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  • 2024年12月28日
  • 2025年2月2日

かんたんな仏教の中道と中観

中道が一番大事

中道は仏教の中核的な哲学です。しかし誤解されやすいです。

中国の中庸と同じように思われがちです。

仏教の中道は中庸とは意味が違います。

中庸は間を取ることです。

中道は、どちらも断定はできない、という意味です。

すなわち中庸のある意味逆でどちらも取らないということです。

両端は、おろか間も取りません。

中観論の中観も同じです。

中観は中道観とも言います。


八正道と中道

八正道と中道はお釈迦さまの論法から関連付けられます。

八正道とは正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定を指します。しかし誤解されやすいです。

正しい道があるなら正しい道を行けばいいのでそれで理解したつもり、納得したつもりになることも多いのではないでしょうか。しかし「正しいとは何か」をきちんと理解する必要があります。

後世の大乗仏教の考え方では正しいという言葉の意味がはっきり規定されています。

それは「中観」であることです。

中観とは、考え方ですので正しい考え方をするということです。

正しい考え方とは中観的な考え方です。

すなわち現代的な言葉で言えばメタ認知です。

現代思想的な言葉で言えばポスト構造主義的な考え方です。

八正道の例

簡単のため正見だけ見てみましょう。

正しく見るとは、正しく解釈するということです。

正しく解釈するとは、中道で解釈するということです。

中道で解釈するということは断定しないということです。

何を断定しないのか。

これはなにも断定しないということです。

ある程度考えればわかることですが、私たちには断定できることなんてありません。

断定できることなんてありません」と断定しているではないか、という突っ込みもありですがここではややこしくなるので置いておきます。

仏教は本来苦しみから永遠に逃れるための方法論です。

お釈迦様が、克服しようとしたのは死んでも輪廻転生してしまうのでは転生した先でまた苦しむ可能性があるので完全に苦しみをなくせられる保証がない、という問題です。

お釈迦様は、その問題に強力な反論、対案、反例を出すことで悟りを得ます。

言い換えれば安心します。

安心したから悟りの直後死のうとしています。

お釈迦様の中では生まれ変わらなくて済むと思ったのかもしれません。

輪廻の輪を外れる」「輪廻から解脱する」これは仏教の中枢概念です。


対立仮説はもとの命題の否定を意味しない

統計学の仮説検定は帰無仮説というのを立ててそれに対する反対仮説、対立仮説をたてて、帰無仮説を棄却して対立・反対仮説を採用するという論理で成り立っています。

この場合、帰無仮説を棄却、対立仮説の採択が間違いである可能性があります。

この間違いを覚悟して棄却や採択を行います。

お釈迦様の場合で言うと輪廻転生をしない理論を見つけたからと言って、輪廻転生を否定できるとは全然言えないということになります。

そこで中道が大切になります。

統計学の仮説検定では棄却と採択で間違える確率を0.5%以下とか0.01%以下とか間違える確率を明示して、それを下げてどっかで白黒つけなきゃいけないので棄却と採択を行うというような論理、体裁をとります。

統計学の仮説検定は決着をつける方法なので間違える可能性を明示してかつ減らすことで何かの仮説を採用して何かの仮説を否定します。

これは医学や工学など、実用で使うからです。

個人的に自分の意思決定に使う場合もあるでしょう。

実用が必要なない分野では白黒つける必要がありません。

そのような場合に使う論理が中道、中道観、中観になります。

仮説が複数あっても何も採用しません。

仮説は仮説のままに置いておきます。

仮説の数が多ければそれはそれで悪くはありません。

いろいろなものの見方やアイデアがあると喜ぶといいでしょう。

多面的に物事を見る」とか、「多角的に物事を見るとか」とか、「複眼的に物事を見る」ということになります。

仏教では、この考え方を身に着けて実践を徹底させます。

それが八正道です。

輪廻転生仮説に対して輪廻転生しない仮説があるなら、どちらかを取るのではなく両方の考え方を同時にできるようにするということになります。


仏教は死生観が大切

お釈迦様の問題は死後の問題と言い換えられます。

死んだあとどうなるかです。

インドの古代思想では輪廻転生する魂のようなものをアートマン(我)といいます。

アートマンは、死んでも滅びないという考え方を常見といます。

逆にアートマンは、死んだらなくなるという考え方を断見と言います。

八正道の正見は死後に対する考え方に正見、正しい考え方で臨み、間違った考え方、悪見や邪見をしないというものです。

死後についての正しい考え方とは何でしょう?

