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  • 2025年6月30日

日本文化に流れる精神性(Japanism)——「空気」から読み解く現代哲学、仏教、数学

こんかいは趣向を変えてジェミニ、オープンAI、私が自分で書いたものの3バージョンで投稿します。

ジェミニ版

日本文化に流れる精神性(Japanism)——「空気」から読み解く現代哲学、仏教、数学

はじめに:現代思想への多様なアプローチ

現代思想や哲学を理解する道は一つではありません。哲学書を紐解くのは王道ですが、それ以外にも多様なアプローチが存在します。

例えば、現代思想と驚くほど構造が似ている大乗仏教、特にその核心である「空(くう)」や「中観(ちゅうがん)」の思想を学ぶこと。あるいは、現代哲学とは異なるルール(無矛盾律)の上になりたってはいるものの、その思考の根幹に共通点を見いだせる現代数学の世界を探求すること。

そして、本稿で特に光を当てたいのが、日本文化そのものを通して現代思想を理解するというアプローチです。近年、世界中から日本への関心が高まる中、日本の生活や文化に溶け込んでいる独特の精神性、いわば「Japanism」を解き明かすことが、現代思想、ひいては大乗仏教や現代数学の根底にある世界観の理解に繋がるのではないか。本稿では、このユニークな視点から論を進めていきます。

1. 「空気」という謎:日本文化の特殊性

構造主義の創始者の一人である文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースは、日本を「比類がない」と評しました。これは単なる賛辞ではなく、日本の文化が他に類例を見ないほど特殊である、という意味です。

では、その特殊性とは何でしょうか。その謎を解く鍵として、評論家・山本七平がその著書『「空気」の研究』で深く考察した**「空気」**という言葉に着目します。

山本は、戦艦大和の元関係者が語った「当時の“空気”を知らない者には何も話すことはできない」という言葉をきっかけに、「空気」が持つ抗いがたい影響力について論じました。私たちが日常で使う「空気を読む(KY)」という言葉の源流は、この山本の研究に遡るとも言われます。なぜこの言葉がこれほどまでに日本社会に定着したのでしょうか。それは、「空気」が日本人の精神性の核心に触れる、極めて重要な概念だからに他なりません。

2. 「空気」の正体:感じる文化とロゴス中心主義の対比

「空気」とは、一体何なのでしょうか。

この言葉は「空」と「気」という、東洋思想の根幹をなす二つの漢字から成り立っています。「空」は大乗仏教の中心概念であり、「気」は中国思想、特に宋学の理気論などで論じられる重要な概念です。現代日本語で「空気」は、五感では捉えきれないけれども、確かにその場に存在し、人々に影響を与える何かを指します。

ここに、「感じる」ことを重視する日本文化の特性が表れています。日本では、論理的に説明できるか、実在が証明できるかということ以上に、「どう感じるか」が重要視される傾向があります。そして、その感じたものを、言語、芸術、あるいは沈黙といった様々な形で表現(あるいは非表現)するのです。

これは、世界の多くの文化、特に啓典宗教(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)の伝統とは対照的です。これらの宗教では、神は唯一であり、その教えは聖典という「言葉(ロゴス)」によって絶対的なものとして記されています。そこでは、書かれたテクストが全てであり、行間や文脈(コンテクスト)を読み解くことは原則として推奨されません。個人の「感じ」よりも、啓示された「言葉」が優先されるのです。これをロゴス中心主義テクスト原理主義と呼ぶことができるでしょう。

一方で、数学やプログラミングのように、文脈を徹底的に排除し、記号の論理だけで成り立つ「無コンテクスト」な世界も存在します。日本文化は、これらのどちらとも異なる、極めて文脈(コンテクスト)を重視するハイコンテクストな文化なのです。

3. 言葉の不完全性と八百万の神々:日本文化の構造

日本文化の根底には、二つの重要な認識があります。

第一に、**「不立文字(ふりゅうもんじ)」**という禅の言葉に代表されるように、「本質的なことは言葉では完全に表現できない」という思想です。言葉(シニフィアン)は、それが指し示したい本質(シニフィエ)を完全には捉えきれない、不完全な道具であるという認識です。

第二に、さらに踏み込んで、その**「表されるべき本質(シニフィエ)」すらも、固定的・絶対的なものではない**という感覚です。全てのものは常に移り変わり(無常)、確固たる実体はない、と考えるのです。

この二つの認識を前提とすると、日本人の精神世界が理解しやすくなります。日本人は、ある場所や物に神聖な「感じ」を抱いたとき、そこに絶対的な神の実体を見るのではなく、その「感じ」そのものを尊びます。そして、別の場所でまた異なる神聖な「感じ」を抱けば、それもまた個別の神として矛盾なく受け入れることができます。

