが後ですが我々もコンピュータを使う際にはOSを意識せずにアプリケーション、あるいはOS上で働くソフトウェアの方を意識し、利用しているので自然なことかもしれません。
・哲学の歴史はリアリズム(実在論)を中心に回ってきた
世界の大きな勢力、啓典宗教国や近代化途上や近代化を済ませた国(近代化は西洋化ともいえる)は二元論的に物事を考えると考えられがちです。
しかしよく見るとそうでない面があります。
むしろ一元論とその他で分けるということが多くあります。
近代化は欧米中心主義とその他です。
宗教は排他的唯一神教とその他です。
政治・社会・経済はリベラリズムとその他です。
哲学は実在論(リアリズム)とその他です。
本当はその他なのですが何か白黒思考や0か100か思考みたいなのがあってその他ですから本当は「非」なのですが「反」と考えてしまう認知バイアスみたいなのが働きがちなので往々にしてこういう議論は混乱しがちです。
非と反の違いは背反かそうでないかです。
例えばよくわかりにくいと言われるのが政治・社会・経済はリベラリズムとその他です。
その他は保守とか右翼とか言われる場合がありますが反リベラリズムはリベラリズムに反対、対立する考え方ですが、非リベラリズムはリベラリズムを含んでいい感じなので昔から保守論壇も自民党もリベラルを含めてなんでもありという感じですし、各国のリベラル、非リベラルも時代によって変わったりして専門家でないとちょっと良くわからない感じです。
その上そもそも同じ軸上の対極ではなく別の次元の話かもしれないのに同じ次元、レベル、クラスの物として考えてしまいがちです。
一元論も二元論も軸が一本しかないかんじで、数直線上のどのあたりかという話になりがちなので実は議論がかみ合わなくなります。
哲学においては実在論(リアリズム)は古代から一貫してあり中世の神学の時代には教義の主要な議論のテーマでした。
発達心理学では物事と言いますが人間の発達で言うとまずは感覚・運動、直観的な部分が発達するので物事を物の面から見たり考えたりするのが発達して、その後頭の中での抽象化、操作、概念化、観念化の物事の事の面が発達するのが順番です。
そのせいか実在論(リアリズム)は人間の精神の深い部分に刻まれて自明とみなされやすい傾向があります。
中世神学から近代哲学の歴史を見ると神学では実在論とその他としての唯名論、近代初期には実在論の一種の大陸合理論とその他としてのイギリス経験論、実在論とその他としてのドイツ観念論、実在論とその他としてのニーチェ的な実存主義の一部、実在論とその他としての現象学、実在論とその他としての構造主義となってようやく現代思想・現代哲学のポスト構造主義の中で両者の対立・対照構造を整理するのに成功して西洋近代哲学に決着がつくという流れになります。
・仏教の特殊性、西洋思想と東洋思想
ヨーロッパ中心の近代化文明がそういう感じとすると東洋思想は西洋思想とさかさまです。
2500年以上前にお釈迦様という天才が表れて現代西洋哲学の構造主義やポスト構造主義を一人で先取りして打ち立ててアジア各地に広めてしまいました。
西洋哲学では実在論とその他の対立の歴史でしたが、仏教では西洋哲学でその他に当たる思想が反実在論ではないので実在論を否定せず包含しながらメインストリームになります。
ですから東洋思想ではお釈迦様という一人の天才がいたために西洋哲学で結論とされて終着点となっているものがスタートになっているので西洋思想とは全く違う歴史をたどります。
日本は世界で希少な大乗仏教なので西洋人その他から見ると以上に異質な文明圏と言えます。
大乗仏教は奥ゆかしいというか主張が少ないせいかいろんな理由で抑圧されたり滅ぼされたりしがちなので日本が良くも悪くも目立って日本特殊論というのがよく議論されたりしてきました。
・実在論がなぜ優勢か、物と事、物性と事性
実在論というのは分かりやすい考え方です。
我々が心に浮かべるようなあらゆる世の中のいろいろな対象を仮に物事と呼んでみます。
世の中の物事とは物の性質と事の性質があります。