死んでもアートマンは不滅で滅びない、常往、つねにあり続けて断滅しないという考え方だけをすることは正見ではなく悪見や邪見になります。また、死んだらアートマンは消えてなくなる、断滅して常往、永遠にあり続けるという考えすることも悪見で邪見です。

どちらかの考え方で断定せず両方の見方をするのが正見となります。

これが中道でもあって中観でもあります。

中庸のように間を取ることはありません。

そもそもこの2つには間がありません。

あるいは2つの考え方から次元を上げて俯瞰的に両者を見るのが中道観です。


仏教は相対主義の考え方を徹底的に訓練する

仏教は死生観論と書きましたが、実は死生観についてはもっとたくさんの説を上げています。

六十二見と言います。

ざっとウィキペディアで拾うと以下のようになります。

過去に関する説 (本劫本見) 18種

  • 自我と世界を常住とする説 4種
  • 自我と世界の一部を常住とする説 4種
  • 世界の有限無限に関する説 4種
  • 詭弁論 4種
  • 無因論 2種

未来に関する説 (末劫末見) 44種

  • 死後有想論 16種
  • 死後無想論 8種
  • 死後非想論(有想でも無想でもないとする説)8種
  • 死後断滅論 7種
  • 現生涅槃論 5種

見てわかるように生死、生まれる前、生まれた後などに関することがほとんどです。

死生観に関するあらゆる考え方を上げてそのすべてに中立でありつつ、すべての見方を同時にしたり、場合によっては出し入れして使いこなせというのが仏教の考え方です。


仏教の考え方

仏教の考え方」と書いてきましたがこれは特殊なもので固有名詞のように考えてください。また「仏教の考え方」を身に着けるには訓練が必要です。

何かに対して考えられるすべての考え方を列挙してそれに中立的かつ一つ高い次元でそれらを利用するというスタンスになります。

つまり仏教を身に着けるということはメタ認知を身に着けてそれを鍛えて常にメタ認知的に物事を見れるようにするということになります。

仏教の考え方」にはもう一つあって中道ではなく「」の考え方があります。

仏教の時代はインド哲学花盛りでバラモンなどの上流階級のみならず身分を超えた修行者が真理を追究した時代です。

いろいろな説が出て仏教などでは「六師外道」などと言って当時の新興思想の有力な勢力を貶めていたりします。

仏教の考え方」を現代思想的にみると実在論のようなわかりやすい通念があって、その常識を打ち破る対立仮説として「」、現代で言うと構造主義を打ち立てて、その両者を相対的に一つ上の高い目で見る止揚のようなものが仏教の考え方のシェーマになります。

」の考え方はこれも中道と同じく、あるいはそれ以上に難しいのでやはり考え方を理解して身に着けるのに修業が必要になります。

これは現代でも変わりません。

死生観におけるアートマンの常往と断滅のどちらかに断定せず両者の見方を併存させることと同じように、存在論や認識論では実在論と空の見方、現代で言うと構造主義のどちらの見方にも断定せず、否定せず、両者の見方を同時にしたり自由にスイッチするのが「仏教の考え方」という仏教ならではの特殊な考え方になります。


数学の場合

仏教も現代哲学も同じものですが現代数学も同じものです。ただ数学には場合分けがあります。また、公理があります。

いくつかの公理からできてる数学のある分野の公理を1つ変えるだけで別の数学を作ることができます。

数学も同じものですが場合分けでどんどん分岐を増やして数学の分野を増やせていけます。

仏教も場合分けが盛んで六十二見など死生観を62こにまとめて分析などしているようですが、数学の場合は集めるのではなく作るという側面が強くなります。

仏教が一応宗教たり得ているのはやはり死生観に介入している部分があるからでしょう。

それに仏教を応用すれば哲学的存在論や認識論などだけではなく幅広い哲学、あるいは宗教の問題に解答できるからでしょう。

ただ、お釈迦さんはそういうのを考えるのは後にしてまず修行をして仏教の基本的な考え方を身につけなさいと言っています。

これは直接そう答える場合もありますし、あえて沈黙する場合もありこれを「無記」ます。