そこには「神は一つでなければならない」という排他的なルールは存在しません。結果として、あらゆるものに神性が宿るとする**「八百万(やおよろず)の神」「山川草木悉皆仏性(さんせんそうもくしっかいぶっしょう)」**という考え方が自然に生まれてくるのです。これは、神道という、日本列島の歴史以前から続くかもしれない古層の精神性に深く根差しています。神道の教えを突き詰めると「穢れを祓い、清浄を保つこと」に行き着く、と喝破したのは作家の司馬遼太郎でした。

4. 哲学としての大乗仏教と神道との共存

日本は世界でも稀有な大乗仏教国です。そして、日本の大乗仏教はしばしば「宗教というより哲学ではないか」と評されます。特に中観派の**「空論」や天台宗の「三諦論(さんだいろん)」**は、極めて高度な哲学的思索の体系です。

これらの思想は、私たちが素朴に信じている「現実は確かに存在する」という見方(実在論)を否定しません。しかし同時に、全ての事物は固定的実体を持たない「空」であるという視点、そしてその両者が対立なく成り立つ「中道」の視点を提示します。

重要なのは、大乗仏教は神の存在を否定しない、ということです。神がいるかいないか、という問い自体をいわば「スルー」するのです。この**「どうでもよい」という態度**が、大乗仏教が神道と自然に融合(神仏混淆)し、さらには排他的唯一神教とも(理論上は)共存できる理由です。

対して、排他的唯一神教の側から見ると、仏教や現代哲学の考え方は脅威に映ることがあります。なぜなら、自らの聖典や神の絶対性を「空」の視点から解体(脱構築)されかねないからです。聖書やクルアーンは、行間を読んだり、そのコンテクストを探ったりするものではなく、書かれた言葉そのものが真理である、という前提に立っています。したがって、仏教側が相手を否定しなくても、啓典宗教側が防衛的に仏教を退ける、という構図が生まれやすいのです。

5. 「空気」の再考:現代思想との共鳴

ここで再び「空気」に立ち返りましょう。「空気」を、仏教や現代思想の言葉で読み解いてみます。

  • 空(くう):これは大乗仏教の「空」であり、ポスト構造主義の哲学者ジャック・デリダが提唱した**「差延(さえん)」**の概念にも通じます。意味というものは、他の言葉との差異のネットワークの中で常に先送りされ、決して確定しない、という考え方です。それは、事物の同一性や恒常性を前提としない、日本文化のOSそのものです。
  • 気(き):これは中国思想における物質的・エネルギー的な側面を担う概念です。全てのものが「空」である、というだけでは捉えどころがありませんが、そこに「気」という具体的な現れの側面を組み合わせることで、より豊かに世界を理解できます。釈迦が説いた十二因縁生起では、「気」は私たちの感覚(名色、六処、触、受)が生まれ、リアリティが立ち上がってくるプロセスに関わる要素と解釈することも可能でしょう。

このように考えると、日本人が「空気」として感じ取っているものは、構造主義やポスト構造主義といった現代哲学の思想体系と全く同じ構造を持っていると言えます。そしてそれは、大乗仏教の「空」や「中観」の思想とも軌を一にしています。さらに、これらの思想から「矛盾を許容する」という要素を除けば、対象とその関係性だけから世界を構成しようとする**現代数学(特に圏論など)**の考え方とも地続きなのです。

6. 山本七平「日本教」論を超えて

昭和の論壇をリードした山本七平は、日本社会を動かす見えざる規範を**「日本教」**と名付けました。これは、「日本人は無宗教で倫理がないのか」という外国からの問いに対する、彼の答えでした。キリスト教徒としての素養を持つ山本は、日本にも聖書のような成文化されていない原理原則(ロゴス)があるはずだと考えました。

しかし、思想史家の会田雄次は、山本の方法論を「なんでも原理原則にしようとしすぎだ」と的確に批判しています。日本文化を、西洋的なロゴス中心主義の眼鏡で分析するには限界があります。むしろ、固定的な中心を持たず、結び目(ノード)と関係性(リンク)が絶えず変化し続けるネットワークのようなものとして捉える方が、その本質に迫れるでしょう。それこそが、ポスト構造主義的な分析方法であり、本稿で一貫して示してきた視点なのです。

おわりに

日本文化、日本語、そして日本人の精神性は、一見すると非論理的で曖昧に見えるかもしれません。しかしその根底には、神道、大乗仏教、そして現代哲学や現代数学とも共鳴する、極めて洗練された思想構造が流れています。

