- 2024年12月20日
- 2025年2月1日
やさしい仏教の因縁、縁起(十二因縁生起)
やさしい仏教の因縁、縁起(十二因縁生起)
仏教の究極奥義
お釈迦様が悟る、解脱したのは十二因縁生起、略して縁起を悟ったことによるので縁起を理解するのはお釈迦様の悟りの理解に役に立ちます。
大乗仏教では空や中観の理解があれば十二因縁生起は理解できなくてもいいのかもしれません。
十二因縁生起はそれこそ因果関係が分かりにくいので現代思想家のラカンのシェーマLのひねった図式で解釈したこともあります。
ただ素直に直線で理解するのもあり得ますし、その方が自然です。
十二因縁生起をお釈迦様の提示した順番そのままで解釈してみます。
十二因縁生起の要素と構成
十二因縁生起を簡単に書くと以下のようになります。
①無明→②行→③識→④名色→⑤六処→⑥蝕→⑦受→⑧渇愛→⑨取→⑩有→⑪生→⑫老病死(苦)
となります。
これは人間がなぜ苦しみというものがあるのかを説明するための理論です。また、どうしたら苦しみから解放されるかの理論です。
お釈迦様にとって何が問題か?
仏教は苦しみからの救済のための宗教です。
非常に目的がはっきりしています。
お釈迦様がそれを目的で理論をつくりそれを中核として教義を作っています。
お釈迦様は一回の苦しみよりも「苦しみが終わらないこと」を問題にしています。
一回だけの短時間の苦しみももちろん嫌ですが本当にそれだけで済むのであればそれが過ぎれば終わりです。
ただ、お釈迦様の住んだ世界は輪廻転生があるので死んでも「苦しむ可能性」は永遠に終わることがありません。
それ込みで問題を解決しないと問題を解決したことにはなりません。
仏教では苦をいろいろ分類します。
四苦八苦とかあって四苦は生老病死、それに愛別離苦と怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦
を加えて、八苦と言います。
問題なのは四苦の中に「生」が入っていることです。
これはいろいろ人生経験がある人だと生きていること自体を苦しいという感じを持ったことがある人がいると思いますし、お釈迦様の場合は輪廻転生があるという制度との対決の必要がありました。
輪廻転生とはいいかえれば死ねない、生き続けなければいけない制度だからです。また、インドは気候やカーストや衛星などの面で生きづらい場合がある人たちがいる地域でもあります。
ともかく仏教は苦からの解放、救済なので完全を帰せば現生にせよ来生にせよ1ミリでも苦しむ可能性があるのは困ります。
輪廻転生には行先にいろいろあって天国もあるのですがずっと言われるわけではなくまた別の世界に生まれ変わらないといけません。
輪廻転生の考えから抜け出せなければ苦から抜け出すことにはならない、というのが仏教の考え方です。
簡単にまとめるとお釈迦様の目的は苦から逃れたかったこと、そのために輪廻転生をどうにかしなければいけなかったことということになります。
十二因縁生起の素直な解釈
十二因縁生起の素直な解釈は1つ1つの過程を素直に直線的に解釈していくことです。
北伝仏教、すなわち大乗仏教は空の思想を提案したので十二因縁生起の重要性は下がっているかもしれません。
十二因縁生起は空の理解の方法であって空の結果必然的に輪廻転生の問題は解消します。また空の結果として導かれる中観(≒中道)も導かれます。
大乗仏教は空論や中観論によって宗教というより哲学になってしまいました。
一方、南伝仏教は十二因縁生起を素直に解釈します。
その結果どちらかというと超人思想のようなものになりました。
仏陀という特別な存在になることで一人だけ輪廻の輪を離れることができます。
悟ることを解脱ともいいますが輪廻転生を離れるという意味もあるのでしょう。
一人だけ特別な人間になりますから神秘主義やオカルティズムと相性がよくなります。
南伝系は十二因縁生起を直線で解釈する素直な解釈です。
北伝系か南伝系かはともかく直線で解釈しましょう。
まず①無明というのは分からないということです。
これはメタ認知とも解釈できます。
メタ認知的に物事を見れば私たちは自分が何も知らないことを知っているだけです。
メタ認知的に内面を見れば何か心の働きが働いていることは分かりますが、なんとなくわかるだけで明確にわかることはありません。
次の②行はよく潜在意識とか頭の中で働いているが意識化されない頭の働きとか解釈されます。
コンピュータの箱の内側で行われている部分で入力や出力のインターフェース以外の部分です。
その次の③識はまさに意識や認識と解釈されます。
無意識や潜在意識が働いているから意識が生まれるというような考え方です。
④名色はコンピュータで言えばコードでしょうか。