物事の物としての側面は物質的で感覚的なものです。
これを物性とでも呼びましょう。
ハイデガーみたいですね。
物事の事としての性質は感覚したと感じたもの、頭か心か精神の中で認知的に処理されている側面で抽象的な概念、観念、表象、思考、想像だったり、感覚はダブりますが仮に完治と呼ぶものだったり、リアリティを感じる感知や知る感覚や理解、納得だったりしたり象徴としての名前だったり物のいろいろな機能や性質だったりします。
多分人間が認知できる対象はたいていはその両方の性質があると思います。
物というのは感覚で感じられるものです。
目の前に何か物を出されて見ることも触ることもできるのにそれが存在していないと主張するのは難しいです。
五感で感じられ、反復的にそれを確認できるものをないと主張するのは滑稽です。
ただ目の前に五感で感じられる物を存在しないというのはあまり説得力がないので議論や問題にはなりにくいでしょう。
他方で五感で感じられる物にも五感で感じられる以外の部分があります。
名前を持っていたり道具として使えたり化学的に分析できたり社会や文化の中で意味を持っていたりします。
そういうのは物事の事としての性質です。
認知的な意味や機能的な意味、他の物との関係性で物事をとらえる際にはそういった面が前面に出ます。
お釈迦様は人間を五蘊というものの総合として捉えました。
五蘊とは色・受・想・行・識の5つの要素です。
人間自体が五蘊でなりますが物事も五蘊でとらえられます。
簡単に言えば色というのは物事の物質的、感覚的に感じ取れる部分、受というのは感覚、想というのは表象、行というのは意思や動作、識とは認識です。
物事の物としての性質は色と受が担います。
物事の事としての性質は受と想と行と識が担う感じです。
こういう見方はカントに似ています。
カントの『純粋理性批判』という本がそういう感じで書かれています。
・空論と構造主義とは何か?実在論との違い
まず現代哲学の構造主義と仏教の空論が同じものとして対応します。
これらは実在論に対して非実在論の完成形です。
実在論(realism)は実(リアリティ)の思想、空論は空(kuu)の思想です。
ここで問題なのは西洋の思想、知識、概念、言葉に空(kuu)に相当するものがないことです。
相当するものがないながらも実在論(リアリズム)に対抗して空に相当するものを発見、発明し、表現してこようとしてきたというのが西洋哲学史とすら言えるかもしれません。
・中世神学の普遍論争と空論
まずは中世くらいからの西洋思想史を見ていきます。
中世神学では普遍論争というのがあって実在論(realism)と唯名論が対立しました。
実在論はそのまんまの意味で実在がある、実体が存在する、実があるという考え方です。
それに対して唯名論は実体が実在するということはなくただ人間がリアリティを感じて実体と思っているものに名前を付けて実在していると思わせているだけという説を唱えました。
こういう持って回った言い方をしないといけないのは空という言葉がなかったからです。
概念を示すのにも持って回った言い方になりますしあまり分かりやすくもないかもしれません。
空論や構造主義の考え方から言えば空も何かから作られていてその何かの一つとして名前や名前を含む言葉、記号、象徴などが部品としてあるという見解になります。
・大陸合理論とイギリス経験論と空論
中世からルネサンスを経て近代初期になると大陸合理論とイギリス経験論というのが起こります。
大陸合理論というのは人間、場合によっては世界には理性や合理性、理がもともと実体として実在するという考え方で実在論の一種です。
イギリス経験論はもともと人間の中には形の決まった理性や合理性などがあるのではなくそういうものは経験を積んでいく中で後天的に形作られるという考え方です。
空論や構造主義の言葉で言えば経験が空を作る部品になります。
就職活動時に面接に進む前に事前審査で書類選考しますがその時に応募者が提出する人事採用者に提出してその人を知る判断材料にするプロフィールや職務経歴所やポートフォリオ、採用試験の点数などのようなものです。