現在、AI技術は論理と数学を基盤に驚異的な発展を遂げています。AIが人間のように「矛盾」を抱え、扱えるようになるにはまだ時間が必要だとされています。もしその段階に至ったとき、AIは初めて、これまで人文科学が扱ってきたような、論理だけでは割り切れない複雑な世界を真に理解できるようになるのかもしれません。

そのとき、世界の誰もが、日本人が古来より「空気」として感じ取ってきた世界のあり方を、新しい形で理解することになるのではないでしょうか。

チャットGPT

人にもわかりやすい日本文化=Japanism、空気、現代哲学、仏教、数学の関係

【現代思想を理解する方法】

現代思想や哲学を理解する方法は主に以下の4つがあります。

① 現代哲学そのものを直接学ぶこと。 ② 大乗仏教(特に空論、中観論、三諦論)を学ぶこと。これらは現代哲学と本質的に同じ内容を持っています。 ③ 現代数学を学ぶこと。現代数学は無矛盾な対象のみを扱いますが、その方法論は矛盾を含む現代哲学にも適用可能です。 ④ 日本文化論、日本人論を学ぶこと。

近年、日本の漫画やアニメなどが世界中で人気を集め、日本への関心が高まっています。この日本文化への理解を通じて、現代哲学や大乗仏教、そして現代数学の考え方を外国の方にも理解していただけるように解説します。

【日本文化の現代思想的特性】

文化人類学者レヴィ=ストロースは「日本は比類がない」と述べました。これは日本が特殊で他に類似の国が存在しないという意味です。この特異性は「空気」というキーワードで理解できます。

【山本七平と「空気」の概念】

「空気」という言葉は幕末の蘭学翻訳で初出し、現代的な意味で定着させたのは評論家の山本七平です。彼の著書『空気の研究』は、戦艦大和の責任者の言葉「当時の空気を知らない者には何も話すことができない」から始まり、日本人にとって「空気」が極めて重要であることを示しています。

【「空気」の哲学的背景】

「空気」は深みのある言葉です。「空」は大乗仏教の核心である空論の中心概念で、「気」は中国哲学(特に宋学の理気論)で重要な役割を果たしています。

日本文化は感覚を中心とし、それを象徴化・記号化・言語化することを重視します。しかし日本では「感じること」自体が実在するかどうかよりも重要です。表現の困難さ、曖昧さを受け入れる点が日本文化の特徴で、テクスト中心の文化とは異なります。

【日本文化の核心:不立文字】

日本文化の根底には「不立文字」、すなわち言葉や記号では本質を完全に表現できないという認識があります。これはシニフィアン(表すもの)が常に不完全であることを意味します。同時にシニフィエ(表されるもの)もまた無常で定まらないものであり、日本人はこの曖昧さを当然のことと捉えています。

【神道と日本人の精神性】

日本では何かに神聖さを感じたとき、それを個別の神として認識しますが、絶対的な唯一神や排他性を伴わず、律法のような規定もありません。そのため八百万の神々や山川草木悉皆仏性という世界観が自然に形成されます。

神道の唯一の明確な教義は「清浄」であり、司馬遼太郎は「きれいにすること」がその本質と指摘しています。神道には教義的なものは少なく、むしろ歴史的な積み重ねが特徴です。

【大乗仏教の特殊性】

日本は世界的に見ても稀有な大乗仏教国です。大乗仏教はその教えの核心を「空」としており、宗教というより哲学的な性格が強いとされています。中観論や三諦論は実在論を否定せず、神の存在も問題にせず、排他的唯一神教とも共存が可能です。ただし、唯一神教側が仏教や神道を排除する傾向があります。

【日本語と日本文化の相互関係】

日本語は音素や音節が比較的少ないため、同音異義語が多く、テキストだけで正確な意味を伝えることが困難です。そのため日本人は文脈や空気(コンテクスト)を非常に重視し、非言語的コミュニケーションを多用します。これが日本語および日本文化の特徴を形成しています。

【空気の哲学的・構造主義的解釈】

「空気」の「空」は仏教の空論であり、デリダの差延、原始仏教の無常・無我にも通じます。「気」は朱子学での物質やエネルギーの概念と重なります。空論や構造主義における曖昧性や不確定性が、日本人の文化や感性に非常によく合致しています。

【山本七平の「日本教」と日本文化分析】

山本七平は、日本人の規範意識を「日本教」と名付けました。しかし日本文化は固定された原理原則ではなく、常に変化するネットワーク的なものであるため、現代思想やポスト構造主義の分析方法がより適しています。

【まとめと展望】

日本文化、日本語、日本人の精神性は、現代哲学、大乗仏教、神道、現代数学と共通した基盤を持ちます。現代数学はまだ矛盾を扱いませんが、将来的にAIが矛盾を処理する能力を獲得すれば、人文科学や社会科学も数学的に扱える可能性が高まり、日本文化的な理解がますます重要となるでしょう。

原文

人にもわかりやすい日本文化=japanism、空気、現代哲学、仏教、数学の関係

・現代思想を理解するには?