我々の通常のイメージはたとえ抽象的な思考をしている場合でも感覚的な絵や図を使っていることが多いです。
そのイメージとなる前の段階で五感や感覚となる前の段階です。
⑤六処は通常の五感です。
近くは今の私たちは視覚、聴覚、触覚、嗅覚、味覚を挙げますが、仏教では「意」というものも感覚と考えていたので六感になります。
深部感覚のようなものでしょうか。
何かに意識を向けた時私たちは意識のありか、方向性、指向性をあたかも意識が感覚であるように意識します。
その意識の実態観を近くの一つとして勘定に入れたのでしょう。
この直線モデルで厄介なのは⑥蝕、⑦受、⑧渇愛、⑨取の4つだと思います。
特に⑥蝕、⑦受、⑨取はそっくりです。
これはもしかしたらもう古くて今は別の翻訳語がつかわれているかもしれません。
その場合はごめんなさい。
ここが分かりにくくてラカンのシェーマLに当てはめて解釈したりしたこともあるのですが今回はそのまま解釈します。
その場合に使うのは発達心理学です。
特に新生児、乳児の発達心理です。
例を見ていきましょう。
例えばサルの性欲の話があります。
オスザルをメスと接触させないで大人になるとメスを見ると逃げるようになります。
メスに発情しなくなります。
メスに性欲を感じないということです。
また別の例では感覚の臨界期というものがあります。
謙譲な視力の持ち主でもある年齢まで視覚をふさいで生活させるとそれ以降に目をふさがなくなっても視力がなくなります。また新生児、乳児の観察では欲望が大人のような形ではありません。
それが成長とともに変わります。
欲望の対象を認識してそれを求めたり、嫌なことから逃れたり排除するような運動をします。
そこに至るまでには口唇の刺激によるミルクの摂取や排せつや睡眠欲でむづがって泣く段階があります。
胎児期にはおそらくそれもないかもしれません。
大人にとっては欲望があってそれを満たすのが順番として当たり前のように思われますが、胎児、新生児、乳児をみると欲望が外部、内部の刺激により作られていく様子があるように見えます。
まとめると欲望は作られるものとみることができます。
この欲望が生成される段階を⑥蝕⑦受⑧渇愛と考えてみます。
新生児に乳首を口のところに触れさせて乳児が乳首を加えて吸啜反射するイメージでしょうか。
新生児だと食欲もあいまいでミルク授乳も反射で行っていたりします。
⑧渇愛と⑨取は乳児期に入りしばらく成長してから観察できるようになります。
視覚がはっきりしてきて追視したり自分の意図で手を動かしたり好奇心が出て興味が出たものに手を伸ばして手にしてみたりします。この段階では反射によって興味や新規性探求を行っているというよりは大脳新皮質や前頭葉や連合野がかかわっているでしょう。
もちろん、新皮質以外にも欲望に関係しそうな扁桃や新皮質より下部で系統発生的にも個体発生的にも古い脳の部分は関係していると思われますが、大人に近づいたという意味での人間らしい欲求が出てきます。
感覚や運動も発達しているので欲望を感じてそれを成就する能力も身に付きますし、周りもそのサポートをします。
これを⑧渇愛と⑨受と解釈してみましょう。
このようにみると⑧渇愛は乳児にとっては作られたものでもあります。
あたかもオスザルが大人になるまでメスザルと会ったことがなければメスざるに性的欲求を持てないのと一緒です。
後に竜樹(ナーガールジュナ)が空という概念を提唱しますが、空という考えから見ればすべては作られるものです。
それと同じように十二因縁生起でも⑧渇愛は作られるものとみることができます。
赤ちゃんが欲求を満たすと欲求が満たされ満足しますがこれを⑩有と考えてみます。
⑩有も⑥蝕、⑦受、⑧渇愛、⑨受と同じように赤ちゃんと大人では若干違うと考えてみます。
発達心理学者ピアジェは自らを構造主義者ではなく構成主義者だと言いました。
構造、構成、構築、この違いはあまり重視しなくてもいいと思います。
ただ構成と構築には作るという意味があって構造と対比すれば作る点を強調しています。
⑨有を実体感、実在感として解釈してみます。
意欲、すなわち意志と欲求は成就するとリアリティを持ちます。
逆に意志や欲求があって行動しても実現しなければリアリティが低下、あるいは頽落すると見ます。
理想と現実というもので理想である限りは観念的な現実感しか持たず、理想を実現して初めて明確な現実感を持つとします。
意欲でも理想でも現実化しなければ意欲や理想が維持し続けられなければ、いつしか意欲や理想ごと求めるものの実在感も減損消失してしまいます。
この考え方では⑨有、すなわち実体感や実在感、リアリティも⑦渇愛と⑧取から作られるもの、構成される構造物と考えます。
竜樹(ナーガールジュナ)や天台智顗風に言えば空です。