その人自体に実際に合わなくてもその人の経歴や経験値で不採用かどうかをまず決めてしまいます。
その人と実際にじかに会うという「実」はありません。
もし実があるとすれば書類審査を通って1次2次の面接があればそれを実というのかもしれませんがそれでも実際働いてみないことには分からないかもしれません。
・モダニズムの開祖デカルトの二元論と空論
デカルトは自我の直観的実在性を哲学の根拠にしています。
つまり自我にリアリティがあるのでリアリティがあるものは実在するという論法です。
デカルトでは結局「神の誠実」というものを哲学の基礎に据えていますので神の実在も被造物である神以外の物にせよ心にせよ実在といった感じです。
これはリアリティを感じないものでもキリスト教や聖書や神が実在を保証してくれるという発想です。
デカルトは要素還元的方法論というのを提唱しています。
全体ではわからないものでも部分に分けてそれぞれを理解したうえで全体を組み立てなおして総合すると全体も理解できるという考え方です。
この総合、組み立てることによってどうなるかが問題です。
組み立てることで全体が新たな実体性を持つ、生み出すのか、新たな実体は持たない、生み出さないかです。
前者が実在論的な立場に後者が空論や構造論的な立場になります。
・ドイツ観念論と空論
ドイツ観念論は合理論と経験論の折衷主義のカントの中途半端さをついて観念一元論ですべてを説明しようとする試みです。
カントは合理論と経験論を折衷してとても現代的な認識論を作りました。
物自体というものがあってそれを理性、悟性、感性などが加工して認識するというものです。
ただ物自体という物性のものと理性、悟性、感性という観念的な事性のものが分離してしまっていてジレンマが生じるのでそういう中途半端なことをやめて観念一元論にして物自体、物性も観念が作り出すように一元化しようというのがドイツ観念論です。
フィヒテ、シェリング、ヘーゲルを経て近代西洋哲学はいったん完成ととらえることができます。
基本的にすべては観念という考え方なので実在とか実体とかいう考え方はやや焦点から外れます。
観念論は実在論か非実在論かはどちらでもいいのかもしれませんが仮に空論とセットで考えると空を作るのは観念であったりフィヒテの言う障害であったりヘーゲルの弁証的な構造だったりするのかもしれません。
・フッサールの現象学と空論
フッサールの現象学は実在とか実体とかを留保(エポケー)していったん自分にとっては確実な精神に現れる現象だけを前提として、「実体があるから意識に現象する」とか「意識にするから実在するのか」みたいな考えは減少よりは先の思考ステップでそれぞれ独立なものです。
前者が仮に唯物的、後者が仮に観念的と言えるかもしれません。
減少するものを現前と言います。
現前があるから事物があってそれを認識するのか、表裏逆に現前があるからそれを物質世界があると頭が勝手に解釈するのかは実際には分からないので切り離して考えなければいけないというのが現象学の創始者であり実は数学基礎論の研究者でもあったフッサールの主張です。
ここでは現前するからそれにリアリティを感じるので実態が存在すると考えるのが実在論(realism)になります。
他方で現象、現前は空の構成部品の一つで空を作る材料に過ぎないと考えるのが空論になります。
・ニーチェの哲学と空論
実存哲学は存在論や認識論をテーマにしていないので実在論(realism)とは必ずしも関係ありません。
しかし実存主義者でありつつも存在論や認識論をそれなりに扱っている哲学者もいます。
ニーチェ、ハイデガー、サルトルが一番有名で代表的だと思います。
特にニーチェは現代哲学というか空論そのまんまと言える哲学を展開しています。
有名な永劫回帰とか超人思想とかの道徳的な側面ではなく、世界はカオスだとかルサンチマンや力への意志があってそれが力動的に世界像や認知を形成するとか神は死んだとかいう部分の中にそれが含まれています。