 現代思想、哲学を理解するには1つはそれ自体を学ぶ方法があります。

 また現代哲学と全く同じ思想である大乗仏教の空論、中観論、そしてそれらをまとめた三諦論を学ぶ必要があります。

 そして現代哲学と全く一緒ではありませんが半分だけ一緒の内容である現代数学を学ぶ方法があります。

 半分だけ同じというのは現代数学は無矛盾なものしか扱わず矛盾のあるものは対象外だからです。

 現代哲学は矛盾のある対象も扱うからです。

 でも現代数学の基本がわかればそれはそのまま矛盾のある対象にも同じ方法で適用できるので現代数学から現代哲学を学ぶことができます。

 そして最後に日本論、日本人論、日本文化論を知ることで現代哲学を学ぶことができます。

 それ以外にも学ぶ方法はあると思います。

しかし最近はインバウンドや漫画やアニメの影響力も強くなり日本に親近感や興味がある外国人が増えたこと、日本人自身でなく外国の人が日本を知ることで現代哲学を学んでもらえたらという視点から現代哲学の、ひいては大乗仏教、現代数学の考え方を理解してもらえたらということで解説します。

・日本文化はやはり現代思想的

「日本は比類がない」これはレヴィ=ストロースという構造主義の草分けともいえる有名な思想家・文化人類学者の言葉です。

 誉め言葉のようですが言葉そのまんまの意味で受け取ってもらっていいです。

 特殊で他に似た国がないという意味です。

 何が比類がないでしょうか?

 いろいろ意味はあると思いますがちょっと昔大ブームだった日本人論からまず始めます。

・山本七平の「空気の研究」

 「空気」というのをキーワードに解説します。

 「空気」は幕末に蘭学か何かで化学やらの翻訳でが初出だそうです。

 その後現在の「空気」というKYとか社会、日常的な言葉の使い方のもとを作ったのが1970年代頃の日本人学者で、聖書の文献学の出版社を経営していた評論家の山本七平です。

 「日本人とユダヤ人」という本で社会的流行を起こした人物です。

 昔は日本人論という分野が流行っていて出版界でも一つの大きなジャンルをなしていました。

 『空気の研究』の冒頭では戦艦大和の責任者(多分船長は艦とともに死んでいると思うが)の「当時の空気を知らない者には何も話すことはできない」というセリフから始まります。

 そのそこでいう「空気」とは何か、から論旨を展開させていきます。

 現代の空気の使い方は当時にもあったのですが山本七平以降は日常語として定着しました。

 なぜ定着したか?

 多分それが日本人にとって重要なものであからです。

・空気とは

 空気とは非常に深みのある言葉でもあります。

 「空」という感じは日本語ではいろいろ使われますが倫理学では大乗仏教の中核の「空論」の中核概念です。

 「気」も相変わらず中国思想の中核概念です。

 現代中国の共産主義では伝統はすたれているかもしれませんが。

 特に宋学の理気論などで有名です。

 現代の本では空気とは五感ではとらえられないけど存在して影響するものという意味でつかわれます。

 もちろん科学的というか物理的な英語でairの空気の使い方もありますがそれは置いておきます。

 日本は感じる文化です。

 感じたものをときに象徴化、記号化、言語化、表現化を行います。

 もちろん感じたままで表現しない場合もあります。

 実在するかより感じるかどうかが肝になります。

 感じたものを表現するのが日本文化の特徴です。

 「そんなことどこでもやっているじゃないか」という意見があるかもしれません。

 しかし感じたことをは表現できない文化があります。

 表現してはいけない、あるいは気づかない、スルーしてしまう、表現方法が分からない、あるいは何かを感じても自分の潜入観や既存の枠組みで強引に意味づけして強引に解釈してしまう、その他さまざまです。

 例えば神秘体験や超常体験、何かに聖性や神性を感じた場合です。

 世界の主要な宗教である排他的唯一神教であるキリスト、ユダヤ、イスラム教などはこれを宗教内に取り込むか無視する、あるいは気づかないか、異端として排除します。

 これはそもそもが排他主義であること(神は唯一の神であって唯一神の他は神にしてはならない)という律法があり、何かに神性や聖性を感じてもそれを神として扱ってはいけないというルールがあります。