実在感を持っていても⑦渇愛や⑧取の形が変わったりなくなれば変形したり消失してしまうものです。
そして⑩生もリアリティや現実感、実体感により作られたものです。
精神医学には離人症や生気感情、現実感喪失症候群、そして意志の障害である緊張病というものがあります。
昔は人間の精神を知情意に分ける習慣があって、知情意ごとに障害される疾患を分類してそれが今の精神科の診断体系にも残っています。
意欲が減弱消失する病態を離人症や緊張病としてみる考え方がありました。また、うつ病の最重症で出現するコタール症候群は意欲だけではなく知情意すべての障害ですが意欲の低下のためか自分が生きていない、あるいは永久に生き続けるという妄想を持ちます。
⑪生を「生きていると思える感覚」とすると生きていると思える感覚もやはり⑩有や①無明から⑩有までのすべての要素の結果作られたものと考えます。
⑪生があるから⑫老病死があるというのは考えようによって簡単にも難しくもそれ以外にもいろいろ考えられるのですがここでは深堀しないことにします。
南伝仏教では⑧渇愛を性欲、⑩有を受精のように解する考え方もありますがそれでは筋が通らないと思いますのでその考え方は却下します。
その考え方では苦しむのは自分ではなく自分の子供ということになって苦しみをなくすには人間が子供を作らないで絶滅すればいいという考え方になるからです。
それは、それで苦しみをなくすための確実な方法ですが自分の問題は解決しません。
仏教は心理主義
「⑪生があるから⑫老病死がある」というのはもっともな考え方ですが十二因縁生起を直線的に解釈するのに今までは心理的に解釈してきたのですからここでも心理的に解釈しないとだめです。
心理的なので⑪生は「生きている感覚」、⑫老病死(苦)は「老い、病、死の感覚、苦しみの感覚」となります。
これまでの論法で行くと「生きている感覚があるから老いや病や死や苦しみの感覚が生じる」になります。
単に⑪生とかくと「生」という一つの観念のように感じてしまいますが、「生」という感覚は実際には複雑で色々な要素から作られています。
「⑫苦」も同様で例えば「老い」の何が苦しいのかは時と場合、状況によるでしょう。
「⑩有」「⑪生」「⑫苦」の3つ合わせて大乗仏教では「空」と呼んでいます。
これを現代思想や哲学ではシミュラークルとよんだり現前とよんだり物自体とよんだりします。
簡単に言うとリアリティのあるもの、です。
しかしリアリティがあることと実在すること、実体があることは違うというのが哲学、仏教、数学の基本です。
物自体を否定するという意味ではカントより後のドイツ観念論に似ていますが、そちらは観念実在論になってしまいました。
無明とは
振り返って①無明とは結局何もわからないことの素直な原名であり、仏教では中観、哲学ではポスト構造主義、数学や論理学ではラッセルのタイプ理論みたいな感じになります。
十二因縁生起を現代的に解釈すると十二因縁生起自体が現代思想のもと、仏教の空や中観、中道の元、現代数学の無定義語や形式主義の元になります。
現代において現代的に物事を見ないものはみなフェイク、シミュレーション、捏造、改竄のリアリティに引きずられた思い込みであることは全てに通じます。
結局私たちは現実的なことについては何も分からないので謙虚になるべきですし常にメタ認知を持って対象を相対的に見なくてはいけないということです。
これはお釈迦さまも多分35歳で悟った後に重要性に気付いて教義化しています。
「中道」がそれです。
十二因縁生起から導かれるもの
十二因縁生起から現在でいう構造主義は導かれますが、お釈迦様の目指したものはもっと限定された目的の達成です。
「輪廻転生」という制度、時代の通念との結果的には対決です。
輪廻転生の否定自体は「五蘊皆空」という概念で端的に示されています。
これは人間は色、受、想、行、識という5つの要素でできているとみることができるというものです。
色は「人間の物質的な部分」を表します。
死ぬと物質的な部分は腐ったり、焼いたりして変質したりなくなってしまう場合があります。
その時点で、その人間は五蘊の一要素を失うので自己同一性を失います。
仏教では人間の物体的な要素以外に輪廻転生する魂のようなものを認めません。
つまり死んだら終わりです。
あらゆる人間は死んだら輪廻転生する必要なく苦しむ必要がなくなります。
これがお釈迦様が悟った後に死のうと思った理由であり、またその後生き延びた後も老いたり胃腸炎になって脱水症で死んでしまうという苦を味わった理由でもあります。
悟っても生きている限りは苦しむ可能性があるということです。また、死んだら必ず輪廻転生するとは限らないと穏やかにお釈迦様が死ねた(入滅)理由です。