ニーチェは我々の生活する世の中というのはよくわからないもの、仮に混沌だったりカオスだったりするが精神的な力動、そしてある欲求や欲望や意欲や執着、例えば力への意志みたいなポジティブな精神的駆動力であったりルサンチマンみたいなネガティブな駆動力だったりがそれに見合った認識や存在の在り方を形成すると考えました。
これは現代的な構造主義そのものと言えますし、仏教でいうお釈迦様の縁起(十二因縁生起)であったりナーガールジュナ(龍樹)の空論そのものだったりします。
この哲学の前では空論が主で実在論は中心ではなく人為的創作へ転落・零落します。
・その他の西洋の思想と空論
ニーチェ哲学に前後して数学や言語学で構造主義や形式主義、公理主義、論理主義、のちに集合論や圏論などの関係主義というのが生まれてこれはもうすでに空論そのものです。
自然科学でも物理学の量子論というのが出てきてこれは空論とは違いますが古典的実在論、すなわちデカルト的世界観を包含しつつより一般化した物事の見方を提供しますがこれは我々が自然に持っている世界観とか物質観とは全く別な近代科学やや古典哲学しか知らない人から見れば異様な世界観を提供します。
・空論と構造主義から見た実在論と非実在論
20世紀は知識人にとっても世の中や一般の人々にとっても構造論が浸透して広まっていった世紀と言えます。
20世紀中ごろにはレヴィ=ストロースが構造主義を思想界の中心に押し上げます。
同時にいろいろな分野で今まで実在論で作られていたいろいろな学問が構造主義で再構成されて行きます。
ちなみに構造主義自体は「主義」です。
イズムというのはイデオロギーと考える人もいますが単に方法論だったり手法にすぎません。
後者の考え方でいろんな学問、研究分野が今までは実在論を無意識の前提でしたが基盤や前提ではなくなり構造主義が基礎や原則となり前景化します。
構造主義の流行の中で構造主義の四天王と言われるレヴィ=ストロースが文化人類学を構造主義化し、ラカンが精神分析学、もっというと精神や認知・認識の構造化を行います。
アルチュセールがマルクス主義、共産主義の構造化を行い、フーコーが文献学・歴史学などの社会科学・人文科学の各分野の構造主義化を行います。
つまり数学や論理学などの教養的な学問の基礎にしてもそれらを基盤とする自然科学、人文科学、人文科学は構造化されます。
有名なのは数学の全体を構造主義で書き換えようとするブルバキという集団とその活動になります。
・空論と構造主義のまとめ
デカルトの要素還元して分析しそれを総合して世の中を理解する考え方を紹介しました。
昔ならいいのですが現在の物はものすごく多種類で大量な部品で複雑に作られています。
車も飛行機も兵器もコンピュータもそうです。
例えばAI入りのロボットやアンドロイドはどうでしょう?
これはSFでよくテーマになりますし、現在のAIのシンギュラリティなどで問題になる部分です。
ようするにAIが人間のような自我をもったらどうなるのか?というテーマです。
日本では昔からロボットも機械も人間のように擬人化して感情移入します。
他方で世界の主要勢力であるキリスト教、イスラム教、ユダヤ教といった啓展宗教では神と人間とその他の被造物がそれぞれ本質的に別のものとみなします。
まず神は創造主でその他のすべては神の被造物です。
被造物の中でも人間は神の姿を借りて作られているので被造物の中でも特別なものとされます。
というわけで啓展宗教では区別的、あるいは差別的です。
神と人間と人間以外の被造物という3段構造になっています。
また当然のように実在論です。
神やその被造物が実態として実在しないというの主張するのはかなり問題があります。
そういうわけで中世神学の普遍論争では実在論に対する唯名論は異端的と見なされやすくオッカムやベーコンなどキリスト教圏の辺縁であるイギリスが中心地でした。
日本の鉄腕アトムもドラえもんも人間として扱われたりしますが、欧米の映画を見ているとそこな変がナーバスです。
2001年宇宙の旅ではAIのHALが自我を持つということに主人公が恐怖、混乱を起こすというパニック、ホラー映画のようになっています。