 もう一つは聖書の絶対化です。

 これは書かれたものの絶対化、文章の絶対化、ロゴスの絶対化になります。

 テクストがすべてでコンテクストや行間を読むとかいうことは原則排除です。

 テクストで表せることが全てです。

 しかし所詮自然言語では不可能ですのでそういうのをハイコンテクスト文化といいます。

 テクスト、ロゴスだけで行間、空気、コンテクストを読まなくてもいい分野もあります。

 数学、論理、情報科学、コンピュータ、AIなどです。

 これらは逆に無コンテクスト文化で純粋なコンテクスト文化(文化と言えるかわかりませんが)です。

・日本文化

 

 日本文化の大枠は一つは全で言うところの不立文字です。

 言葉を使っては完全には表せないのが本質的なことであるという認識です。

 もしかしたら完全に表せることもあるかもしれないがまあ自分や周りの人には無理だろうという感じです。

 この「感じ」というあいまいなのが日本人のまた別の重要、というか本質的な特徴になりますが後記します。

 言葉を広く使うと記号では表せないということになります。

 言葉どころかほかの方法でも表せません。

 美術的にも表せないし音楽でも表せないし、道具や素材を使っても表せないし、非言語的コミュニケーションでも表せません。

 表すものをシニフィアン、表されるものをシニフィエと言います。

 つまりシニフィアンというものはそれが何であろうと不完全なものであるし、シニフィエを完全に表すことはできないということです。

 第二にこれに対照的なもう一つの原則があります。

 日本ではシニフィアンだけではなくシニフィエも完全ではないものとみなされます。

 つまり完全な実体、あるいは不完全な実体、もっと言えば実体そのものがあるのかという感覚があります。

 仮にあるとしても無常で定まらないものと考えたりします。

 そして後記するといって引き延ばしてもなんですからここで書きますが、日本人は「感じる」や「感覚」や「感性」の世界に生きています。

 こういうのを総合すると日本人は何か神聖なものを感じた時に何か神聖なものがあるのかなくらいには感じてそれを神と考える場合があるが考えない場合もあります。

 すると神聖感を感じた時、あるいは神聖感を感じるものに対して個別に神と認識することになります。

 特に別の事物にそれぞれ神聖感を感じてそれをそれぞれ神と感じても矛盾はありません。

 またそれを否定するような排他的唯一神教のような規定もありませんしそれを明示する生文書としての律法みたいな規定もありません。

 結果八百万の神々になりますし山川草木悉皆仏性となります。

 ちなみに八百万というのは単に数がものすごく多いという意味で実際に数がピンポイントに800,000柱あるという意味ではありません。

・神道

 日本では宗教とか神の概念が根本的に世界の主流の啓展宗教(排他的唯一神教=啓展宗教)と違うのでいわゆる無神論とか無宗教とか言う言葉が外国人が何と言っても意味を成しません。

 日本人は神聖な感じがしたらその感じを意識的・無意識的に影響を受けて生きています。

 それを神と考える場合があるかもしれませんがそれに特に深い意味付けはしません。

 感じたから神はいる、以上の発展は各自が勝手にすることですし、感じたけどそれは神とは別の何かと感じてほったらかしの場合も多いです。

 そんな日本人は例えばキリスト教の神に神性さを感じる時があります。

 だからキリスト教の神を信じてもいいのですが、律法にキリスト教の神以外を神としてはならないという排他条項が明記しているのでキリスト教徒としてキリスト教徒のコミュニティに入ることができないだけです。

 個人レベルでは、あるいは日本人同士ではキリスト教の神をほかの神と同じように敬っている人もいるのではないでしょうか。

 キリスト教が日本人を仲間に入れてくれないだけで、日本人がキリスト教やキリスト教の神を否定しているわけではありません。

 神道に協議があれば「きれいにすること」だけです。

 これは司馬遼太郎氏の見解でした。

 「穢れを清める」みたいにつかわれます。

 はれとけが昔からの概念か知りませんがこれは清浄とは関係ありません。

 倫理の教科書を読むと上古、あるいは先史時代から日本人は清く明けき心を大切にしてきたと記載されています。

 清明心といいます。

 でも多分古事記や日本書紀に明記されているわけではないでしょうし教義と言えるのか疑問であり、かつまた教義というものが必要という考え方はある種の文化圏には必要であっても日本には必要ないかもしれません。