サイバーパンクのブレードランナーではレプリカントというアンドロイドが自我を持つシーンを最初は恐慌ですがラストは感動的に描かれています。
欧米では自我は魂みたいなもので人間の実体みたいに見るところがあるのかもしれません。
空であるはずのコンピュータやアンドロイド(AI)が自我をもったら実になるというのが聖書文化圏ではテーマになります。
昔複雑系がはやった時に「複雑なものは精神を持つ」という言葉がありました。
日本の場合は複雑でなくても山川草木、あるいは何もない所でも心や存在感を感じるのは普通とされそれに心を感じる、感情移入することはむしろ文化の一部です。
・空は部品から作られる
実在論(realism)を中心に非実在論の西洋哲学での流れを例示していきました。
実在論に対して非実在論の思想はいろいろな形をとります。
中世神学では唯名論、近代初期のヨーロッパではイギリス経験論、近代西洋哲学の完成期ではドイツ観念論、近代から現代への移行期では現象学みたいにいろいろな形をとっています。
なぜこんないろいろな形をとるのか、説明の仕方をしないといけないかというと空の言葉と概念がなかったからです。
そこで空を作る部品で思想を表していきます。
これはラカンなどののちの構造主義者やその後のポスト構造主義者がうまくまとめていきます。
空を作る部品として唯名論では「名前、象徴」を提案します。
イギリス経験論では空を作る部品として「経験」を提示します。
ドイツ観念論では空を作る部品として「観念」を提案します。
現象学では空を作る材料として「現象」「現前」を提案します。
非実在論は実在論を含みます。
反実在論ではないので実在論を排除せず、変な排他主義はありません。
ですから実在論は空を作る材料として「物質」「感覚的に感じられるもの」を提示します。
ラカンの考え方ではそういった部品を総合して組み立てて空を作ります。
空ではなくて実在、実体を作るという風に言っても実は構いません。
しかしあえて実体や実在を仮定する必要がないというのが現代的な考え方です。
空論と実在論は別に排他的、背反的な思想ではないので両者が同時に成り立つのもあっても構いませんしむしろ両方の見方を同時にできるようにするのが大切だ、というのがポスト構造主義でもあります。
・まずちょっとだけポスト構造主義の説明
ポスト構造主義はラテン語の接辞であり前置詞でもある「post」と「structuralism」の合成語になります。
「ポスト」は「~の次の」とか「~の後の」という意味になりますがこれと同じ言葉は古典ギリシア語では実は「meta」になります。
メタは最近では「~を越えた」「~の上の」みたいな感じに使われますがこの使われ方はアリストテレス以降でアリストテレスの影響を受けたものでそもそもの意味はポストと同じ「~の次の」とか「~の後の」と同じ意味になります。
現代思想は構造主義からポスト構造主義に至る過程で非常にごちゃごちゃしていますので時期で分類したのはそれはそれでよかったのかもしれませんが、現在のように時間がたって当時の状況も冷静客観的に整理できるような立場から見ればポスト構造主義はむしろ全然別の名称にしてしまうか構造主義という言葉を残したければメタ構造主義とでも名付けた方が適切です。
この場合のメタはアリストテレスの形而上学や現代的なフェイスブックの親会社のメタの意味で使います。
・簡単なポスト構造主義
当時はそういう言葉はメジャーではなかったですがいまはポスト構造主義を表すのにぴったりの言葉があります。
「メタ認知」です。
ポスト構造主義というのはどんな思想でも考え方でもいろんな科学理論でも宗教でも哲学でもイデオロギーでもメタ認知をするという考え方です。
ですから「メタ認知主義」とでも名付けた方が適当です。
「認知・思考に対するメタ認知主知」とでも名付けてもいいのかもしれませんが長くなってしまいます。
仏教ではこのメタ認知主義を表す言葉があります。
お釈迦様は「中道」、ナーガールジュナ(龍樹)は「中観」、天台智顗は「中」と名付けています。