 また注目すべき点は神道が歴史以前からあるということです。

 先史時代の縄文時代かもしれませんし旧石器時代かもしれませんし、もしかしたらアフリカから人類が出ていくときにはすでに持っていた感覚かもしれません。

 文献学書誌学で大阪の懐徳堂の富永仲基という人が過上説というのを唱えています。

 文献は歴史とともに新しい部分が加えられていくという説です。

 その過程で古いものの変質はあるかもしれませんが基本的になくなりません。

 古いものが保存されて新しいものが積み重なるというのは現在の神道を形作るとともにに日本文化の特徴でもあります。

・大乗仏教

 日本は世界唯一の大乗仏教国です。

 北伝仏教でブータンや一部ネパール、モンゴル、チベットなどありますが、日本ほどの大国が大乗仏教国なのが稀です。

 唯一神啓展宗教が主流の世界ではこれ自体が極端に特殊なことです。

 一応世界三大宗教などと言われていますが、国際的な宗教としての影響力はまさに空気ではないでしょうか。

 これはある意味当然の帰結で教え自体が「空」を核心としています。 

大乗仏教を宗教と呼んでいいのか?というのは昔から根強く世界中で議論されています。

 宗教というより哲学ではないかというのが一部の欧米人の見解です。

 原始仏教、部派仏教、大乗仏教、天台仏教あたりまではそれで正解です。

 一部の仏教はかなり違う考え方をしますので浄土系の宗教に「これは仏教か?」と欧米の浄土系仏教の解説の最後に書かれていたそうです。

 大乗仏教の中観派の空論や中観論、天台仏教の三諦論は空と中観に我々の普通の認識方法である実在論やシュミラークル・シミュレーションの見方を足して三者の関係をまとめたものです。

 中観派や三諦論では実在論は否定しません。

 ですから神の存在も否定しません。

 ただ神の有無はどうでもどっちでもいい感じになります。

 神がいないと言っているのではありません。

 無神論でも不可知論でもありません。

 神の有無はパッシングです。

 つまり大乗仏教的にはどうでもいいのです。

 ここが神道などと宗教混交が可能なポイントです。

 排他的唯一神教とも共存可能です。

 一応救うための教えですから根本の教義は哲学であっても何らかの恣意性が多い精神的な支えというか芯となるような思想があるようになりやすいというか教団、あるいは共同体を作ったり布教をすることにするとして組織として活動するにはルールを人為的に作るかどこかからとってくる必要があります。

 人間なかなか無規範では個人的にも集団的にやっていきにくい面があります。

 現代思想で脱構築とした後、それはそれとして自分の生き方やポリシーやスタイルを選んだり何か自主性、主体性、自覚、覚悟を持つのが求められる場合があります。

 そういう場合に既存の物を持ってくるのか自分で構築することになります。

 空論や現代哲学みたいな思想は別に生き方や行動規範を示すものではないので何かセットでそういうものを組み合わせてそれで生きる、生活することになりがちです。

 お釈迦様も悟りの中核ではない道徳みたいなものを作ったか持ってきましたし、日蓮などは典型的で哲学は三諦論、生き方は法華経です。

 仏教と排他的唯一神教は両方を同時に信じても矛盾しません。

 構造主義と実在論を両方信じていても矛盾しないのと同じです。

 しかし仏教や現代哲学と手を組むのは排他的唯一神教の方が嫌がります。

 神とか聖書とか律法を脱構築されてしまうリスクがあるからです。

 別に神や聖書や律法は脱構築せずスルーでもいいのですが、人間なんでもやってみたくなる好奇心のある生き物ですからそういうことをする信者が出てきたり増えたりすると啓展宗教は困ります。

 テキストを脱構築されたり行間を読むようになるからです。

 聖書にせよミシュナにせよクルアーンにせよ行間を読むものではありません。

 コンピュータのソースコードのようにそのまんまでなければいけません。

 テクスト原理主義です。

 コンテクストリーズニングなどは排除するのが啓展宗教の革新です。

 ロゴス絶対主義ですなわちテクストがすべてでコンテクストなど人の想像が入り込む余地は本来ない教えです。

 啓展宗教を信じて大乗仏教も信じてかつ神や聖書や律法に対して空論や中観論の使用を禁止するルールを設定すればいいのですがルールを破られる可能性が大きいのでやはり啓展宗教とは矛盾せず独立な考え方に対しても現実的には防衛のため排他的で排除の対象になることになります。

 仏教側が啓典宗教を否定せず啓典宗教が仏教を否定するのは神道が排他的唯一神教と否定せず排他的唯一神教の方が神道を否定するのと同じです。

 啓典宗教といえどロゴス絶対主義、テキスト絶対主義でないあり方もあるとおもうのですが現実と歴史で示すようになぜかそうはならない傾向が強かったです。

 ちなみに日本は聖徳太子が神仏混交したとか本地垂迹説で宗教混交したとかいう説もありますが、そういうのがなくても哲学である大乗仏教と、宗教か道かはわかりませんが神道と両方に帰属するのは矛盾しません。

・日本とは日本語

 山本夏彦というエッセイイストがいました。

 週刊文春でコラムを書いていましたが彼の著作に「国語読本」というのがあります。

 それに「日本とは国語だ」みたいに書いていました。

 言語は人間に影響を与えます。

 例えば音素数、音節数、文字数などが言語を規定する以上に使用者の精神を規定します。

 音節が少ない言語を考えましょう。

 これは同音異義語が多くなります。

 あるいは意味を細かく分けるために言葉が長くなります。

 単語に含まれる音節数を多くする必要があります。

 たくさんの音節を発話するために早口になったり文章が長くなるかもしれません。

 他方で同音異義語が多い場合はどうなるでしょうか?

 ある文に同音異義語が含まれている場合、その分だけでは分の意味を確定できなくなることが多くなります。

 書き言葉であろうと話し言葉であろうとテクストだけでは明確な一つの意味を持たなくなります。

 文の意味に多様性というか解釈が複数存在することになります。

 とするとテキスト、文の意味に対する信頼性が何か厳密低下します。

 極端な例でいえば記号二つの2進法のような言語があってもいいのですが長くなりすぎて現実的ではありません。

 かといって音素や音節や記号が多い言語は短くても比較的正確で一意的な意味を表しやすい、と言えるかもしれません。

 しかしやはりコンピュータのようなデジタルでは所詮ないので一意的に正確な意味を表せているようで完全には無理です。

 自然言語では不可能でコンピュータのような徹底的な形式主義、つまり記号列以外に意味はないのを徹底化するしかありませんしそれでは矛盾は非言語的、ありは文脈、コンテキストは表せないので自然言語ではまず不可能、できると思っているなら勘違いです。

 ある種の言語や文化圏はテキストですべて表せると思わっているロゴス中心主義が特徴です。

 日本は言葉をやたら長文化するわけにはいかないのでどんなに早口でしゃべろうが言葉にできる量に限りがあります。

 よって言葉だけで意味を十分に伝えることができません。

 同音異義語もそうですがこれも言葉が十分意味を伝えないというのが日本語の大前提です。

 日本語の前提というより日本人は言葉が不完全なものだと思ってます。

 言葉で何かを自分の伝える多いまま伝えることはできないのが前提です。

 ですのでコミュニケーションは非言語的なコミュニケーションの比率が高まります。

 文脈や空気を読んだり醸成するのが大切でテキストよりコンテクストを大切にします。

 コンテクスト、つまりテクストとともにありつつテクストではないものです。

 究極的に日本人は表したいもの(シニフィエ)を、表すもの(シニフィアンと言います)で正確に表せるとは思っていません。

 言語的コミュニケーションと非言語的なコミュニケーションの道具立て、手段を総動員しても表したいことを表せるとは思っていません。

 言語は表したいものを表す道具の一つでしかも不完全です。

 そしてその表したいものでさえもあいまいです。

 あいまいというか日本人にとってはその時感じたこと、表したいことがすべて、いうべきだと思うことがすべてでそれが無常であることが普通と思っています。

・空気の研究

 空というのは空論の空でもありますが構造主義におけるデリダの差延です。

 原始仏教では無常、無我といいます。

 事物の、自己や他者の同一性や恒常性を前提とするロゴス中心主義で排他的唯一神教の文かとは別のOSでできていて動いています。

 気は宋学儒教のメインの朱子学では物質とエネルギーです。

 現代哲学的にも大乗仏教的にもあらゆる事物は空でいいのですがそれでは味気ないので気を組み合わせるのはとてもいい考えだと思います。

 気を物質としてみる見方は現代日本人にはちょっと違うんじゃないかと思うかもしれませんがもともとの朱子学では理気二元論で気が物質的なものを表しそれが変化したり動いたりする原理や法則をつかさどるのが理でこの2つだけですべてを説明する考え方です。

 実際空気は物質で実体です。

 空気じゃなくても物質や言葉やエネルギーや様々な感覚で感じられるモダリティーを空とだけいうとなんかぼんやりした感じになります。

 原始仏教の十二因縁生起では気は十二の要素のうち名色や六処に当たるものでやはり十二の要素である蝕や受により人間の感覚や感性です。

 ちなみに釈迦の因縁説(十二因縁生起)は①無明、②行、③識、④名色、⑤六処、⑥蝕、⑦受、⑧渇愛、⑨取、⑩有、⑪生、⑫苦(老病死など)からなるものでリアリティの確立、他者や対象、外部や自己の同一性や恒常性がどのように確立するかを示すものでつまり空がどのように生成するかを表すものであり中観派や瑜伽行唯識派など大乗仏教のベースになる者です。