西洋思想ではそもそも言葉がありませんでしたのでポスト構造主義と名付けているのだろうと思います。
ただポスト構造主義ではいろいろなものが混じりすぎてしまって何をさしてつかっているのか分かりにくい所があります。
ですから下のような式で考えるといいでしょう。
「新しい意味でのポスト構造主義」=「思想のメタ認知」=「ポスト構造主義」-「構造主義系の思想」-「実在論系の思想」-「その他」
ととらえるとちょうどよくて適切です。
こうとらえられれば「新しい意味でのポスト構造主義」は「メタ認知主義」と同じになって仏教の「中道」「中観」「中」と同じものになります。
・言葉と概念がない現代哲学の空や中の表現方法
言葉と対応概念がもともとないということは新しい思想や概念を表現して名前を付けるのに苦労します。
ポスト構造主義のポイントの部分については今はいろいろな考え方、思想、認識のメタ認知というように表現できます。
昔はメタ認知は有名ではなかったので相対主義とかいう言葉が使われたりしました。
仏教でいえば一言で中道、中観、中になります。
中庸とかとは違うことに注意が必要です。
空の方はいまだにしっくりくる概念がありません。
だからいっそ老荘の「タオ(道)」のようにそのまま「空(kuu)」を使ってしまうもいいかもしれません。
それでも何とか表そうとか努力はしています。
先ほど説明したよう唯名論(名前、記号、象徴)と言ったり経験論(タブララサ)と言ったり観念論(観念、精神)と言ったり現象学(現象、現前)と言ったりします。
構造主義の時代になると構造といったりレヴィ=ストロースのようにブリコーラージュと言ったり、ラカン理論ではボルメオの輪とシェーマLという図式を使って(象徴界と想像界と現実界からなるもの、小文字のaと大文字のA)と言ったりします。
フーコーは「終わり(人間の終わり、歴史の終わり)」みたいな言い方をしています。
現代数学では「無定義語」「無定義概念」でしょうか。
ポスト構造主義の三大巨頭と言えばフーコー、デリダ、ドゥルーズとガタリですがデリダは差延という言葉を使っていてこれが近いかもしれません。
脱構築とかいう言葉も使うので「構築」でもいいかもしれません。
ドゥルーズとガタリは「(身体なき)機械」「リゾーム」「ノマド」「粒子」などいろいろな方法で「空」に当たるものを表現しようとしているように見えます。
まあもしかしたらどれも部分的に空の側面を表現できているのかもしれませんがどれももう一つと言えばもう一つな感じです。
ちなみに空は「無」とか「虚」とかとも違います。
老荘などでは「無為」などの概念がありますが全然別物です。
中国古典(中医学、兵法など)を読んでいると虚実という言葉が出てきますが「虚」とも違います。
他方で大乗仏教国である日本などは空をなかなか面白い形で使っています。
例えば日本人蘭学者が「空気」という言葉を作りましたがこれが社会的になかなか面白い使われ方をしています。
日本人学者で聖書文献学の専門家でもあった山本七平氏の『空気の研究』という本が有名ですが、空気読めない(KY)、空気を作る、空気に水を差すなどです。
聖書に「人は空気(プシューケー、息、サイコで精神)と水がないと生きられない」という言葉がありますがなかなか含蓄の深い言葉です。
・結論
現代哲学は大乗仏教の三諦論と同じものです。
現代哲学は構造主義とポスト構造主義からなります。
ポスト構造主義は非実在論系の構造主義と実在論系の哲学とその他からなります。
大乗仏教の中核をまとめた天台智顗の三諦論では「中」「中観」「中道」と「空」と「戯(仮)」からなります。
細かい部分はおいておいて上記を直接対応させると「現代哲学」=「大乗仏教」、
「ポスト構造主義の核心」=「中」「中観」「中道」
「ポスト構造主義」=「実在論系哲学」+「構造主義」+「その他(無視してよい)」
「構造主義」=「空論」
になります。
この対応と図式を理解してもらえると大乗仏教や現代哲学がわかりやすいのではないかなと思い拙稿をまとめさせていただきました。