 漠然とした感じのようなものからどのように感覚モダリティとして具体化していくかを表すものです。

 最後に空というよりは実在と人間が勘違いしてしまっているものが現れる仕組みを表しています。

 空を作るのは空なのですがそれではわかりにくいのでもう少しわかりやすく空を作るのは気と考えるととても分かりやすいです。

 空は波動方程式で気は演算子のようなものであり、また空がどんなものかを示すプロファイリングファイルのようなものです。

 ラカンのシェーマLで言えば小文字のaに相当します。

 省略しますが小文字のaも大文字のAも実在に見えますが実在とは限りません。

ほんとのところは実体でも空でもどっちでもいいですが理論的には実在論と構造主義は分けておいて混合させるのは分けておいた方が分かりやすいでしょう。

 そこら辺を整理するのがポスト構造主義になります。

 まあいろいろ書きましたが日本人の空気の文化は構造主義とポスト構造主義と同じです。

 それはまた大乗仏教の空論、中観論、三諦論ともおなじものです。

 そしてそれらから無矛盾性を許さないものにすれば現代数学とも同じものです。

 例えば圏論の米田の補題と米田の埋め込みが端的にそれを示します。

 私はまだ勉強不足ではっきり言えませんがトポスやトポス圏というものは矛盾も扱えるかもしれないそうです。

・日本教について

 昭和の時代に流行った日本人論の帝王、山本日本学とまで言われた山本七平は『日本教』という概念を提案しました。

 やはりそれを考える景気の一つは外国人に「日本人が無宗教ということは倫理がないのか?」という例の外国人からよく問われる質問だったそうです。

 しかし実際な外国人でも日本通であればあるほど日本人は秩序があり国も安定していることを知っています。

 山本七平は規範のない人間社会などありえないということで、「日本には目に見えない、言葉に語られない規範があるのだ」としてそれを日本教と名づけて日本教についての本を何冊か書いています。

 山本七平は3代目のクリスチャンで両親は無聖書主義の内村鑑三のところで勉強しており、また和歌山がルーツですが大逆事件の縁者でおそらく故郷にいづらくなって上京してきた過程で育っています。大正デモクラシーの文化学園を作った西村伊作の親戚です。

 今の青山学院大学在学中に学徒出陣して戦後は聖書学の出版社を経営して聖書学関係の本を出版したり自分で翻訳もしていました。1970年にイザヤ・ペンダサンの名前で出した「日本人とユダヤ人」という本が社会現象を巻き起こして評論家活動をするようになりました。幹部候補生としての戦争体験から本田勝一の「南京への旅」の中にある毎日新聞の「南京戦の戦闘中での中国軍軍人との戦いにおける百人切り競争」が捏造記事であることを批判して本田勝一と論争になり本田勝一が逃げ出して論争は終わりましたがその後中国政府が「南京大虐殺」なるものを作り出してプロパガンダして政治問題にする端緒になった有名な論争の当事者です。

 そのような経歴から山本七平は物事を原理原則から考えるところがありました。

 ですから日本教にもキリスト教、ユダヤ教、イスラム教における聖書やミシュナ、クオラーンやハディスのような原理原則があって単に成文化されていないだけだというような日本分析になっています。

 これは近代からポストモダンの過渡期であって、近代哲学から現代思想への変化の手前の時期だったからかもしれません。

 京都大学名誉教授で「アーロン収容所」や小野田正一の日本帰還に一役かったやはり日本人論をはじめとした評論家だった故会田雄次が佐伯彰一との対談で「なんでも原理原則にしようとしすぎだ」と批判しています。

 山本七平の原理原則を探ろうとするのは素晴らしいですが日本については聖書あるいは別の理由で西洋思想に埋め込まれているロゴス中心主義的な分析方法はなじみません。

 むしろ結節とそれをつなぐひもからなるようなネットワーク的なもの、しかもそれが常に変化し続けるものとしてとらえた方が日本語および日本文化にあっており構造主義やポスト構造主義の分析の方が適しています。順番から言えば旧石器時代や縄文時代以前からあったかもしれない神道、大乗仏教、日本、現代数学、現代哲学の順番ですが、現代数学が矛盾を扱わずそれ以外は矛盾も無矛盾も両方扱えるという意味ではすべて同じ根本思想から成り立つ考え方です。

・最後に

 日本文化と日本語、日本人の精神性は現代哲学や大乗仏教、神道、現代数学と同じものです。現代数学以外はすべて矛盾も扱えます。数学と論理学を基礎とするAIが今はいろんな分野で人間の模倣がすでに人間を追い越している分野もあるような段階で、主体性のようなものが芽生える可能性があるのがまだ10年以上はかかり、矛盾を抱えたり扱えたりするのが数十年かかるとのAI分析がありますが、そうするとある意味数学が矛盾を扱えるようになり、自然科学的な分野の実ならず、社会科学の数学をあまり使わない分野や、人文科学も扱えるようになるでしょう。